福子の証言 弐

 走り疲れて、川の土手で少し休むことにしました。


 きっと、このまま店の者に追いかけられて、お叱りを受けるのだから、逃げたって無駄だと思ったのです。

 それに、あの男が何者なのか知るには、捕まるしかないとも考えました。

 混乱していて、今思うと自分というものを完全に見失っておりました。


 呼吸がようやく静まった時、土手の上に人の気配がありました。

 ああ、ついに追いつかれたと身を固くしておりましたら、

「福子さんだね?横川です。大丈夫、私と一緒においで」

 そう優しい声が聞こえました。

 横川さんは自分の外套を私にかけると、あたりを見渡し、通りを小走りで進みました。

 しばらく行くと、客待ちなのか、ポツンと人力車が止まっているのが目に入り、迷わず横川さんはそれに乗り込みました。

 そして、笠をかぶった車夫に行先を告げると、車は勢いよく夜の通りを走り出したのです。

「怖い思いをさせましたね。許して下さい」

 横川さんはそう言って、頭を下げました。

 そのうち、車は住宅地の中にある大きな一軒家の前で止まりました。

 もう夜も遅いと言うのに、ちらちらと明かりがこぼれているのが目に入りました。

 車を降りる時、車夫が私の手を取ってくれたのですが、急に疲れが出てしまい転げ落ちそうになってしまいました。

 その車夫が、咄嗟に私の身体を支えてくれましたが、呆れたようにため息を吐かれました。

 よく見ると、私よりも若い車夫です。

 こんな夜更けに走らされたのが不満なのか、とても無愛想でした。

「君、少し待っていてくれたまえ」

 横川さんは、若い車夫にそう言いつけると、私を家の中へと連れて行きました。

 一体誰の家なのだろうと不安に思っておりましたら、横川さんが振り返って笑いました。

「心配しないでください。ここはきっと貴女の安息の地ですから」

 安息と言われても、私は一向に気持ちが安らぎませんでした。

 庭先からコオロギの鳴き声が聞こえただけで、思わず立ち止まってしまうほど不安だったのです。

 お屋敷の中は広かったのですが、私が案内された部屋は玄関を入ってすぐのお座敷でした。

 私は急いで着物の合わせを整え、用意された座布団に正座をし、どうにか心を落ち着けておりました。

 横川さんがお茶とお菓子を持って現れると、

「寒くないですか。もう、すっかり秋ですね」

 そう言って笑いました。私はお茶を一口いただき、横川さんに頭を下げました。

「助けていただきありがとうございます」

「いや、こちらこそ本当に申し訳なかったです」

 そして、横川さんは口を引き結ぶと、ゆっくりと話を始めました。

「あなたに乱暴をしたのは、篠田善二という貴族議員です。実は私、篠田の秘書をしておりまして、日ごろから彼の狼藉に頭を悩ませていたのです。しかも、今宵は相当酒が入っていたようで……福子さんにお咎めがないよう後で私からも店に話を通しますので」

 その話を聞いて、私は幾分か安心しました。

 まさか横川さんが貴族議員の秘書を務めているなど思いもしませんでしたが、その時のお顔は、本当に困り果てておいででした。

 きっと、毎回色々な場所でお詫び行脚をなさっているのでしょう。

 私も何だか、横川さんが可愛そうに思えてきました。

「……私はもう平気です。今晩は、これで……」

 立ち上がろうとする私を、横川さんは慌てて止めました。

「貴女は苅間幸房侯爵のご息女の……苅間福子さんですね?」

「ええ」

「貴女のお父様は、篠田から投資を受けておられたのをご存知ですか?東北地方の開発用地のための……」

 私は父が事業に失敗して、多額の借金があることは知っておりました。

 しかし、それらも家財を手放して返済が終わったものだと思っておりました。

 そう話すと、横川さんはうなだれました。

「実は、その貸金の契約書もいかがわしいのです。苅間さんは業者を介していたようですが、とにかく篠田の返済は済んでいないようで……」

 私はここで初めて父が騙されて借金を負わされたことに気づきました。

 お人好しの父に付け込んだ人間たちのせいで、私たち家族はバラバラにされてしまったのです。

 ですが、世間を知らない自分たちにも責任はあったのでしょう。

 とにかく借りたお金は返さなくてはならない、何よりそれを強く思いました。

 私は、篠田のために身を売る覚悟もしたのです。

「いや、お待ちなさい。福子さん、私の話を聞いて下さい」

 私の覚悟を聞いた横川さんは、少し前のめりになって私の顔を見つめました。

「僕はね、常々、あの篠田善二議員を成敗してやらねばならないと考えていたんです」

 成敗――この大正の世にずいぶんと物騒で時代錯誤な言葉でした。

 それに、横川さんは篠田に一番近い人物、一番の忠義者だと思いましたから、私は自然とその理由を尋ねました。

「どうしてそのようなことを?だってあなたは……」

「もちろん、僕はみっともない私怨で篠田を誅しようというのではありません。これは、世直しです」

 またしても、突飛な言葉が横川さんの口から発せられ、私は思わず聞き返してしまいました。

「世直し……ですか」

「おかしいと思いませんか?真面目に一生懸命に世のため人のため尽力した人間が、陥れられ金を巻き上げられている現実を。貴女のお父様だってそうでしょう?篠田は、その立場も利用して多くの華族をたぶらかして私腹を肥やしているのです。しかし」

 横川さんは、どこかうっとりするようなお顔をなさると、小さく息を吐きました。

「篠田に騙されてしまった人々を密かに手助けし、生活を保障しているお方がこちらにお住まいなのですよ。雲日様とおっしゃいます。大変高貴な方で、多くの者が心を寄せています。僕もあのお方の清廉なお心にすっかり魅せられてしまいました。ああ、自分はこっち側の人間でありたい、とね」

 私は自分がいる場所が、その尊いお方のお屋敷だと知って急に緊張してしまい、気が気ではありませんでした。

 その様子に気づいた横川さんが、優しく笑みを向けて言いました。

「ご心配はいりません。とてもお優しい方です。最近は体調を崩して、薬に頼っていますが……あまりに多くの者が篠田に苦しめられていることを知り、奴が奪った財産を取り返すための策を練っておられるところなのです。どうです、福子さん。お父様の無念を晴らすためにも、雲日様の元で、共に力を合わせませんか」

 横川さんの熱弁に、私は気圧されてしまいました。

 確かに人からお金を騙し取っていたのなら、篠田は悪なのかもしれません。

 ですが、世直しというのは少し仰々しい気も致しました。

 何より、雲日という方がどういう人かもわかりません。

 私は並んだ畳の目をじっと見つめるばかりで、上手く受け答えできずにおりました。


 庭先の鈴虫が音を立て、草むらの葉が揺れる気配まで感じるほど静まり返った時、渡り廊下の向こうからスウッと障子戸が開く音がしました。

 しばらくして、人の足音が近づき、私たちの座敷のそばで立ち止まりました。


「……お客様、ですか」


 その声に、横川さんが慌てて立ち上がり、障子戸を開けました。


「雲日様!」


 そこに立っていたのは、長身の初老の男性でした。


 寝巻の上にガウンを羽織り、少しだけ背をかがめており、やはり体調がよろしくないのだとすぐわかりました。

 ですが、そのお顔は少しだけ笑みを浮かべていらっしゃいました。

「……お若いお嬢様をこんな辺鄙な家に連れ込んで……横川くん、時間を考えなさい」

「は、はい。申し訳ありません」

 横川さんは顔を赤らめて低頭しました。

 私は二人のやりとりを見つめておりましたが、雲日様が膝をついて私に頭を下げられたので、慌てて私も挨拶をいたしました。

「お邪魔しております。苅間福子と申します」

「初めまして、雲日寛一(くもびかんいち)という者です」

 雲日様はそうおっしゃると、右手を差し出しました。西洋式の挨拶、握手を求められて私は少し戸惑ってしまいました。

 横川さんが声を上げて笑いました。

「雲日様はかつて、政府の外交官をなさっていたそうです。その時の名残なのですよ」

「ただ、お若いお嬢さんには失礼だったかもしれません。苅間さん、申し訳ない」

 雲日様がそれはそれは悲しい表情をなさったので、私は思わずその右手を捕まえ、頭を下げました。

「いいえ、こちらこそ失礼しました。どうぞ、お気を悪くなさらないでくださいまし」

「ありがとう……」

 雲日様は少し遠くを見るような目で私を見つめたかと思うと、急に顔をしかめ激しく咳き込みました。

 横川さんが背中をさすると、雲日様は苦しそうな声でおっしゃいました。

「……どうしたのかな、急に胸が苦しくなってしまいました」

 その弱々しい笑みに、私も自分を責めました。

 ご病気の方がいらっしゃるお屋敷に長居すべきではなかったのです。

 私は慌てて謝りました。

「申し訳ございません、私ったら、土手に座り込んだままの格好で来てしまったものですから……空気を汚してしまったに違いありません」

 そこへ、横川さんが雲日様に何やら耳打ちなさると、雲日様もゆっくりうなずきました。

 横川さんは戸棚から小さな紙袋と布袋(チャリと音がしたのでお財布でしょう)を取り出すと私に手渡して言いました。

「福子さん、一つ頼まれてくれませんか」

「私に出来ることでしたら……」

「雲日様のお薬が切れてしまいそうなのです。この薬袋に書いてある漢方薬局――枯司堂(からしどう)で、飲み薬を調達してきてもらえますか。明日の朝までの分はありますので、昼ごろまでにこちらに届けば問題ありませんから……」

 横川さんは急いで雲日様を寝室に送り届けると、今度は私を玄関先まで見送りに来ました。その時、声を潜めて言いました。

「枯司堂の二階に、爆弾作りの名人が住んでいるらしいのですが、ご存知ですか」

 当然のこと、全く知らない私は静かに首を横に振りました。

「……我らの同士の話では、その名人は、軍部も欲しがるような火薬調合の才能を持っていたにも関わらず、行方をくらましてしまったのです。ただ、最近になって枯司堂の二階に下宿しているという噂を聞きましてね。篠田善二を成敗するのに必要な人材だと我々は考えております。雲日様は……反対なさっているのですが」

 爆弾と聞いて私は震え上がりました。横川さんは慌てて両手を広げました。

「我々は見ず知らずの人々を巻添えにするつもりはないのですよ。その爆薬も篠田の屋敷にある地下倉庫をこじ開けるために使いたいだけなのです。偽の借用書や、人様の家財などが眠っているはずなのでね。何、そのあたりの策は練ってあります。福子さんは薬をもらいに行ったついでに、その火薬技師の情報を探ってきてくれたら結構なのです。お礼はいたしますし、危険な目に遭わせるつもりもございませんから」

 横川さんは、お屋敷の前でずっと待っていた人力車の若者を呼び寄せると、私に深くお辞儀をしました。

 私はいつの間にか自分が横川さんや雲日様のお仲間のような気分になっており、篠田に父が騙されたこと、また暗い部屋で押し倒されたこともすべては許されるべきでないという強い想いにかられておりました。

 ですから、あの時横川さんが爆弾を用意しようと考えていらしたことも、仕方のないことだと割り切ってしまいました。

 それに、私自身が悪事に手を染めるわけではないという、今思えば無責任な考えでおりました。

 じっと待っていた車夫は、私に手を差し出しました。

 車に乗るのを手伝ってもらいながら、私は横川さんに別れを告げると、人力車は静かに夜の坂道を下り始めました。

 静かな路地に車の転がる音だけが響き、その緩やかな揺れに、いつしか私はうつらうつらと眠ってしまいました。

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