10.ろっくでもない


 蝶子は去り際、《人間のお友だち》と、確かに言わなかっただろうか。

 いつもの彼女の意味深な言い回しが、いつも以上に感じてしまった。それは、人間以外の友だちは初めてではない、ということだろうか。


 人間以外とは、つまり――とまで考えたところで、意識を向けざるを得なかった方向から「お姉ちゃん」とタイミングよく呼ばれた。心臓がつぶれそうなほど縮みあがる。歯の根が合わなくなるのをどうにか押しこらえた。もしカチカチとでも音を鳴らしていたら、おかげで聞き逃していたかもしれない。


 それほどに、わたしを呼んだときよりもずっと小さくて、消え入りそうな声だったから。


初詣はつもうで……」

「なに?」


 わたしは問い返した。焦りは残っていたけれど、緊張は水をかけた砂のように流れていく。


 妹は廊下に立ち尽くしたまま、手の中のものをじっと見おろしていた。けれど、やがて意を決したように、わたしの顔をそっと見あげた。


「初詣って、楽しい?」


 ほんの少しの期待と大きな不安。まるで祈るような目だった。新品の手袋と耳あてを、大事そうに眺めていた名残もまだそこにある。だからなおのこと、それらを守ろうとするような、奪わないでと、請い願うような姿に見えた。


 誰も奪いはしないのに。

 誰が奪うというのだろう。

 誰が?


 わたしは臆病な人間だ。恐れは黒ずんだ霧になり、真実を隠す。


 でも、わたしはもう恐れてはいなかった。

 代わりにわたしを苛んだのは、申し訳なさと愛おしさだった。


 母が妹を産むことに決めた不合理が、ずっと心の片隅にうずくまっていた。妹の首が自然に据わってさえいれば、そんなふうに思うこともなかったのだろうか。 母がわたしを産んで満足しなかった理由を知らないまま、いつまでもそれが不安だった。不安はまた、悪い想像を呼び込んだ。


 ――でも、そんなもの全部、もしかしたら本当は、わたしがこう言ってほしかっただけのことだったのかもしれない。


 母は、わたしに〝妹〟をくれたのだ、と。


「……楽しいよ。絶対」

「本当?」


 より不安の陰の差した顔で妹が訊き返す理由に、わたしは察しがついていた。たぶん、ずっと以前から。


「友だちといっしょに行けるんだもん。何だって、そう」


 彼女は、いつもなにかに耐えるみたいに目を伏せていた。

 幸福の予感は、すべて不幸の種でもあると教えられてきた。幸福に憧れようとすると、その果実の毒性ばかりを話して聞かされる。まるで、希望はつかんだ端からちて、ことごとく指の腹に刺さるものであるかのように。


 その誤りを、彼女に伝えなくてはならないと思った。なにをどう言えばいいのかわからない。微笑は長持ちせず、次第にぎこちなくなっていく。それでも、いつもの自分なら選ばないだろう返事を、無意識に返せてはいた。


 わたしを見あげたまま、妹の頬が赤く色づく。細く長く吐き出されていく息は、喜びの戸惑いに絡んで、抑え切れない震えを唇に灯す。


「行ける……かな?」

「うん? うーん……次でいきなりは、どうかな。ハードル低くないし……」

「つ、次でなくても、いいっ……」

「まずママたちに相談しないと」


 遠慮のない期待だけが占める表情から、思わず目を背けてしまっていた。こちらだって、それは面食らう。妹はこんな顔もできるのだ。


 だが今、再びくもらせていることだろう。わたしの歯切れの悪い返答のせいで。なんとか視線を戻す努力をしながら、焦燥でなく照れ隠しを装うことのできる言い回しを探す。


「ママや、パパにも協力してもらえれば、ほら、きっといい作戦が練られるから。でしょ?」

「あ……」

「なによ。そんな意外そうな顔しなくたって……ああ、もう。今日はいろいろ初めてで、疲れちゃったでしょ? さっさと寝ちゃって、明日頭がはたらくように最善を尽くすこと。ご夫婦はどうせ朝帰りですから」

「う、うん」


 頷くや否や妹は身をひるがえし、小走りで階段をのぼっていった。聞き分けのよいことだ。

 ようやくわたしも、軽く息をつく。シャワーでも浴びよう。その前に、軽く居間の整頓もしておかなくてはいけない。食事の片付けを蝶子がしてくれたことはありがたかった。わたしも予想以上に疲れていたから。


「そうだ、お姉ちゃん」


 振り返ったところへ、妹の頭が戻ってきた。その下に胴体がちゃんとそろっていたことに、わたしは不覚にも驚いてしまう。まったくもって反射的にだが、このタイミングで声をかけてくる妹は、きっと二階から首を伸ばしているものだと考えていたから。


「なに?」

「今朝ね、ママから、訊かれたんだけど……」

「うん」

「その……妹と弟、どっちが欲しいって」

「ブゥゥゥゥーッッ!?」


 声をあげるのに口を開くのが間に合わなくて、わたしの顔は盛大に爆発した。飛び出したつばきが妹を容赦なく襲う。


「お姉ちゃん、汚い……」

「ご、ごめ……いや、その……」


 頬をぬぐいながら、妹はしばらくぶりに恨めしそうな目をしていた。わたしは反射的に謝るが、頭の中はそれどころではない。灼熱と絶対零度がいっしょくたに渦を巻いている。


「……マジで、言ってたの?」

「うん。マジ」


 思わず確認してしまった。妹はどこまで理解して首を縦に振るのだろう。

 首を縦に振られてから、わたしは呆然としてしまった。唖然だ。


 確かに、一度だけのことだ。最初が最後。一度あったのだから、その次は大丈夫。次は、なにも起こらない。

 だからといって――だからといって、そうなるのだろうか。だから、でいいのだろうか。


 いいのなら――いいのだろうか。だから、もういいのだろうか。


 だったら、最初から――


「お姉ちゃん?」

「いや……ごめん」わたし……笑ってる?「なんか、どうでもよくなっちゃって」


 口元を触ろうとして、目じりに指が行く。戸惑う妹から顔をそむけて、頬がどうしようもなく持ちあがるのを感じながら、こぼれ落ちそうだったものを払い飛ばす。


 違うんだ、わたし。だって、そんなこと思ってない。

 すえちゃんが赤ちゃん抱いてるところ、絶対待ち受けにしてやろう、なんて。


「……お姉ちゃん」


 不届きな内心を悟られた気がして、わたしはできるだけ呆れているだけのような顔をして妹に向き直った。といっても、にやついてるのは隠し切れていなかっただろう。妹はそれをいぶかしむというよりは、また上目づかいの少し不安げな様子で見返して言った。


「お姉ちゃんは、ずっとわたしのお姉ちゃん?」

「え……まあ、そりゃあ」

「わたしがお姉ちゃんになっても?」


 腑に落ちる。


 誰でも最初は不安だ。

 最初を乗り越えて、人は変わる。最初が終われば、終わる前とはなにもかもが違っているような感じがする。


 わたしだって、あなたが最初だ。

 ただし、この最初は、永遠に終わらない最初だ。


「お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ。ずっとすえちゃんのお姉ちゃん」

「ずっと?」

「ずぅっと。すえちゃんがどんなに大きくなっても、いつか、お姉ちゃんどころかお母さんになっても、おばあちゃんになっても」

「いつか、別々に寝るようになっても?」


 わたしは深々と頭をさげた。蝶子もかくやというほどの角度としなやかさで。


「まだ勘弁してください。わりと切実に一人じゃ眠れる自信がないので」

「あはは。実はわたしも」


 それは知ってる。でも、わたしが彼女といっしょの方がよく眠れるのも事実だ。


 妹がどこでなにをしているかわからないと落ち着かない。妹の信頼が形でそこにないと、妹そのものがいなくなってしまうような気さえする。


 それはいずれ現実になることでもあるのだろう。妹はわたしのためだけにいるんじゃない。わかってる。わかってはいるけれど、今しばらくわたしはここにいる。最初のお姉ちゃんでいられるここに。今はまだ。いつか。ちょっとずつ。


「じゃあ、もうちょっとだけ、よろしくお願いします、お姉ちゃん」


 おずおずと顔を上げる。このときのわたしは、初詣が楽しいものかと尋ねたときの妹と、たぶん、同じ顔をしていたんだと思う。今はその妹の方が、わたしにくすぐったそうな笑みを向けている。


 この場所が心地よいのだから、ここにいればいい。ここにいていい。

 わたしたちはぐずぐずする。けれど、膝をもみほぐし、アキレスが切れないよう立ちあがるには、とても大切なことだろう。こたつの下でつないだ手を離すのは急がない。立てるようにさえなれば、最後でもいい。最後まで許してほしい。

 最初の一歩のために。次と次の次の一歩のために。


 わたしのためにいる彼女。けれど、わたしだけのためじゃない。そんなことくらい知っている。

 それでも、彼女はわたしのたからもの。




 Even a giraffe can pull the sleigh, not a reindeer, All the way!

 "my First little sister."‐fin.


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ろっくなキリンがそりをひく ヨドミバチ @Yodom_8

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