9.ろっくおん


 ルイス・キャロル自身が描いた挿し絵の中に、アリスの首が異様に伸びたものがあるらしい。偏頭痛持ちのキャロルは、ときどき目に映るものが異様に大きくなったり小さくなったり、体の一部が伸びたり縮んだりするように感じていたかもしれないという。彼のそういった体験は、『不思議の国のアリス』のエピソードにも落とし込まれている。


 ろくろっくびの正体は、幻覚か錯覚。知人の首が浮いているようなめいせきを見て、現実と区別がつかなくなっていた、なんて事例もある。夢野久作『ドグラ・マグラ』の一節はこうだ。



《夢中遊行状態の人間が夜間、無意識のうちに喉の渇きを癒すために何らかの液体を飲み、その跡を翌朝見つけた人間が、それをロクロ首の仕業であるとした――》



 妹はろくろっくび。

 けいついを持たず、コルセットなしでは首が据わらない。けれど、その首は自由自在に伸び縮みさせることができて、重たい頭も難なく支え、好きな向きへと曲げられる。行灯あんどんの油は舐めないけれど、脂っこいものが好き。


 彼女が母のおなかで一度息を引き取ったとき――うちの寝室で産声を聞いたときから、わたしの幻覚は続いているのだろうか。母がわたしを産んで満足しなかったのではないかという不安が心の闇となり、目を閉じればわたしをさいなんで、自覚のない偏頭痛を引き起こす。あふれ出して実体化する猜疑心エクトプラズムと、終わらない十三年の明晰夢ワンダーランド


「ホントに泊まっていかなくて大丈夫? ベッドも余ってるわけだし」

「せっかくですが、遠慮しておきます。ご両親不在のうちに宿泊させていただくというのも、気がとがめますので」


 わたしの申し出を丁重に断った蝶子は、真っ赤なファーブーツをはき終えてから玄関の戸口に立った。背中に負った抹茶色の頭巾と法衣が、赤白金色の装飾をやかましく鳴らして揺らす。その中身はもちろんいまりだ。

 どんな揺れや衝撃に誘われても夢の中にいつづけるスタンスを貫いたいまりは、結局蝶子におぶわれて家路につく。編みぐるみの回収はまた後日だ。


 今日は準備の時点から張り切りすぎてもいたのだろうから、あまり厳しくは言わないでおいてやろう――と、こちらが気づかっても気づかわなくても、持ち前の図太さで、明日にはなにもなかったような顔をしている。だから、このまま見送ってしまっても大丈夫。

 それがいまりだ。眠ることに限っていえば、妹ともいい勝負をする。


 その妹はといえば、眠い目をこすりながらもしっかり見送りに出てきていた。片腕に抱えているのは、新品の手袋とイヤーマフだ。いまりが作ってしまうと不公平になるので、あえての既製品だとか。「これをつけて初詣はつもうでに行けるといいですね」と軽妙な言葉も添えた、蝶子といまり連名のクリスマスプレゼント。


詩雅楽しがらきさん」


 蝶子はスマホで時刻を確認していた。彼女に、今日別れるまでに言っておかなければいけないことが一つだけ残っていた。一度呼んでから、彼女が振り返るのを待った。


「その……ごめんね、今日は。誘ったのはいまり、っていうかわたしたちだったのに、あんまりおもてなしって感じにはできなくて……」


 誘うことを決めたのは完全にいまりの独断だ。だが、わたしも引き合わされたときから特別彼女を遠ざけようとはしてこなかった。いまりの暴走に余人が巻き込まれるのを防ぐことが、学校でのわたしの役目である。なので、放任したわたしにも責はある。いまりは目覚めていてもきっと後始末をしないだろうから、代わって謝罪も請け負うことにした。こんな日に、無理に付き合わせてすまなかったと。蝶子ほどの女の子なら、他に予定があってもおかしくなかっただろうに。


「いいえ」


 けれど蝶子は、案の定、首を横に振った。「とても楽しい時間でした」


 社交辞令くらいなら、誰だって果たせるものだ。空気を読むとか、読めるとかではなく。だからわたしも「なら、よかったけど」と、素直に受け取っておく。


「来年のクリスマスにも、お邪魔してよろしいでしょうか?」

「それはもちろん。パーティーやるかどうかはわかんないけど」

「一年後といわず、そのうちまた来させてもらってもよいでしょうか? 年明けなどに」

「へ? ……う、うん。それは、かまわない、けど……」

「年明けと言わず、年越しをここで迎えさせていただいてもよろしいでしょうか? 大みそかにパジャマパーティーなども乙かと」

「……あの、詩雅楽さん?」

「やはり不躾ぶしつけでしょうか?」

「いや、そうじゃなくて…………本当に、楽しかったの?」

「はい」


 情感に乏しい蝶子の言うことは、すべて社交辞令のようにも取れてしまう。たとえ本音をむき出しにしていたとしても、建前との区別がつかないだろう。

 けれど、逆にすべてが本音だとしたら――真偽の境がないということは、真実しか口にしないということにもなりはしないだろうか。


 不意によぎったその考えを、否定するものはなにもなかった。肯定するものもなかった。蝶子はいつものように、教室の隅で窓の外を眺めているときと同じく、可憐な青白い顔をしているだけだった。


「よい子の証明など、受け取ることはないだろうと思っていました」


 溜め息をつくように蝶子が言う。わたしは、なぜ彼女に日時計の置き物を贈ることにしたのかを思い出そうとした。でも、できなかった。


「ワタクシは、瀬登せとさんのおうちにお招きいただいたというだけで、もう充分に満足だったのです」

「満足?」

「はい。しかし今は、あなた方のことをもっと知りたいと思っています。妹さんのこと、安理多さんのこと、誰よりも瀬登さん、あなたのことを」


 蝶子の言うことは結局、徹頭徹尾理解に苦しいままだ。

 わたしは戸惑って、思いつくままに「でも、誘ったのはいまりだよ?」と問うていた。「わたしなんか、どうして……」


「ワタクシにとって特別だからです、瀬登さん。なにしろ初めてできた、人間のお友だちですから」

「……へっ?」


 こちらの疑問府は出遅れて、蝶子が外を振り返るのに間に合わなかった。砂を噛みしめるタイヤの音が近づいてくる。家の前の通りにすべり込んできた車の気配は、ほどなくゆるやかに停止した。


「では、お邪魔しました。また改めて、メッセージを送るところから始めます」


 蝶子はまた、来たときと同じように深く頭をさげた。いまりを背負ったままだ。

 こちらの返事を待つことなく出ていったのは、タクシーを待たせては悪いと思ったからだろうか。「またっ」とその背中に声をかけたのは妹だ。


 瞬間、戸口に風が吹き込んで、雪を激しく舞い上げた。

 慌てて顔をかばい、腕の合間から覗く。閉じていくドアの隙間から、ほんの少しだけほころぶ赤い唇を見た気がする。横顔を縁取るその髪が、乱れ舞う雪と同じ白から漆黒に変わって見えたのは、雪の影か、ヘッドライトの逆光のせいだっただろうか。


 いずれにせよ、ドアが閉じ切ったそのあとも、わたしに口を開く余裕はまるでなかった。

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