8.めりろっくり


 耳を押し当てる。


 どん、どん。


 血潮の熱。鼓動の音。

 母のにおいがして目を開けると、眠そうな顔がわたしを見おろしていた。


 うつら、うつら。白いマフラーに埋もれた頭が危なげに揺れる。

 母が考案したマフラー型のコルセット。真似して編んだものを、去年のクリスマス、母と妹にプレゼントした。どちらにも白を。


「ママ……?」


 違うような気はしつつ、半分無意識にそう呼びかける。

 瞬間、薄目で覗き込んでいた顔が、まぶたを下ろし切って。彼女の膝の上で仰向けになっていたわたしは、見事にそれを額で受け止める羽目になる。ホワイトアウトおかわり。


「〰〰〰〰〰〰ッッッ!?」


 痛みにもだえながらもわたしは反射的に落ちてきた頭をかき抱いて、手探りで胴の上に押し戻した。

 仰向けのまま、涙でにじんだ視界をめぐらせる。周りには誰もいない。


「うぅ、クリア……」

「どうかしましたか?」

「うわぁあっ!?」


 飛び起きて一番、ダイニングテーブルの向こうの詩雅楽しがらき蝶子ちょうことばっちり目が合った。

 総毛立ちながら「……見た?」と問うと、「なにをですか?」と抑揚のない声が返ってくる。


「すみません。片づけをしていたものですから、なにか大きな音が鳴るまで気がつきませんでした」

「い、いや! 見てないならいいの、うんっ。たいしたことじゃなかったからっ」

「わかりました」


 いぶかる気配もなく、蝶子はあっさり背を向ける。流し台の蛇口から水の出る音がしていた。お皿を洗ってくれているらしい。


 再び妹の首がずり落ちないよう、彼女の頭と肩を自分に寄りかからせながら慎重に座り直す。人の眉間に額からぶつかっておきながら、妹は完全に寝入っていた。少し疲れたような寝顔で、かすかに涙の痕も残っている。気絶したわたしにずっと膝枕をしてくれていたのだろうか。


 なんとなく察していたよりもはるかに長い時間眠っていたらしく、居間の時計はそこそこ遅い時間を指していた。こたつの上の料理はあらかた片づいてしまっている。


 とりあえず妹をカーペットからソファに移そうと考えたが、金やら紅白やらをキノコのように生やした抹茶色のまんじゅうと大量の編みぐるみに占拠されていた。編みぐるみはキツネだけでなく、ネコにコアラにフラミンゴにとだいぶ多彩になっている。その山の中からいかにも満足げな寝息が聞こえる。


「終わってしまいました」


 ダイニングから蝶子が戻ってきた。あごの下で結んでいた髪は、今はほどかれている。


「いくつか起こす方法は試したのですが、かないませんでした。すみません」


 わたしと向き合う位置に蝶子は腰をおろす。そのまま三つ指を突きそうな空気を漂わせてきたので、「いいよっ、気にしないで」と慌てて手を振った。


「それより、洗いもの任せちゃってごめんね。ありがと」

「どういたしまして。と、申し上げたいところですが……」


 急に蝶子の歯切れが悪くなる。彼女が口ごもる様は非常にめずらしくて、一瞬現実感がなかった。

 目も泳いでいたし、こころなしか耳も赤い。どうしたのだろうかと当然気にかかる。

 お皿を割ってしまったのなら、正直に話してくれそうなのが蝶子だ。もっとずっとよっぽどのことなのだろうか。考えるうちに問い詰めるのも気が引けてきて、思わず意識が他へ向かう。


「それに引き替え、なんでいまりまで寝てるんだか」

「むに~うに~……このけーき、まよねずくさくね?」

「夢の中でまで失敬な。全部きれいに取ったっての」

安理多ありたさんは、妹さんを落ち着かせるのに必死でしたから、疲れてしまったのも無理ありません」と蝶子が言った。「ワタクシも、瀬登せとさんが失神してしまうほど、ああいうのが苦手だとは思っていなかったので。できるだけのことは致しましたが、本当に、面目ありません」

「あ、あー、そこは、やっぱりなんだ」


 部屋の様子と蝶子の顔色を見て薄々気づいてはいた。要するに、たばかられたのはわたし一人ということらしい。

 いつの間にかは知らないが、この臆病な妹にイタズラを吹き込むなんてことがよくできたものだ。料理を並べていたあの短時間に。


 いや、いまりと蝶子のダブルマイペースでなら、無邪気な妹を巻き込むのもさほど難しくもなかったのだろうか。などと感心していると、「特にくわだてがあったわけではないのですが……」蝶子がこちらの気持ちを察したように口を開いた。


「ワタクシがあの怪談を話しているときに、妹さんと目が合ったのです。それでなんとなく、タイミングを合わせて」

「……それだけ?」

「はい。ちなみに妹さんは、瀬登さんと安理多さんのお二人がワタクシの方を見ている隙に、頭と腕を服の中にしまい込みました。マフラーを落とさないように器用に、前のボタンをはずして顔だけ出して。安理多さんは、途中でそれに気づかれたようです」


 なるほど、とは思ったが、にわかには信じがたかった。


 いまりや蝶子の二人でなら、なんとなくででも軽いフットワークで、そういった連携もこなせてしまう気はする。

 しかし、妹は――今わたしの胸元に耳をうずめている、小ぶりな丸い頭を見おろす。


 頭を落としたふりをしたときの、彼女はどんな顔をしていただろう。


 わたしがダウンしていたこの二時間ほどの間には、わたしのクラスメイト二人といろんなやり取りがあったに違いない。だが、それ以前の妹は、彼女たちと初対面だからという理由で問題を抱えるどころの状態ではなかった。家族以外の人間とはろくに顔を合わせたことすらなかったし、家のすぐ外の世界からは遠く切り離されていた。現に不安がっていた。赤の他人とアイコンタクトで通じ合うだなんて、到底できるわけがない。


 そう、思い込んでいた。


「瀬登さん」

「はい?」

「妹さんは、一生家から出られないのですか?」


 脈絡のない問いかけ。そんなことはない、と、返事はすぐ頭には浮かんだ。

 なのに、次の声が出るまでにはずいぶんとかかってしまった。蝶子が唐突だったせいだけではなかった。


「……いつか、連れ出したいとは思ってるよ」

「なら、いつか連れ出してあげてください。妹さんは、より多くの人に愛される資質を持つ人です。ワタクシにはわかります。瀬登せとようさん、あなたの幸福も、彼女の中にある気がしています」


 わたしは口を開けて蝶子を見ていた。蝶子は終始、神妙な顔をしていた。

 蝶子の出し抜けっぷりよりも、その中身の方が何倍も衝撃的だった。そんなことを言われるのは初めてだったから。誰も、妹の本質が人から愛されるようなものだなんて、言ってくれたことはなかったから。


 妖怪変化。水子の悪霊。姉のわたしですら、妹はまれるだけの存在だと思っていた。わたしと家族以外の人間にとってはそうなるものだと。唯一、わたしたちにだけ愛されることがかなうものだと。


「……本当に、そう思う?」

「はい。サンタクロースは子どもの素質を見抜くものです。よい子の枕もとに置く贈りものとは、その証明なのです」


 蝶子の言葉によどみはなかった。


 彼女はほどいていた白い髪を、この家を訪れたときと同じようにあごの下でたばねてみせた。結び目には赤いリボンを結わえる。白いポンポンをぶらさげた赤い帽子をかぶり、赤い手袋をはめる。

 白いおひげのサンタクロース。膝の上には、レースで飾られた紙の箱。


「今日はその一つ目です。プレゼント交換とまいりましょう」


 いつもの抑揚のない蝶子の声が、まるで妖精エルフのようだと不意に思えた。

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