12時発、1時着。

野森ちえこ

幸せな胃もたれ

 午前0時48分。

 かつ 藤子とうこは人通りの絶えた住宅街をとぼとぼと歩いていた。

 クタクタだった。

 身体以上に心が疲れる1日だった。


  藤子の勤め先は入所型の介護施設――介護保険法上『認知症対応型共同生活介護』の名称で制度化されている地域密着型サービスで、利用者は医師から認知症と診断された要介護者にかぎられる、いわゆる『グループホーム』と呼ばれる施設である。

 その名のとおり少人数制の施設で、1ユニット5名から9名。施設1軒につき2ユニット、最大18名までと決められている。


 藤子が施設長として配属されて3年目の職場では、上限である2ユニット18名が暮らしている。

 施設長。いってみれば施設の指揮官である。利用者それぞれの状況、職員たちの能力、施設全体を把握し采配する――のが本来の仕事である。そのはずである。

 しかし実際は、誰より長い時間現場で働き、積みあがっていく事務仕事をわずかなすきま時間に消化する日々。


 若き経営者は新しいしせつをつくることに夢中で、まずはそこで働く人間を育てるのが先だという発想がない。

 箱が増えれば増えるほど人手は薄くなり、1人あたりの負担が増える。

 そうなれば利用者へのケアも薄くなってしまうという悪循環。


 9人分の食事を用意しながら利用者の不安を聞き、排泄の介助をしては洗濯機をまわし、さらに事務員もいない施設では、面会の予約対応や日々届く物品の仕分けも同時にやらなければならない。

 それを多くて2人、場合によっては1人でこなさなくてはならないのだ。

 本来、日中は利用者3人に対し介護職員1人、ユニットが9人ならば職員は3人体制でなければならないのだが、それを守るのは現在の職員数では不可能だった。


 つねにギリギリの人員。穴があけばそこを埋めるのも今いる職員しかいないという現実。職員だって人間だ。日々蓄積されていく疲労とストレスに心身の内圧は高まるばかり。みな爆発寸前となっている。

 本社には再三かけあっているのだが、まわっている(運営できている)のだからいいじゃないかと、はなから聞く耳がない。

 まわっているのではない。職員たちが懸命に『まわしている』のだと、いくら訴えたところで理解してもらえない。

 できることならあの経営者わかぞうを現場にほうりこんでやりたい。

 そう思ったところで藤子は無理やり思考を停止させた。

 今そんなことを考えても、よけいに疲れるだけだ。


 ほんとうなら夜勤明けの今日、いやもう昨日だが、とにかく申し送りと急ぎの事務仕事を1件かたづければ正午には施設を出られるはずだった。正確にいえば、施設は出たのだが30分で呼び戻された。駅近くにあるショッピングモールについてすぐのことだった。

 ろれつ障害や身体の傾き等、利用者の1人に脳梗塞が疑われる症状がみられ、訪問医の指示により救急車を呼んだと連絡を受ければ戻らないわけにいかなかった。


 藤子が到着するのとほぼ同時に救急車も到着。そのままつきそい、既往歴の説明、家族への連絡等ひととおり対応したところで、ふたたび施設から着信。

 透析のため病院に行った利用者が脱走、現在行方不明であると。

 さいわい藤子が連絡を受けたのと相前後して病院近くの交番に保護されていたため、大事にいたることなく解決したのだが。

 トラブルというのは、なぜかつづけて起こるものだ。

 結局、救急搬送された利用者はやはりちいさな梗塞を起こしていて入院することになったのだが、そのあとも翌日の日勤が発熱のため欠勤になったとか、トイレがつまって床が大惨事だとか――ほんとうにあとからあとから、よりによってなぜ今日なのだと何度も叫びそうになった。


 今日は、今日だけは家ですごしたかった。

 休みだってとっていたのに。

 夜勤専任の職員が1人、病気で休職することになってしまったのだからどうしようもない。

 夜勤ができる職員は日勤以上にかぎられている。藤子がはいるしかなかったのだ。


 ちなみに、翌日の欠勤は代わりにはいれそうな職員に依頼、快諾をえて、トイレの修理も即日対応してもらえた。

 きっと気が抜けてしまったのだろう。

 関係各所への連絡、報告書の作成等、どうにかすべての処理をおえたところで記憶がとぎれた。知らないうちに寝落ちていたらしい。

 事務室の奥で寝こけている藤子に、誰もいないと思っていた夜勤者はさぞかし仰天したことだろう。実際、心臓が止まるかと思ったといっていた。

 そうして夜勤者に起こされたときにはもう日付けが変わっていた。


 午前1時。

 ひっそり静まり返っている自宅マンションにようやく帰りついた。

 藤子が最初に施設を出たのは昼の12時である。施設から徒歩15分の距離にあるというのに、たどりつくまで半日以上かかってしまった。


 音を立てないよう慎重に玄関の鍵をあけて、声をださずに「ただいま」とつぶやいた。

 廊下もリビングも電気はつけっぱなしだ。

『帰ってきたとき真っ暗って、なんかイヤじゃない?』現在高校1年生の長男がそういったのは中学生のときだったか。

 足音をしのばせ、そろりそろりとリビングにはいった。

 気のせいだろうか。まだうっすらと甘いにおいが残っているように感じる。


 結局、プレゼントすら買ってこれなかった。

 今日は次男の、8歳の誕生日だったのに。


 短時間シフトで働きやすかった訪問介護のパートを辞めて、施設長候補として現在の会社に入社してから5年。

 それというのも消防士だった夫が殉職してしまったからなのだが。

 以来、子どもたちとの『約束』ができない生活になってしまった。

 たとえ約束をしても今日のようなことがあればドタキャンせざるをえない。それが何度もつづけば子どもたちの信用をなくす。だから藤子は2度、ドタキャンしてしまった時点で約束することをやめたのである。

 だから今日も約束はしていなかった。していなかったのだが。


 自分が子どもの立場だったら、とっくにいじけていると思う。しかし介護の仕事というのは人の命をあずかる仕事だ。そしてそれは、藤子自身がえらんだ仕事だった。

 それでも、こんな夜はほんとうにこれでいいのかと、ふと疑問に思う。いや、ほんとうはいつも疑問に思っている。


 子どもたちを育てるために、子どもたちを犠牲にしているなんて。そんなの本末転倒ではないか。

 母親失格という文字が浮かんできて、藤子はぶるぶると頭を振った。

 だめだ。ネガティブな思考が止まらないのはやはり疲れているからだろうか。


 バッグをソファにほうってちいさくため息を落としたとき、藤子はテーブルのうえ、テレビのリモコンを押さえに置かれている紙きれに気がついた。もとは裏側が白紙の学校のプリントだ。藤子の家ではメモ用紙に再利用している。


 手にとるまでもなく、ミミズが踊っているような、芸術的といえなくもない個性的な文字が目に飛びこんできた。


 おかあさんへ

 ケーキ れいぞうこにはいってます

 たべてね


 まえぶれなくこみあげてきた熱いかたまりが目の奥ではじけた。

 こらえようのない勢いでボタボタと目から水滴が落ちてくる。

 それとほぼ同時にカタンとちいさな音がして、藤子は反射的に振り返った。リビングの入り口から長男が顔をのぞかせている。


 振り向いた藤子と目があうと、長男は一瞬ぎょっとしたように静止して、それから「ひでー顔」と、息をつくように笑った。


「ごめん、起こしちゃったね」


 なんだか繕う気にもなれなくて、藤子はボロボロとこぼれる涙をそのままに謝った。


「……母さんきっと疲れてるから、ぼくのぶんも半分あげるんだ。疲れてるときは甘いものがいいんだっておばあちゃんもいってたから。兄ちゃんも半分あげてね。だってさ」


 逡巡するようにすこしのあいだ沈黙していた長男が、手紙の書かれた背景を暴露してくれた。


「着替えてきなよ。お茶いれとくから。ケーキ、たべんだろ?」

「こんな夜中に」

「たべるよな?」


 藤子の言葉にかぶせるようにいう長男に思わず笑ってしまう。

 ほんとうに、いい子たちに育っている。自分にはもったいないくらいだ。


「たべるにきまってるじゃない」


 こんな時間にケーキなんてたべて寝たらきっと胃もたれする。それでも、こんな幸せな胃もたれならよろこんで受けいれたい。

 そして朝になったら、なにがなんでもプレゼントを買いに行くのだ。


 ぐずぐずと泣きながら笑う藤子に、長男はまた「ひでー顔」とあきれたように笑った。



     (おわり)

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12時発、1時着。 野森ちえこ @nono_chie

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