【短編】ゾンビになりたくない俺の情けない話を聞いてくれ

大洲やっとこ

世界が崩れる中、俺は家に帰れなかった。



 世界は二つの菌で崩壊した。


 ほとんどの工業製品に使われていた原料を分解する菌。

 それと、医療研究の一端として死んだ細胞を蘇らせる菌。

 情報が不十分で、正確にはわからない。

 どちらも作り出したのは人間だったと言うが、パニックに陥った世界でその真偽を確認することは出来なかった。



 原料が変質したせいか次々に制御不能になり動かなくなる車。崩れる建物。

 手の打ちようのない事態の中で死んだ人間が起き上がり、近くにいた誰かに歯を立てて食らいつく。


 俺もまた、理解できない状況にただうろたえ逃げ惑う一人だった。

 阿鼻叫喚の中、徐々に浸食されていくアスファルトと反対方向に逃げ出す。

 シェルターに逃げ込めたのは幸運だった。多くの人間は事態を知る前にパニックに飲み込まれたことだろう。


 定員百名に対して一年分の保存食と、地下水脈を利用した独立電源。

 数の限られた医療物資。

 最初の頃は無線で情報を聞けたが、いずれそれも途絶えた。



 途中死んだ者がいた。精神的な理由からなのか、不意に呼吸困難になってそのまま死んだ。

 死体をどうするか。

 放置すれば死体が動き出して生きている人間を襲う可能性がある。ゾンビに噛みつかれたわけではないという意見もあったけれど。

 だから安全な死体だと言える根拠もなくて、シェルターの外に捨てようという意見に反対する者はいなかった。

 外に出すとして、誰がやるのかということでくじ引きをしたくらい。

 よりによって数名のはずれくじに当たったのは、情けないが順当な気がした。



 表に出たのは俺と他数人。

 その時点で一月半経っていたせいか、シェルターの周りに群がるゾンビはいなかった。

 しかし荒廃した世界。アスファルトはぼろぼろで、近くの建物も崩れかけている。衣類が無事なのは、硬いものから食う性質があるとか無線で言われていたからだと思う。

 特殊加工をされたシェルターの外壁にも浸食は及んでいるが、今すぐ崩れ去るという様子ではなかった。



 あまり近くに置きたくない。

 シェルターから離れているうちに運んできた死体が痙攣を始めたので、慌てて投げ捨てる。

 ここでも割りを食う俺の馬鹿さ加減が笑える。

 投げ捨てられた重みを受けて転び、逃げ遅れた。


 俺の目の前で防火扉より重いシェルターの戸が閉ざされ、目の前が真っ暗になったのを覚えている。

 開けてくれ、開けてくれと懇願して。


 動き出した死体が俺の後を追ってきていた。

 元シェルターの仲間だったゾンビに石を投げ、車の部品だっただろう錆びてボロボロの何かで押し返して。

 ゾンビの体を刺して、地面に繋ぎとめて。



 まさか本当に開けてもらえるとは思わなかった。

 絶望していた俺に、今開けるからと言って数名が出てきた。

 年寄りもいれば若い男女も。


 やはり誰もが既に感染している。噛まれているかどうかは関係ない。空気感染。

 死ねばゾンビになる。

 耐えられないから死にたい。だがシェルター内で死ぬわけにはいかない。

 シェルターの中の人数は減り、俺はシェルターに戻った。



 シェルターの人口が増えたのはただ一度だけ。

 当初から腹が大きかった妊婦が産気づいて、看護師や出産経験のある者が必死で助けた。

 物資に限りがあり、電力も不安な状態。

 それでも大半が出産に肯定的だったのは、絶望したくなかったからだと思う。


 自殺したくない。ゾンビにもなりたくない。

 生き延びて、生き抜いて。

 その先に何かしらマシな希望みたいなものがあってほしい。奇跡みたいなことがあってほしいと。

 シェルターで命を繋いだ人間は、きっとそういう希望を求めていたのだと思う。


 赤子は生まれた。

 けれど母体は日に日に弱っていく。

 シェルター内の物資も残り少なくなり、閉ざされていたドア周りに浸食の影が見えてきた。



 ――この子をお願いします。


 なぜだか知らない。たまたま近くにいたからなのか、俺が頼まれた。

 俺が外に出た時の話をしたからかもしれない。


 ――古いゾンビは風化しかけていた。代わりに木々が増えていた。きっと世界はちゃんと戻る。必ず。


 ただの願望を言っただけの根拠のない話を信じて、希望を託したのかもしれない。

 ようやく首が据わった程度の赤子を抱いて、俺たちはシェルターを出た。

 母親の亡骸を燃やして。



 飲み水を確保しなければ生きていけない。

 崩壊した町の中、使えるものを探す。


 プラスチック容器関連は全滅。

 ガラス瓶系は無事だったが、蓋がダメになっているものも多かった。


 世界を崩壊させた菌の研究は、分解されないプラスチックゴミをどう処理するかというものではないかと誰かが言った。そうかもしれない。


 皮肉なことに無事なワインがあった。

 天然コルク栓にガラス瓶。


 神様とやらはワインとパンをくださるらしい。

 そんなものよりミルクの雨でも降らせてくれればいいのに。さすがにそれでは体中が臭くてたまらないか。

 仕方ないのでワインを捨てて雨水を貯める。瓶の中で米を煮潰して赤子に飲ませる。

 本当は栄養管理されたミルクがいいのだろうが、そんな便利なものは手に入らなかった。


 衣類は、ボロボロになっているものとそうでないものがあった。

 原料の違い。自然由来の綿や麻でできたものは菌に冒されずそのまま。

 赤子が使えそうなものをやはり無事だったリュックに詰め込み、自分の着替えも確保する。



 屋外のゾンビは朽ち果てているものがほとんど。

 問題は屋内に残っていたゾンビ。まだ風化していない。


 死んだ時期が違うのかもしれない。隠れて生き残り、後から死んだ。

 屋外で雨風に晒されなかったからという理由だったのかもしれないけれど。


 襲われて仲間が死んだ。

 北に行くか南に行くかで意見が分かれ、離別したグループもあった。

 やはり絶望に飲まれ、もう残っていないだろう自宅に帰ると去っていった者も。


 俺だって赤子を抱えていなければそうしたかもしれない。

 死ぬのなら家族のところに。

 赤子の重さがそうさせてくれなかっただけで。




 流れて、流れて。

 赤子が歩き出す頃には同行者は全部で七人になっていた。


 生きるのに何より必要なものは水だと思い知る。できるだけ綺麗な水を求め、水源に近い方角を目指した。


 生きた人間にはほとんど出会わない。

 人里だった場所に当たると、期待より警戒心が先に来る。


 まだ動くゾンビがいるかもしれない。

 他に生き残りがいたとして、友好的だとは限らない。

 実際に出会った人間の中にはこちらの物を奪おうとする者もいたし、無害な振りをして盗もうとした者もいた。


 殺した。

 ゾンビか、いずれゾンビになる物か。それくらいの違いだ。

 同行していた仲間と託された子供の為になら、それ以外の命など砂粒ほどの重さも感じない。



 川辺の田舎町だったのではないかと思う。

 比較的新しい動く死体の集団が出てきたのは、川の土手の穴倉から。

 きっと古い防空壕とかそういう類の場所で、かなり最近まで生き延びてきたのだと推察する。

 一匹の死者の処理を誤り全滅したとか、そんな理由ではないか。


 その中に、赤子を背負った女の死体を見る。

 気になった。

 自分と照らし合わせたわけではない。何か違和感を覚えたのだ。


 他のゾンビと違い、もう倒れて動かなかった。

 赤子の方はただの死体。


 ――ただの死体?


 それが異常だ。

 母親の死体は指で地面を掻きむしった跡があり、ゾンビとして動いていたのだと思う。

 赤子の方は何かに噛みついたりした様子がない。ただの死体。

 ゾンビになると何でも食べようと獰猛な行動を取るのに。




 そのまま川の上流にまた数十日歩いた。

 見事な滝と湖のほとりに、大量の丸太で囲われた集落に出くわした。


 周辺には田畑。

 過去の文明とはまるで違うけれど、それでも文化的な体裁を保った集落。

 季節は冬が近づき、選択の余地はなかった。



 懇願した。

 集落に入れてくれと。

 役に立つ。だからどうか。


 ちょうど葬儀のタイミングだったらしく、木製の担架に縛られた死体を運ぶ葬列が出てきた。

 今は忙しい。

 わかっている。放っておけばその死体が動き出すのだから。



 ――治療法を知っている。


 俺の口から出た言葉は、さぞ胡散臭かっただろう。

 滅びかけた世界に何も希望などないと、運ぶ彼らもまた死ねば同様に処されねばならない。

 そう覚悟しながら、だがいつか何かのきっかけで崩れ去るだろう生活に怯えていた。



 ――少し痛いかもしれないが、ごめんな。

 ――パパ?


 牙を剥き始めたゾンビを見て、今まで庇護してきた娘の指を尖った石で切った。

 その血を死体の口に垂らす。



 見ている間に。

 悪鬼のように歪んでいたゾンビの顔が、わずか数十秒の間に穏やかに変わっていく。

 そしてそのまま、ただの死体に。


 奇跡に等しい光景を目にした彼らは、俺の娘の前で膝を着いた。



  ◆   ◇   ◆



「崩壊後の世界、既に感染した母体から生まれた子には免疫があったんだ」


 生まれつき耐性のある子供たち。

 次世代。

 その体液が特効薬になる。


 湖のほとりの集落に残っていた二千人足らずの人々の中には、崩壊後に生まれた子供もいた。

 大人たちが死ねばゾンビになり人を襲いだす。

 けれど次の世代は違う。


 それこそが希望であり、解決の糸口だった。



「たとえ文明が滅びたって、お前たちが生きる世界は残される」


 他の地域がどうなっているのかわからない。

 集落には文明の名残などほとんどなく、木製や石器の農具で暮らしていくことぐらい。

 せめて知識を残してやれればよいのだが、学習するにもノートもエンピツも教科書もなく、半端な知識継承くらいがせいぜい。

 それとて世代を重ねるごとにまた失われていってしまうのかもしれない。


 だけどきっと、いつかまた人の手は届くのだろう。空の星にまで。



「頼みがある」


 床に臥せ、すっかり大きくなった娘に願う。


「お前の血をくれ」


 死ぬ前に、どうか。


「情けないけど、怖いんだ。死んだ後のことが」


 以前にももらった。

 もう心配ないとわかっているはずなのに。

 いざ先が長くないと思ったら怖くなってしまった。



「ゾンビになってお前を殺してしまうんじゃないかって……」

「大丈夫だよ、パパ」


 体を起こすこともできない俺に、娘は優しく微笑んで頷いた。


「ゾンビになりたくない」

「パパはゾンビにならない。大丈夫」


 薬指の先を切って、俺の唇に当てる。


「ありがとう、大好きだよ」

「あぁ……」



 あの崩壊の日、帰れなかった自宅。

 会えなかった我が子と、やっと会えた気がした。



          ~ 完 ~


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