雲の行方
石田信行
第1話
きつね色が風になびいていた。
穂が擦れ合う乾いた音と青い空。秋から冬に変わろうとする冷たい風。さて、なんて所に来たんだっけか。
周りを見ても手がかりになるものはなにもない田んぼと里山。遠景の美しい三連山にも心当たりはない。
屋根は開いているが、直接、風に当たりたくなって車を農道の脇に止め降りてみた。一層、風の音が聴こえる。それに合わせるように遠くに小鳥の鳴き声が聴こえる。
虫が鳴いた。
ただの虫じゃない。腹の虫だ。
そういえば昼がまだだった。
もう時計は2時を指していたが、コンビニ弁当も買えないほど財布に金がないことを自覚していた。金勘定は得意だった。そのはずだった。
世界的な感染症が流行するまでは。
「社長、一つだけ財産残せるんですよ」
すでに精根尽き果てる寸前だが、最後の力を振り絞り怪訝な表情を作る私に、銀行の支店長は続けた。「いやね、金融庁からのお達しなんです」
つまりあれか、噂は聞いたことがある。倒産した会社の社長が首をくくらないための救済策って奴だ。本当にあるとは思ってなかった。
信用も資産も少ない中小企業は、借金をする際に代表が連帯保証人になる。結局は社長自身の財産をすべて人質に差し出さないと銀行は金を貸さない。仕方ないことだと思っていたし、正直、全くリスクと考えていなかった。
大手IT企業から独立し小さな開発会社を作った。古巣からの仕事を貰いながら少しずつ成長、利益を残せるようになった。
周りは、経験を生かして自社ソフトを出したらいいとか、IT教育に進出してはとか、まあ間違いの起きにくいことを言っていた。
ただ、なんてことはない、早くに病気で亡くなった父との思い出が温泉旅行だったから、それを自分の手で誰かに提供したいという子供じみた思いつきからホテル経営に手を出した。
労働集約的な仕事のやり方をITで効率化し、かつおもてなしの部分には贅沢にリソースを投入する。業務システム開発とそれほど変わらないじゃないか。計画は完璧だった。そう、Stay homeなんてなければ。
開業直前、そのロビーに一度もお客様を迎え入れることはなかった。
明かりをつけない薄暗い家のリビングで妻は顔を土気色に変えたあと、真っ赤になって喚き散らし、そして子供の手を引いて居なくなった。二日後に、義母がこっそりLINEをくれたから元気なことを確認してるのが唯一の救いだった。
「普通は家です。あ、いやもちろん服とかそういうものは取らないですしね、担保に入ってる資産のうち、とりあえず家を残しておけば何とかなりますからね」
エリート銀行員はさも「何とかなった事例」を見てきたかのように話した。
私は、寝不足によって白くなる視界を振り払いたくて、大きく頭を振った。
その様子を見た支店長はなにか勘違いしたのか、こう続けた。
「あ、たまに車を残す方もいらっしゃいます。引っ越すと運気が変わるなんて言いますしね。でも社長の車、抵当に入ってないですし、ま、あのー、正直に申し上げて金額が、あ、いやいや社長がとても大事になさってるのは存じてますし、カッコいいですよねーあれ。うちの若い行員なんかも、社長に感化されて同じ車種の最新モデルを買っちゃったらしいですよ」
支店長は目まぐるしく舌を動かしながら額に汗をかいていた。
私はその様子を見るでもなく、ただその襟元の真っ赤なネクタイを見ながら呟いた。
「クルマ……」
「ちょっと!私はもっと快適でオシャレな旅行がしたかったんだけど、どーすんのこれ?!」
結婚したばかりの妻は初めて見る顔で怒っていた。なにせスーツケースがレンタカーのトランクに入らない事から始まり、エアコンは効かないわタイヤがパンクするわで予定は大きく狂っていた。
結婚して最初に行きたかったのは妻の生まれ育った北海道。もちろん挨拶とかで2回行ってるが、緊張してたし仕事も忙しかったから日程がタイトで何も見てない。だから今回は初めてゆっくり観光したかった。行くなら5月の連休の後と妻に言われ、二人で有給休暇を合わせた。
さすがツーリングで有名な北海道は新千歳空港の近くにオープンカーをレンタルしてるショップがいくつかあった。ただ、やはりというか、ビンボーな若造は彼らの客じゃないのだ。車種がベンツやBMW、ポルシェにレクサス。
全く予算とあわない。ホテルより高いじゃないか。
それでもなんとかコンパクトなオープンカーを扱っているレンタカー屋を見つけた。
その個人店のオーナーは決して悪い人ではなかったと思う。そう、自分も社長をやった今ならわかる。経営はギリギリかすでにややアウトだったんだろう。車のメンテナンスが行き届いていなかった。それにあの時は、とにかく予算に収まる車を見つけたことに浮かれてトランクの容量なんて見てなかった。
結局、予定していた静かな高原のレストランに行くのを諦め、それでもなんとか観光地の入り口にある蕎麦屋に滑り込んだ。すでに14時を回っていた。
程なくしてたぬき蕎麦が運ばれてくる。かなりお腹が減っていた二人だったから、いただきますの声もそこそこに箸を掴んだ。
しかし、そこでもまた事件は起きた。
食べかけの蕎麦を喉の奥に押し込み、同事に顔を上げる二人。何も言うまい、目でわかる。うん、ここまで来ると不思議と笑みが湧き上がってくるものだ。
空腹は最高の調味料といったのは誰だったか、とにかく二人は完食した。おかみさんに愛想笑いをして会計を済ませ、無言で車のドアを締め、エンジンを掛けた途端に申し合わせたように「微妙」と言って笑いあった。
「これなら緑のたぬきで良かったよね」
「もし今度があったらコンビニでお湯入れて草原か牧場に持ってって食べよう」
銀行員のネクタイのそれとは対照的に、だいぶ日に焼けた薄赤なオープンカーから降りた。
腹は減ってるが金はない。それはよく知ってる。
これからどこへ向かおう。何を目指そう。
まもなく冬を迎える。娘にダウンコートを買ってやりたい。あ、いやもちろん妻にも。
普段はこんなところに車を止められることはないのだろう。近くの農家から腰の曲がった老婆がヒョコヒョコと歩いてきた。確実にこっちを見てるので無視するわけにもいかない。逃げたい気持ちでこちらから歩み寄る。庭先まで行ったところで歩みを止めた。
「おめさ、そこでなにしとるね」
別に威嚇するわけでも好奇心満々というわけでもなく、老婆は淡々と声を発した。
「あ、申し訳ありません。道に迷いました」
嘘だった。ただボーッと目的意識なく走ってただけだ。
「カァナビがついてんべ」
老婆はあくまで淡々と、毎朝、太陽が登り夜になりゃ暗くなるのと一緒だとでも言いたげに、当然だと言う顔をしていた。反対に私は額に汗して答えに窮していると、間の悪いことに再び盛大に腹の虫がなった。
「ちょっとまっとれ」
老婆は私の返事を待たずに家の中へと消えていった。
時間にして6分ほどだろうか、蓋の開いた赤いきつねと割り箸、それに麦茶のペッドボトルを持って戻ってきた。
「こっちさきて、たべな」
縁側を指さしながら、幾分か感情のある声で言われた。それでも有無を言える雰囲気ではなかったため素直に従うことにした。
湯気が頬を撫でるとたまらずため息がこぼれ穏やかな気持ちになる。
あたりでは、変わらず稲穂がサラサラと音を立て、小鳥がメロディを奏でる。そこにうどんを啜る不規則なリズムが加わった。
私は黙々と、時々目をつぶりながら、汁の一滴まで残さずに食べた。
「ごちそうさまでした」
私が食べ終わるまで黙って隣に座っていた老婆は、懐からみかんを2つ取り出し、1つを私に渡した。
またしても黙って、今度は二人でモグモグと食べる。何も聞かない。何も話さない。
どこまでも青い空。遠くの山並み。奥に見える山の頂上は薄っすらと白いものが見えた。
「……お婆さん、雲ってどこに行くんでしょうね、いや、何を目指してるんでしょうね?」
その人は、一瞬だけ目を大きく開いて閉じ、ゆっくり開けてこう言った。
「おめえ、そったらことも知らねぇのか」
予想外の言葉に息をのむと、さっきのうどんがやや出そうになり、喉の奥に出汁の味を感じながら、無言でうなずいた。
するとニヤリと笑って続けた。
「神様のいうとおりってな。5歳の子でも知っとろう」
呆気にとられている私を置いて立ち上がり、カラになった白いスチレンのカップをヒョイとつまみ上げこう付け加えた。
「うまかったか?」
「それはもう」
再びおばあさんが家の奥から戻ってくるのを待ち、丁寧にお礼を言って、そして名刺を渡そうとしてもうそれが存在しないことに気づく。
「道は見つかったかね」
「……はい、たぶん」
「したっけ、気をつけてな」
「ありがとうございます」
再び出発して近くにあったコンビニの駐車場に車を停めた。財布に残った小銭はカップ麺ならぎりぎり2つ買える。
そして妻に電話した。
8コール目で繋がり、互いに無言の時間が30秒ほど。
「あのー」「なに?」言葉の意味とは裏腹に続きを言わせまいという意思で被せ気味に妻が答えた。が、構わず続けた。
「草原か牧場で、赤いきつねと緑のたぬき、食べませんか?」
「あんたいまどこ?」暗く冷たい声。
「コンビニの駐車場」すっとぼけた。
電話越しでも分かる大きなため息をついたあとにまた沈黙が30秒続く。
「草原に、なにしに?」
妻の声に少し生気があった。興味を示したぞ。勝利を確信しながらまたとぼけた。
「雲の行方を探しに」
「はあ?バッカじゃないの?今頃電話かけてきて、あんた少しくらいは私達のこと心配しなさいよ、だいたいあんたが会社辞めるっつったときから、こっちは腹くくってんのよ!なのに自分だけ悲劇のヒーローみたいな顔しやがって、巻き込むなら最後までちゃんと一緒に……」
自分が泣いてたからか、妻が泣いてたからか、あとはよく分からなかった。
雲の行方 石田信行 @boxabu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます