「ノケモノ」
「月が出ているのに雨が降る晩には、月に願いごとを言うと叶うの」
アワ粥を匙で掬いながらタヅが言う。息をふぅふぅ吹きかけてから、「はい」と差し出してきた。
甘い味だ。おいしい。おいしいけど……
「……じぶんでたべるよ」
この両手は飾りじゃないんだ。ちゃんと使える、はず。
タヅは小首をかしげて「そう?」と心配そうな目をする。それでもお椀と匙を渡してくれた。
ふぅふぅしないで食べたら熱かった。口を開けて上を向く。タヅが両手を伸ばしかけた。
「だいじょうぶだって……あ、それと、その話なら知ってるよ」
「そうなの? 誰に聞いたかわかる?」
「わからない」
「そっかあ。でもすべてを忘れてるわけじゃないんだね」
山で倒れているところをタヅが見つけてくれた。揺さぶられて目を覚ましたとたん、タヅはいくつか質問してきた。答えられることはなにもなかった。一切の記憶がなかった。
タヅが言うには、おれは「十歳ぐらいの見た目の男の子」で「毛皮でつくった服を着てるから、狩人の子かもしれない」らしい。ちなみにタヅは「十二歳の女の子」で「のけもの」だそうだ。
「ゆうべは月が出てたでしょ。でも雨も降ってた。だからわたしね、お願いしたの」
タヅのほっぺたは丸い。その丸いほっぺたが持ち上がる。
「家族をくださいって。そしたら今朝、あなたを見つけたの。きっと月があなたをわたしに会わせてくれたんじゃないかな。ねえ、記憶が戻るまででいいから、ここにいて。わたしの弟になって」
断る理由が思いつかないから、「いいよ」と頷いた。タヅはさっきよりもうんと嬉しそうな顔をした。
「もし、もしも記憶が戻らなかったら、ずっと一緒にいて?」
「いいよ」
「記憶が戻っても、できれば、いてほしいな……」
「いいよ」
「返事が早くて逆に不安になる」
「なんで」
笑ったら口から粥の粒が飛んだ。もったいない。拾ってまた口に入れる。タヅの家の床は黒ずんでいる。
考える必要はないと思った。たぶん、この家に来たかったんだ。
タヅは名前をくれた。だいぶ悩んでたけど、「雨の太郎」で「アメタ」になった。
タヅが「アメタ」と名前を呼ぶから、こっちもタヅのことを「タヅ」と呼び捨てにすると、「お姉ちゃんでしょ」と言い直しをさせられる。だったらタヅも「弟ちゃん」と呼ぶべきだ。そんな反論をしたら声を立てて笑われた。なんでだ。わからない。
家の外には田んぼと畑がひろがっている。でもタヅのものではないそうだ。
「田んぼも畑もぜんぶ、よその家のだよ。わたしは、のけものだから」
「のけものってなに」
「仲間外れにあってるの」
「なんで?」
「うちの家族は……というか、お兄ちゃんが、やっちゃいけないことをやって、それで、一家全員、村の仲間外れにされたの」
「家族? この家にはおれとタヅお姉ちゃんしかいないよね」
「先月まではいたよ。お父さんが。でも死んじゃったの。お兄ちゃんはもっと前に死んだ。お母さんもとっくにいないし……猫がいたから寂しくなかったけど、その猫も何日か前に出て行ったきり戻らない」
だけどね、とタヅは笑った。
「食べるのには困らないんだよ。よその家から野菜やアワを勝手にもらっても、誰も文句を言わないの。のけものって、そういうことなの。誰もわたしと話さない。わたしと目を合わせない。わたしがなにをしても、無視してくれる」
一家全員、とタヅは言った。そのとおりだった。
最初こそ「おまえは誰だ」と話しかけてきた村人も、「タヅの弟だ」と返事をしたら、次からは話しかけてこなくなった。誰も。だぁれも。
ふたりきりの暮らしだ。
それでいいと思った。そのためにいるんだと思った。
タヅと一緒に食材を取りに行く途中、いつもと違う様子の村人たちがいた。
どうやら夜中に牛が襲われたらしい。死んではいないが大怪我だそうで、「山の獣にやられたんだな」と溜息をついていた。
次の日は別の家の牛が襲撃された。今度は助からなかったようだ。悪い獣をどう退治するか、深刻そうに話し合っていた。
「アメタ、もっと食べてよ」
「おなかいっぱいだよ」
「でも……」
どうしてだか、タヅはたくさん食べさせようとする。朝も昼も夜も、あきらかにタヅよりたくさん食べているのに、まだ食べさせようとしてくる。
タヅはチラリと視線を流した。まず窓を見て、それから戸口も見た。窓は格子が開いているから夕暮れ時の景色が見えるけど、戸口は閉まっている。聞こえてくるのは蛙の大合唱。元気なやつらだ。
おれの手元には、ほんのり黄色いアワのごはんと野菜の煮物。これで三杯目だ。タヅはとっくに食べ終わっている。
タヅの丸いほっぺたが、なんだか冷えているように見えた。囲炉裏には火が入っているし、おれは暑いのに。ちなみに毛皮はとっくに脱いで、タヅが用意してくれた着物を身につけている。
「アメタは、その……よく眠れてる?」
「うん」
ぐっすり眠って朝まで起きない。とってもいい気分で目覚めるんだから、よく眠れていないわけがない。
「タヅお姉ちゃんは眠れてないの?」
「そうじゃないけど……アメタはここの暮らし、嫌いじゃない?」
「ぜんぜん嫌いじゃないよ。どうしたの?」
タヅは困ったように笑って、「う~ん」と唸った。
「記憶、戻った?」
「ぜんぜん」
「まだ、一緒にいてくれるよね?」
「うん」
「ずっと?」
「うん」
「なら、いいの」
よくわからない。わからないけど、タヅから離れることは考えられなかった。
獣の襲撃は続いた。村人の会話からそれを知ると、タヅは不安そうな目をする。獣は、牛だけではなく人も襲うようになっていた。死んだ人こそいないけど、大怪我を負った人ならいる。
だから怖いのかもしれない。家にはタヅとおれしかいないから、どうやって身を守ろうかと、不安なのかもしれない。
「獣が襲ってきたら、おれが退治してやるよ」
自信満々で宣言したら、タヅは眉尻を下げた。
「危ないことはしないで」
喜ぶと思ったのに。もうちょっと頼ってくれてもいいと思う。だっておれは――
おれは?
続く言葉を見失った。
なにかとても大切なことを忘れている。そう思った。
きょうの夕飯もてんこ盛りだった。
おなかいっぱいで眠い。タヅの隣で寝そべって、「おやすみなさい」と挨拶を交わす。
眠りに落ちる前のふわふわした頭にいろんな景色がよぎった。
たくさんの木に囲まれている。夜空に懸かる月。雨が降っている。こんな夜には願いごとを言えば叶うんだと、雨が聞いて月に届けてくれるんだと、あの子が話していたのを思い出したから、願った。力の限り、声がかれるまで。
そうだ、だから。
戻ろうと思った。おれが、ずっとそばにいるんだ。たったひとりになってしまった、あの子のそばに。戻らないと。会わないと。タヅ、タヅ、タヅ――
「……て、アメタ」
生温かいものを感じた。顔の近くに、気配。
「アメタ、おねがい、やめて」
タヅの声だ。
とても苦しそうな声でお願いされている、とわかってすぐに頭を上げた。
タヅが居間の隅に背を預けて座りこんでいる。腕を怪我していた。今夜は月が出ていない。だから家の中は暗いのに、怪我をしているのがわかる。血のにおいがするし、血の味がするから。
血の味だ。鼓動が速くなった。口を押さえようとして、自分の手がおかしいことに気づいた。
「……獣の手?」
鋭い爪をした獣の手だ。声もおかしい。言葉を話そうとすると喉につっかえる感じがする。
「アメタ、だいじょうぶだよ」
暗いのに、タヅの姿がよく見えた。肩で息をしながら微笑んでいる。
「誰にも言わないから。アメタのことは、わたしが、まもるからね」
思い出した。
夜になると体がおかしくなったから、窮屈な着物を脱ぎ捨てて外に出た。どうにも口が寂しくて、牛を襲った。人を襲った。満足して帰って、寝て起きたら忘れた。
「タヅ……ねえちゃんは、知ってたの?」
「……おなかがすいてるのかなあ、って思って」
タヅが笑う。どうして笑う?
「朝になれば戻るもの。だから、だいじょうぶ」
タヅが両手を伸ばした。怪我した腕もおれの体に巻きつけて、体重をかけてくる。
「ずっと一緒にいて。ね、お願い」
泣きそうな声だった。返事ができなかった。抱きしめ返すこともできなかった。
あの日、いちどはタヅと別れた。
だいぶ前から体が弱っていた。おれはもう死ぬから、そんな姿を見せたくなくて家を出た。
山に入ったら雨が降ってきた。降ってるのに月が出た。だから鳴いた。「人の姿にしてください」と。「人の姿で、タヅの家族にしてください」と。
月は願いを叶えてくれたんだろう。でも完璧じゃなかった。人と獣がまざった体になった。こんなの人とは呼べないし、もう猫ですらない。それだけなら、まだよかったけど。
怪我の手当てをするために横たわらせたら、タヅはそのまま眠った。熱が出ていた。できる限りのことはしたけど治るのかはわからない。もう襲わないでいられるかもわからない。
日が暮れる前に山に入った。タヅはしきりに「いかないで」と繰り返していた。
ごめん。だけどさ、タヅお姉ちゃん。
本当の「のけもの」って、おれのことだと思うよ。生き物として仲間外れ。それでも約束は守りたいんだ。
言っただろ?「獣が襲ってきたら、おれが退治してやる」って。
色色模様(短編集) 晴見 紘衣 @ha-rumi
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