「こえてゆけ」

 骨が冷えるほど地上が遠い。

 灯火がきらめくこの町がぼくの世界だった。十四歳のきょうまでずっと暮らしてきた場所。

 目を瞑っても簡単に思い出せる。走ると土埃が舞う道とか、畑で取れた野菜を交換する人たちの笑顔とか、入ったとたんに暗い石造りの家とか、光る虫がいるおかげで明るい地下の道とか。笑い声も怒鳴り声も、食事時の匂いも石のザラザラした感触も、緑の鮮やかさも水のおいしさも、ぜんぶ、この体にしみついている。

 町を囲む壁がこの町の鎧。何十年も昔、ぼくらのご先祖さまが石を積みあげてつくったというこの壁はとても高くて、すごく分厚い。だから太陽はかならず壁から昇るし壁に沈む。

 それが当たり前だと思ってきた。

 見おろしていた町に背を向ける。髪の毛が右に左になぶられている。ここの風は町の中より乱暴だ。もっとずっと埃っぽくて、食べ物をかっさらってゆく鳥のような勢いがある。

 飛んでくる砂が目に入りそうだから、瞼を半分だけおろした。

 


 

 また壁を出た人がいる、と友人が教えてくれたのは、もう何ヶ月も前のことだ。

 廊下の窓に寄りかかりながら、友人は同じ養護院育ちの人の名前を告げた。挨拶ぐらいしか接点のない名前だった。どんな顔をしていたっけと、ぼんやり思い浮かべる。


「なんでまたわざわざそんな……物好きだね」

 

 口にした感想は本心だったけれど、一方で、見えない手に背中を叩かれたような落ち着かない気分にもなった。

 ほんとだよね、と友人も苦笑する。視線は窓のむこうを見ていた。壁を見てるんだと気がついて、ぼくも見上げた。家やお店の背後にある石積みの壁は、てっぺんが陽光にさらされて白く輝いているように見える。この養護院は壁と近い。

 ぼくにはわからない。ここは安全が約束されている唯一の場所なのに、なぜ町を出て行く人が後を絶たないのだろう。

 壁の外にひろがる大地は、不毛の神が支配する荒れ地だと教わった。岩が転がり、一本の草木すら生き抜くのに難儀し、人に馴染まぬけだものたちが争う。道などない、人が捨てた大地。あるいは人がはじき出された世界。

 まだ壁がなかったころ、たくさんの人がけだものたちの争いに巻きこまれて命を落とし、風が運んでくる死の土のせいで作物がだめになったという。

 だから町は壁という鎧を着こんだ。二度と脱げない鎧だ。けだものは飛び越えられないし壊せない。死の土も壁を越えるほど舞い上がることはない。

 壁には出入口がない。かわりに町は地下へとひろがった。地下に棲む動物は食料になる。地下でも地上でも壁の内側にいる限り、安全だ。

 出入口のない壁をわざわざ越えてまで安全を捨て、危険に身を投じるのはなぜなんだろう。

 わからない、わからないなあと思えば思うほど気になって、焦りのような、怖いような、薄ら寒い気分になる。

 きっと友人も同じだろう。ぼくらは同じ日に養護院へ届けられ、ともに育ってきた兄弟のような関係だから、考え方も似ている。

 そう思っていたのに、勘違いだった。友人が長い梯子を用意したのは、この話をしたわずか数日後のことだ。どうしてそんなことをするのか、ぼくにはわからなかった。


「のぼるの? すごく高いから危ないよ……なんで?」

「気になるから。べつに、壁の外に行くわけじゃない。壁にのぼって、見てみるだけだよ」

 

 はぐらかすような笑顔に気後れした。得体の知れないなにかが友の背を押していた。


「一緒に見てみる?」

 

 誘われるがまま梯子をのぼった。壁には謎の出っ張りがある。上へ上へ、等間隔に、まるで足場のように――実際、それを足場にして梯子を使い、壁の上に立った。

 夕焼けに染まる頂は、養護院の廊下よりも、町のどんな道よりも広い。砂埃でザラザラと汚れた石畳だ。そしてなにもない。端まで歩いて、ぼくは後退った。

 黄土色の大地がはるか彼方までひろがり、燃え立つような空と繋がっている。まばらに生えた木々が風に煽られ、頭突きでもするように首を振っている。あちらこちらに転がっている石や岩は風に吹かれてもびくともしない。

 乾いた土の匂いが鼻をつき、胸をつく。足がすくんだ。


「ほんとに、土と岩と枯れ木みたいなのしかないね。けだものは、どこだろう?」


 友人が感心したように言う。声が弾んでいる。

 死の世界。

 そう思った。人が生きるところじゃない。

 壁の反対側にも謎の出っ張りがあった。内側の出っ張りと同じように、下へ行くほど大きくなっている。地面では梯子がいくつか倒れていた。町から出て行った人たちの痕跡だ。

 わからない。

 わからないよ、ほんとに。

 だって、これじゃあまるで、死にに行くようなものだろ?

 ひとしきり眺めてから、町に戻った。その翌日、友人は「町を出る」とぼくに告げた。


「わからないな。なんでわざわざ危ないところに行くの? 見ただろ? なんにもなかったじゃないか」

「見たからだよ」


 友人は笑顔だった。すべてを捨てることになるのに、きっと死ぬのに、笑顔だった。

 

「見るまでは、ありえないって思ってたよ。町を出て行った人の話もさ、なにかの隠語で、変な事件に巻きこまれたのを隠してるのかなって思ってたんだ。でも、本当に出て行ったんだって知った。出て行けるんだって、わかった。だからさ、仕方ないんだ。知らなかったころには、もう戻れない」


 ずっと隣にいると思っていたのに。友人は行ってしまった。恐ろしい未知の世界へ。

 理解できない。でも、わかりそうな気もする。だから止められなかった。「気をつけて」なんて言葉だけ贈って、梯子をおりた姿がどんどん離れてゆくのを見守りながら、ずっと感じていたこと。

 とっくにわかっていた。

 外の世界は恐ろしい。ぼくは町を出たくない。だけど――

 


 

 しだいに闇が薄れてゆく。

 夜明けの空と大地を睨む。

 いつの間にか握りしめていた両手がつめたくて、汗をかいていることに気づいた。

 ずっとこの町で暮らしたいと思う。

 だけどぼくも知ってしまった。「壁の外に出てはいけない」なんて、じつは誰もぼくに言わなかった。ただ厳しく不毛であると聞かされただけだ。出入口はなくても、壁を越える手段ならある。そう、何人も、何人も、外へ出て行った。そして帰ってこない。

 壁なんかいっそなければよかった。

 はじめからなければ、外の世界もぼくの世界だったのに。自分のものに怯えることなんてきっとなかった。

 みんながわからない。どうしてあっさり飛び越えられたのか。きみがわからない。どうして澄んだ瞳で笑えたのか。わからない。わかりたい。そっち側へ行きたい。でも怖い。行くも戻るも怖い。

 梯子を持つ手がふるえてる。頭の中が煮えてるみたいにぐちゃぐちゃしてる。気持ちが、足にからみつく。

 吸えるだけの空気を限界まで吸った。張りついていた唇をひらいて、ゆっくり吐きだす。

 町は背後にある。目の前にひろがるのは朝焼けの死地。

 息を吸う。吸って吐く。そのたびごとに少しずつ勇気をためる。

 けだものが生きる大地。

 それなら、けだものになればいいんだ。梯子をおろし、ぼくも行こう。

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