荷物持つ手
街灯がふたつの白い息を照らした。
ベージュ色のコートを着た姉は、速いリズムで地面を蹴るように歩いている。肩先まで伸びたまっすぐな黒髪が動きに合わせて揺れる。
背負っているランドセルはいびつな形に膨らんでいた。ギリギリまで詰めこんで無理やり蓋をしめたのだ。蓋の横にできるわずかな隙間からは、教科書やノートがぎっちり並んでいるのが見える。
弟はダウンジャケットを、ひゅ、ひゅ、とこすらせながら小走りで進んでいた。ファスナーを喉元まで上げてポケットに両手をつっこみ、白い息をはあはあ吐きながら姉を追いかける。
歩道の脇では土に霜が降りていた。街路樹も寒々しく裸の枝を尖らせている。淡い群青色の空には、少ない星が頼りなげに光っていた。
フードから覗く弟の顔立ちは姉とよく似ている。鼻の先と頬が真っ赤になっているところも同じだ。ただし弟の左目は瞼が紫色に腫れていた。
服の下にもたくさんの痣が隠されている。姉も弟も、どちらの体にも。
弟の足取りはどんどん鈍くなった。小走りが早歩きになり、「おねえちゃん」と呼びながら歩調を緩めていく。
車が一台、一瞬の騒音を撒き散らしてふたりを追い越した。
「はやく」
振り向いた姉は足を止めないまま、もどかしそうに声を投げつけた。
「はやく駅に行かなきゃ。急いで」
弟は泣きそうな顔になっていた。
「おこられちゃうよ」
「だから急ぐの。追いつかれないように」
さあ急いで、と姉が白い息を吐き出す。
とうとう弟は動かなくなってしまった。姉も立ち止まり、待っても来ないとわかると、弟のもとまで引き返した。
「ひとりで戻る?」
姉の問いかけに、弟は首を横に振る。
「じゃあ行こう。お母さんのところに」
「会っちゃだめっていわれてるよ」
「そんなの、おとなが勝手に言ってるだけだよ。だって、あの家にいたい?」
弟は首をぶんぶんと左右に振った。
「おとうさんが連れてきたひと、こわい」
「だったら行こう。お母さんといればお父さんと離れられる。つかまる前に逃げちゃえばいいの。そうでしょ?」
「うん」
ふたりは再び歩きはじめた。姉は地面を蹴るように、前へ前へと。追いかける弟はポケットから手を出した。腕を振って小走りになる。白い拳はみるみる冷えていった。
姉の両手は荷物でふさがっている。ファスナーのついた布製の手提げ袋が、ふたつとも限界まで膨らんでいた。
街灯の下を通るとき、姉の手が赤いことに弟は気づいた。手提げ袋を握りしめる指が、顔と同じように赤く染まっている。弟は走りながら、姉の手をたびたび見つめた。
群青色の空が明るくなっていく。ふたつの白い息に染められるように、だんだんと夜が薄れる。スズメの鳴き声も聞こえはじめた。頭上のどこかから、短い挨拶が聞こえてくる。通り過ぎる車の数も徐々に増えた。
突然、弟の体が音をたてて沈んだ。足がもつれたのだ。起きあがろうと両手を着いたとき、
「だいじょうぶ?」
姉が腕を引っ張って立たせた。
こくん、と弟は頷く。その目に、地面に置かれたふたつの荷物が飛びこんできた。
「いっこ、もつよ」
弟の言葉に姉が黙る。迷うように手提げ袋を見たあと、笑顔を振り向けた。
「むりだよ。重いんだから」
なだめるように告げて、袋の持ち手をつかむ。勢いをつけてひとつを右肩に掛け、もうひとつを右腕で持った。
あいた左手でちいさな右手をとる。
「行こ」
氷のように冷たい手と手をつなぎ、しばらく無言で歩きつづけた。空はすっかり白んで、もうわずかな星も見えない。
「もてるようになる」
聞こえた呟きに姉が振り向くと、弟はうつむき、唇をかみしめていた。姉の手を、ぎゅう、と握り込んでくる。
「おもくても、もってあげられるようになる」
肩からずり落ちそうになる荷物をどうにか掛け直して、姉は「うん」と笑みをこぼした。
「いつかね」
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