第4話 私と俺
何度かやり損ねた。
接触は向こうの方からあった。ここまではいつも通り。標的の方から私に接触するよう、私は仕向ける。
私は待ち伏せ型だ。標的を狩りに行くのではなく、自分の縄張りに入ってきたところを狩る。逆に言うと入ってくるまでは何もしない。私のそういうやり口を知っているからだろう。依頼主は私が仕事を終わらせるまで時間がかかることについてとやかくは言ってこない。
だがさすがに今回はいつも以上に時間がかかっていた。接触自体は向こうの方から、比較的早い段階であったのに、だ。
いつだったか、夕暮れ。汚いリヒン川でさえ美しい茜色に染まる時に。
私とアルベリクの間には身長差がかなりある。まぁ、暴力という手段に出られたらまず勝てないだろう。だがどうしてだろうか。その力強さに妙な安心感を覚えてしまった。広い彼の背中を見て……冷静になれば、この時毒の刃でもちくりとすればもう殺せたのだが……ほっとする自分に気づいた。そして奇妙な衝動に駆られる自分にも。それは殺害以外の衝動だった。多分だけれど、昔酒場の前で昏倒していた彼に、大量の水を飲ませて解毒した、あの時感じた温かい気持ちを、心が勝手に思い出しているんだろうな、と、そう思った。
アルベリクとはほぼ毎日酒場で飲み交わした。ここでもチャンスはあった。一滴でもいい。あの毒を食事になり酒になり混ぜればそれだけで済む。
ある日私はそれをやろうとした。料理を取り分けるふりをして、彼の皿に毒を……盛った。
ああ、ただ、その時。
彼があまりにも無邪気な顔で私を見たのだ。
咄嗟だった。私は料理の皿を自分のと取り換えた。自然な手つきで。ばれないように。
自分の皿に毒が入ったことになる。でもそんなのは食べなければいいだけの話で、私は自分の皿には一口も手をつけなかった。
するとその様子が奇異に映ったのだろう。彼が訊いてきた。
「食べないのか?」
「……ごめんなさい。食欲なくて」
彼が心配そうな顔になる。何かが痛む。
「大丈夫か?」
「平気」
シードルのグラスを握る。嘘をついてる。嘘をついてる。
「ならいいが、今日は早めに帰るか」
「うん」
小さく頷く私に、酒場の女将が意味ありげな笑みを投げてきたのを覚えてる。違う。そういうんじゃないってば。
そんなことが何度か。躊躇っている自分に気づくのは少し遅かった。自分の気持ちに気づくのも。
妙な話だ。十六の頃にちょっと接触があっただけ。それから一方的に眺めていただけで、確かに恋心のようなものはあったけど、そんなのは仕事になればすぐに捨てられたはずなのに、けれどもこんなに。
変化は些細だった。でも大きかった。
夜が楽しみになっている自分に気づいた。今夜は何を話そうか考えている自分に気づいた。彼と会う前に、髪に櫛を入れている自分に気づいた。鏡に映る自分を気にする自分に気づいた。服を着替える時、露になった肌をそっと抱く自分に気づいた。殺しの道具であるこの見た目を、純粋に彼のためだけに磨いている自分に気づいた。
愛だとか言うつもりはない。私は彼を何度か殺そうとしている訳だし、彼を愛する資格なんて私にはない。ああ、でも、ただ。
彼が笑ってくれる。彼が話しかけてくれる。彼が隣にいてくれる。それだけで幸せだった。こんな幸福感に包まれたことは今までなかった。だがその幸せが辛かった。
死んでしまいたかった。幸福感に苛まれることがこんなに辛いだなんて思わなかった。私には死ぬ手立てがあった。毒。僅かな量で死ねる毒。あれを自分で飲めばいい。そうすれば、もしかしたら、あの人への気持ちを、そのまま瓶に閉じ込められるかもしれない。
そうして一瞬でもやつれた私に、彼は敏感に気づいた。飲み過ぎるなよ。今日はこの辺にしとくか。しんどいのか。無理するなよ。今日は休め。……涙が出そうだった。
妹の訃報はそんな折に、唐突に入ってきた。
乗っていた馬車が事故に遭ったらしい。
本能的に感じ取った。妹がそんな簡単に死ぬわけがない。妹は殺し屋だ。特に私たちの一族は一際用心深く生きるよう仕込まれた殺し屋だ。殺されたって死ぬ人間じゃない。おそらくだが、事故じゃない。そう、殺されたのだ。
アルベリクのことは一旦頭の端に追いやって、妹のことを調べた。三日間、徹底的に。そしてある事実を掴んだ。さる政府要人が……間抜けな男が……妻に枕の上で話した言葉だ。
「掃除だ。この国の掃除をしている」
その言葉の真意はすぐに分かった。「掃除」は私たちの業界用語だからだ。意味を教えよう。
「皆殺し」。
この国の皆殺し。バラン国は百年前、王族を処刑して民衆が権利を勝ち取り、自由主義の下建国された国だ。つまり、民衆こそ国であり、王であり、政府なのだ。その国の政府要人が「掃除」をすると言っている。国民が国民を皆殺しにするわけがない。国民が殺すのはいつだって支配者だ。「掃除」が何を意味するのかは明白だった。
おそらくこの国の暗い部分を一掃しようとしているのだ。例えば、王族擁護派右翼。王族の処刑に伴う民衆運動により、その多くが亡命したり処刑されたりしたが、自由主義の名の下、まだ一部が秘密裏に動いているらしいことは小耳に挟んだことがある。実際に私は、元王族擁護派右翼貴族の暗殺に関わったこともある。さる有名議員も以前右翼と関りがあったことは知る人ぞ知る噂だ。彼らを消したいのか。
王政が廃止されたとはいえ、この国はまだ、封建的なところがある。貴族制度はまだ廃止されていないし……自由派貴族、と名乗る人間たちが権利を主張している……王族を擁護する人間に権利が認められているのはまだ旧態依然としたところがある象徴だ。
そして、私たち暗殺者も、また。
暗殺者は王族との関りが強い。そりゃそうだ。王族の中でも派閥はある。次の王に選ばれそうな親族の殺害なんていうのは自分の手を汚すわけがない。誰かにやらせるのだ。その「誰か」が代々私のような家の人間だった。自由派貴族の目からすれば、私たち殺し屋も、間違いなく旧態依然、封建社会、反自由の象徴だ。
掃除。皆殺し。
でもたかが一般人に殺し屋が殺せるわけがない。そこで奴らが考えそうなことは、だ。
殺し屋に殺し屋を殺させる。
だから私の元に依頼が来たのだ。アルベリクを殺せ、と。上手くいけば相討ち。上手くいかなくてもどちらかは死ぬ。そうやって最後の一人になるまで殺し合いをさせて、残った一人を……一人くらいなら、適当な罪状をつけて処刑できる……始末する。汚い人間の考えそうなことだった。そして妹は、そんな殺し合いの結果、殺される側の人間になったのだ。妹のことについて考え始めた三日目の朝。私はある追加の情報を掴んだ。妹の乗っていた馬車。その馬車が停まっていた駅周辺。マチュー家の縄張りだった。マチュー家と私たちルー家はかつて仕事を巡っていざこざを起こしたことがある家同士であり、このことを知っている親族は一部に限られたが、長子である私は母からこの話を聞いていた。マチュー家の人間には気をつけなさい。彼らは「何度も」殺すから。手口についても聞いた。嫌な殺し方だ。
例えば、死ぬ確率が百分の一の行為があったとしよう。階段の板の一枚が傷んでいて、うっかり転倒して運悪く首を折って死ぬ、というような。
確率は百分の一だと定義した。百回に一回しか死なない。ではそれを、百回やったら? 百回階段から転ばせたら? 階段からは無理かもしれないけど、似たような条件で手を替え品を替え繰り返したら?
マチュー家のやり方はそれだ。何度も殺すのだ。何度も「死ぬ確率がある」ことを標的にやらせる。そうして何十回目か何百回目かに標的が死ねば、それはあくまで事故として処理されるだろうし……うっかり階段から転げて首を折って死んだ人間を、殺されたなんて言う人いるわけがない……死ななければ死なないで次の手をまた延々と打つだけだ。
妹の死にはかなり高確率でマチュー家の人間が関わっているに違いなかった。妹は私と違ってマチュー家とのいざこざを知らないし、警戒もできない。うっかり手に落ちることは十分にあり得る。
国が、殺し屋に殺し屋を殺させようとしている。
となれば事態は変わってくる。私は速やかに、アルベリクと手を組まなければならない。
我が身を守るために。愛する人を守るために。
話がある、とアルベリクを呼び出したのは、三日間、妹のことを考えていたが故に酒場に行けなかったすぐ後のことだ。彼は待ち合わせの時間よりずっと早く私の指定した場所に来ていた。私は訳あって遅刻した。彼は何かに怯えるような顔をして来るか、と思ったが、意外にも冷たい面持ちで彼は待ち合わせの場所にいた。
「言わなければならないことがあるの」
私のこんな言葉にも、彼は全く動じなかった。
「実は私……」
「……殺し屋だった」
被せるような言葉に、私は思わず笑った。
「知ってたんだ」
「俺も殺し屋だからな」
「何で分かったの?」
これは仕事の不手際だ。後学のために知っておく必要がある。
「君が料理を取り分けた時、皿をすり替えたことが何度かあったな」
「あったね」
気づいてたんだ。私はまた笑った。
「あの酒場は衛生観念がしっかりしててな。客の食べ残しをまかないにはしない。捨てるんだ。店の裏の川にな。そこに魚が集まる。まぁ、当たり前かもな。餌があるんだから。そこの魚が大量に死んでいたんだ。君は皿をすり替えた時、自分の分は決して食べなかった。そうして残った食事は店によって裏手に捨てられた。その捨てられた料理を食べるのは魚だ。魚がたくさん死んでいた。死骸の流れてきた上流には店があった。何が起きそうだったかくらい分かる」
「そっか」
簡単なことだった。やっぱり殺しかけて殺さないのはよくない。
「で、大事な話って?」
彼は鋭い目つきで訊いてきた。きっと、仕事の目だ。
私は話した。私が知り得た全てを。
「……なるほどな」
彼はため息をついた。
「俺も妹を殺された。アシルという殺し屋だ。殺し屋が殺し屋を殺してる」
じゃあこっちも大事な話だ。
アルベリクが川を背にした。
「向こう岸の桟橋。その手摺。釣竿を持ってるように見える男は狙撃手だ。旧式だが銃を持っている」
「……あんな遠くから当てられるの?」
「戦争の記録を読まないのか?」
彼は揶揄うように笑った。
「十分射程圏内だ」
俺が盾になる。彼ははっきりそう言った。
「逃げろ。銃が使えるということは政府関係者だ。おそらく軍人。俺たちがお互いを殺さないことに業を煮やしたんだ」
「そうかもね」
「おそらくだが一人じゃない。もう囲まれてるかもしれない」
「確かにそうかも」
「……随分お気楽だな」
私はにっこり笑った。
「桟橋の手摺って、ささくれ立ちやすい」
「……だったら何だ?」
「棘が刺さっちゃうかも」
アルベリクがゆっくり振り返る。彼の視線の先。私にも見える。
力なく手摺にもたれかかる釣竿の男。百万分の一の確率に賭けて、手摺の表面に毒を塗っておいた。ささくれた棘が刺さりますように。マチュー家のやり方も上手くいくものだ。
「逃走経路は考えてある?」
私の問いに彼は静かに答えた。
「俺の家に来るか?」
私は微笑んだ。自分が一番、美しく見えるであろう笑顔で。
「素敵な考え」
彼の家に行った。素朴な家だった。窓辺に枯れた花があった。ゼラニウムの花だった。
「立て篭もり?」
私が揶揄うと彼も楽しそうな顔をした。
「地下室から繋がる地下通路がある。下水道を通る羽目になるがリッレに向かえる」
「逃げないの?」
「俺が時間を稼ぐ」
彼は武器を手に取った。刀だった。驚くほど大きい。彼には似合わない。そしてピンと来た。もしかしたら。アシルという殺し屋を殺したのかもしれない。妹の復讐に。
「どうせ国には勝てない」
同感だった。国外に逃亡すればまだ手はあるだろうが、アルベリクを連れて、だと必然的に無理があった。
「君だけでも逃げてくれ。頼む」
人の首なんて簡単に切れてしまいそうな、大きな刀を抜いて彼が懇願する。私はその顔に拒否をつきつける。
「嫌」
そして彼のたくましい体に、そっと抱きつく。
「あなたのこと、全て知りたい」
アルベリクが私の頭に手を置いて笑った。
「今からおしゃべりするか?」
ううん、と私はアルベリクの胸に顔を押し付けた。それから、彼の少し汚れたシャツに手をかけた。
彼の分厚い胸板が露わになった。
「おい、そんな色っぽいことしてる場合じゃ……」
その唇を、私が塞ぐ。それから乱暴に彼を脱がせた。
「どうせ国には勝てない」
彼の言葉だ。否定はさせない。
「最期でしょ」
私は自分の服にも手をかけた。
「私を見て。あなたも見るから」
そうして、お互いの吐息が肌に触れる。
「どうするんだ?」
彼の家の寝台の上に、二人向かい合って座る。彼の囁きに私は返す。
「これ……」
首から下げた、シュトラツブールの月。大きな獣、ルヴトーの牙。
「私ので、あなたの心臓を刺す」
私は指で、彼の胸板の窪みをなぞった。
「あなたので、私の心臓を刺して」
彼の指を、私のふくらみの間に導く。彼は静かに頷いた。
「最初から、こうなる運命だったしな」
「最後まで仕事をするなんて熱心な殺し屋」
「本当だな」
しばしお互い見つめ合う。それから告げる。
「なるべく楽に済ませるから」
「俺もそのつもりだ」
それから、お互いの胸にシュトラツブールの月を当てた。深く、呼吸をする。
「ねえ」
今際の際に、私は告げる。
「——愛してる」
「——俺もだよ」
それから一呼吸。
胸がほんのり、温かくなった。
了
シュトラツブールの月 飯田太朗 @taroIda
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