第43話 エピローグ

「おや、室伏さん。今日から長期休暇じゃなかったかい?」


 海に面した神社の回廊を、葵がスーツケースを引きながら歩いていると、浅葱色の袴をはいた先輩神職に声をかけられた。


「はい。休み中ご迷惑をおかけします。……今日の夜の飛行機で発つので、その前に神様にごあいさつをと思いまして」


 葵が答えると、先輩は「ゴルカナ五泊六日だっけ? 気をつけていってらっしゃい」と言って、立ち去った。


 五年前、ゴルカナ旅行から帰った葵は、神主になる決心をした。


 もともと祖父の仕事に興味はあったので、さほど抵抗はなかった。四年制大学を卒業したあと、神道学科のある大学で一年間の専修コースへ進み、葵は神職資格を取得した。


 本来なら大きな神社に奉職できる神主は一握り、まして女性神主にとっては狭き門なのだが、驚くほどすんなりと奉職が決まった。

 これも、裏で手を回した方がいらっしゃったからだろう。


 葵は本殿に拝礼してから、まろうど神社へと向かう。


「ナーガ」


 呼びかけると、納曾利なそり面をつけた青年が、格子戸の向こうにある朱色の扉から抜け出してきた。


 初めてお会いしたときのナーガは少年の姿だったが、海神のもとで修行を重ね、すっかり龍神らしくなられた。今では、潮を自由自在に操れる。


「大変お待たせいたしました」


 葵よりも背が高くなった納曾利なそり面の青年を見上げる。たくましさと威厳を兼ね備えた龍神が、かすかにうなずく。


「うむ。儂もようやくゴルカナに帰れる」


 本当は、すぐにでもナーガをお連れしたかった。けれども、水晶に乗れないほど成長されていたため、残された方法は「霊力のある人間が神輿となり、体に乗せてお連れする」しかなかったのだ。


 神主になると決心してから、葵は日々所作を磨き心を整え、龍神を乗せるのに耐えられる心身作りに励んできた。

 七年もアリと戦い続けたクマリに比べれば、たやすいものだと自分を鼓舞しながら。


 あれから、元クマリのラシュミナとは定期的にメールのやりとりをしている。

 ラシュミナは現在十四歳だが、飛び級ですでに高校三年生だ。アメリカに留学して、情報工学を学ぶ予定だという。


 彼女の近況報告は、事実の列挙のみで感情に乏しかったが、一度だけ、写真付きで興奮気味にメールをくれたことがあった。


 その写真には、赤いクルタ・スルワールを着た笑顔のラシュミナと、三歳くらいの男の子が写っていた。

 鷹のように鋭い三白眼をした褐色の肌の男の子は、ラシュミナのクルタの裾をぎゅっと握り、背後に隠れながらカメラを見ていた。


 ――アカーサ!


 この子はスニルといって、マヤの養子なのだそうだ。

 が、カメラを向けているマヤよりもラシュミナに懐いているのは、一目瞭然だった。


 輪廻の中で、ちゃんと見つけられたのだ。


 クーデターの日、銃を持った王太子に突進して撃たれた鷹のことを思い出す。アカーサのおかげで、葵は死なずに再び日本の地を踏むことができた。


 写真を印刷して手帳に入れ、葵は二人の人生が幸多いものとなるよう祈った。


 ラシュミナに、久しぶりに会える。

 積もる話もたくさんある。彼女は相変わらず無愛想だろうけれど。


「ナーガ、では参りましょうか」


 納曾利なそり面の青年はうなずくと、白銀の鱗をきらめかせる龍に姿を変えた。雄々しい角や長い髭が、青い空に映える。

 龍は、名残惜しそうに空と海が作る水平線を眺めていたが、やがて姿を小さくして蛇程度の大きさになると、葵の頭へ冠のように巻き付いた。


 葵の頭がずしりと重くなり、こめかみがキリキリと痛む。が、不思議と不快ではなかった。


「アオイ、よろしく頼む」


 スーツケースを引いて、葵は海沿いの神社をあとにした。潮のにおいが鼻をくすぐる。


 葵の脳裏に、氷に覆われたヒマラヤの山々と、鏡のように澄んだ湖が、鮮明に浮かぶ。ナーガが故郷を思い出しているのだろう。


 電車を乗り継いで、国際空港へ到着する。ゴルカナ行きの直行便を出す会社は、民主制になったため「ロイヤルゴルカナ航空」ではなく「ゴルカナ航空」と名を変えていた。


 ドラヴィ王は公約通り、ゴルカナを民主国家にし、現在は象徴国王として存在している。


 相変わらずこぢんまりとした飛行機に乗り込み、席に着く。

 ストゥーパの目をデザインしたシャツを着た欧米人が、向かいから歩いてくる。

 あれは、元王太子チャトナがフランスで立ち上げた服飾ブランドのものだ。カッティングの細かさ、刺繍の美しさとエキゾチックなデザインがヨーロッパで人気となり、最近はアジア圏でも見かける。


 ナイトフライトは、離陸してまもなく消灯時間となる。ナーガを乗せているため頭が重く、葵はすぐに眠りへと誘われた。


 目覚めると、葵は体が自分のものではないような感覚に囚われた。動こうと思えば動けるけれど、いまいち意識と体がつながっていない。飲み物はどうかと訊きに来たCAに水を頼もうとしたのに、ゴルカナ語でミルクティーをもらったりしている。


 サハールの空港に降り立つと、懐かしい土埃のにおいがした。葵の頭に巻き付いたナーガがそわそわしているのがわかる。


 入国審査でも、葵が英語で答えようとするにも関わらず、口から出てくるのはゴルカナ語だった。ナーガの意識が混ざっているのだろう。

 ぶつぶつと意味不明なことをつぶやきながらスーツケースを受け取り、葵の身体は出口へと向かう。


 ロビーに、ラシュミナとマヤ、スニル少年が迎えに来ているのが見えた。背が伸びたラシュミナは、ハーフリムの眼鏡をかけている。


 駆け寄って再会を喜びたいのに、足が動かない。逆に、三人が葵の方へ来て跪礼をした。

 そんな大げさな! と葵は思ったが、彼らにしてみれば、国を守る龍神がようやく戻ってきてくれたのだ。跪礼もしたくなるだろう。


 ラシュミナが、葵の手を握ってくる。握り返したいのに、力が入らない。


「アオイの意識が限界のようだ。マヤ、超特急で頼む」


 マヤが葵のスーツケースを引いて、先に歩き出す。葵はラシュミナの誘導で、車へと向かった。ラシュミナとスニルに挟まれて、後部座席に座る。


「飛ばしますよ」


 マヤの運転は乱暴で、葵は吐きかけたが、このあたりから記憶があやふやになっていった。


 もう少しの辛抱だから、と背中を押されて、葵は気づいたら山道をのぼっていた。

 五年前、ナーガが棲んでいた湖に案内されたときに通った道だ、とぼんやり思う。


 のぼりきったところで視界が開けた。


 大きな湖が広がっていた。

 水はどこまでも澄んでいて、空の青と、氷で覆われたヒマラヤの山々を、鏡のように映している。


 ふ、と葵の頭が軽くなる。


 蛇ほどの大きさになって頭に巻き付いていたナーガが、空に向かって一直線に昇り、みるみる大きくなる。白銀の鱗が太陽の光にきらめき、長い髭とたてがみが風になびく。


「ご苦労であった。礼を言う」


 納曾利なそり面と同じ金色の目が、葵を見下ろす。


 蒼天を背にした龍は、湖面へと一気に降下した。

 水しぶきはあがらず、吸い込まれるように水の中へと消えていく。

 最後に尾が入ると、湖は揺らぐことなくもとの静けさを取り戻し、氷の山を映し出した。


 ようやく意識がはっきりしてくる。葵があたりを見回すと、あらかじめ用意されていた祭壇に、果物がたくさん乗っている。それを、ラシュミナとマヤが、何かを唱えながら湖に投げ入れ始めた。浮かんでくるはずの果物は、一つたりとも湖面にあがってこなかった。


「ナーガが召し上がられたのだ」

 ラシュミナが隣に立つ。


「ようやく肩の荷が下りたな、アオイ」


 笑顔を向けてくれるラシュミナに、葵もほほえみ返した。


 長かった。やっと、すべて終わったのだ。


 もう一度湖に拝礼し、みんなで村への帰路につく。

 葵はスニル少年に声をかけてみたが、はにかんだようにラシュミナの影に隠れてしまう。


「人見知りなのだ。まだ英語も話せないしな。……アメリカに行くまでには、覚えて欲しいのだが」


 ラシュミナがスニルと手をつなぎ、ゆっくりと坂道をおりる。


「来年には留学するんだよね。マヤさんも一緒に」


「ああ。費用はマヤがなんとかしてくれたから、スニルも連れて行く」


 マヤが得意そうに会話に入ってくる。

「ネットの株でちょっと儲けましてね。日本の株式もいくつか買いましたよ」


 五年前と打って変わって、マヤの表情は明るい。


 そういえば五年前、葵がこの山道を降りる途中、クマリから電話がかかってきた。電波は届いていないはずだったのに。

 葵は試しに携帯を取り出してみる。あのときと同じく、電波を示すアンテナは立っていなかった。


「ねえ、ラシュミナ。どうやって電波の届かない場所に電話をつなげていたの?」


 放送局の屋上でナーガを召還したときも、アンテナは立っていなかった。


「物心付いたときから精進潔斎していたから、無意識にできていた。今は無理だ。やり方すらわからん」


「そっか。もう普通の女の子だもんね」


「ああ。……そういえば、あのとき旅行をキャンセルさせてしまったアオイの友人には、悪いことをした。今度は一緒に来るといい」


 やはり鏡香の胃けいれんも、クマリの仕業だったのか。葵は苦笑した。


「そうだね、次は鏡香も誘ってみる。カレシ優先だから、来てくれないかもしれないけど」


「アオイには、カレシはいないのか?」


「いるわけないじゃん! ナーガをお連れしなきゃいけないから、身を清く保ってたのよ」


「それは、日本では『ボッチ』というのではないのか?」


 ラシュミナは時々、妙なネットスラングを使う。ひどい、と葵がおどけてみせると、彼女は真顔になった。


「冗談はさておき。アオイももう、役目をまっとうしたのだ。今後は、自分の思うように生きればいい」


 役目とは、何なのだろう。

 三歳でクマリに選ばれたラシュミナは、七年間アリと戦って国を守り、王族に生まれた運命を拒んだチャトナ王太子は、我が道を歩んでいる。


「運命って、何だろうね」


 誰にともなく、葵はつぶやいた。坂道をおりながら、マヤが言う。


「五年前、ストゥーパを見ながらアオイは言いましたよね。王に生まれるのではなく、意思によって王にのだ、と」


 そういえば、そんな格好つけたことを言った気がする。


「運命は、もしかしたら決まっているのかもしれませんが、その人の意志がそそぎ込まれてはじめて動き出すのではないでしょうか」


 人間は未来を知ることができない。後になって「あれは運命だったのだ」と納得するしかない。だからこそ、必死に考え、あらがい、生きるのだろう。


「多元宇宙論とかパラレルワールドという考え方によると、複数の可能性が平行宇宙として存在しているらしいぞ」

 ラシュミナが混ぜ返す。


 どこかに、女王アリに負けてしまった世界や、クーデターが成功した世界も存在するのだろうか。


「じゃあ、この世界を選び取った私たちを褒めてあげなきゃね」

 噛みしめるように、葵は言った。


 スニル少年が、ぐずったような声をあげてラシュミナの手を引っ張る。


「難しい話題は終わりだ。帰ってパンケーキでも食べよう。昨日、たくさん焼いておいたのだ」


 表情のやわらかくなったラシュミナとスニルを見比べて、葵は笑った。


「ラシュミナ、変わったよね」


「そうか? 『一期の盛衰、一杯の酒』というではないか。小難しいあれやこれやも、パンケーキのうまさにはかなわんのだ」


「アンズのジャムも作ってありますよ」


「マヤのジャムは、うまいのだ。アオイ、知っているか、果物は天日干しにしてから煮ると、甘さが増すんだぞ」


 山道を下り終え、村への道に出る。

 小高い丘の上に、ストゥーパが見える。胴体部分に描かれた双眼が、じっとこちらを見ている。


「あの目の下の『?』マークって、お前はここで何をしているのだ、って問いかけの意味だっけ」


 ストゥーパを指さして訊ねる葵に、ラシュミナがにやりと笑った。


「いや、あれはな、飲み物はミルクティーとバター茶、どちらがいいか訊いているのさ」



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常世のクマリと塩の巫女 芦原瑞祥 @zuishou

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