第42話 さよならゴルカナの灯
翌朝早く、葵はクマリとマヤの三人で川沿いのガートへ向かった。
退任が決まったクマリには猶予期間があり、少しずつ外出が許されるのだという。とはいえ、今回は顔を隠したお忍びではあるが。
火葬場になっている川沿いの階段に、オレンジ色の屍布に包まれたアカーサの遺骸を置く。クマリが川の水をすくって、アカーサにかける。遺体を清めているのだという。
布にくるんだまま、しばらく階段に置いて遺骸が乾くのを待つ。その間に、火葬用の穴の上に、バターを塗った薪を積む。におい消しの白檀の粉も振りかけた。
最後の抱擁を終えたクマリが、薪の上に遺骸を乗せ、火をつける。
炎は舐めるように全体に広がり、アカーサの体を包む屍布を焦がした。羽や肉が、隙間からのぞく。
熱で筋肉組織が収縮したためか、遺骸が起き上がるように丸くなる。葵は思わずどきりとしたが、クマリもマヤも淡々と、灰の舞うそれを見ていた。
頭蓋骨が溶ければ、魂が天にあがった証拠なのだという。
白い骨が消えてしまうと、クマリは天を仰ぎ、立ちのぼる煙の行方を見つめていた。
トレードマークの目張りを入れず、白いクルタ・スルワールを着た彼女は、九歳の少女にしか見えなかった。
アカーサの灰は、川に流された。こうすることで、輪廻してまた現世に戻ってくるのだそうだ。
昼過ぎに葵が館へ戻ると、旅行会社の人が葵を迎えに来ていた。クリシュナの代わりの人だ。
昨日のクーデター騒ぎで飛行機は欠航だと思い込んでいたし、通信システムがダウンしていたから連絡も入れていなかった。葵は大あわてて荷造りをする。
スーツケースを持ち小走りで玄関へと向かうと、九歳の少女が見送りのために待ってくれていた。
「クマリ」
葵が呼びかけると、「もうクマリではないぞ」と返される。
「じゃあ、ラシュミナ」
葵は自分の連絡先を書いた紙を彼女に渡した。小さな手で、彼女がそれを受け取って言う。
「メールはすぐにでも送る。住所は改めて連絡する。次のクマリが来るまで自宅に帰れないから、二ヶ月はかかるだろうが」
ワンピースとズボンを合わせた民族衣装を着た少女が、葵に向き直る。
「帰ったら、ナーガに礼を言っておいてくれ。それと、なんとかゴルカナに帰ってきて欲しいと」
あのとき出現したのは、ナーガのほんの一部だったようだ。
「わかった。必ず伝えておく」
早くしてください、空港は大混雑ですよ、と添乗員がせかす。
「アオイ」
ラシュミナが、塗料の入った小さなケースを取り出す。
「旅の無事を祈って」
左手の人差し指に朱の塗料をつけて、葵を見ている。ティカには、安全を祈る意味がある。
葵はかがみ込んで前髪を左右にかき分け、額を出した。
ラシュミナの小さな指が、葵の額をなでる。最初にティカを授けられたのが、随分前のことのようだ。
「ありがとう。ラシュミナも、元気で」
かけたい言葉がたくさんあるはずなのに、それ以上出てこない。
早く早く、とスーツケースを引ったくって走り出す添乗員に急かされ、葵は靴を履いて外に出た。
振り返ると、クマリが――ラシュミナが手を振っていた。
「また連絡するから!」
葵も大きく手を振り返した。
クマリの館を出て、車まで走る。本当に急いでいるらしく、添乗員の運転は乱暴だった。
都市部に入ると、車は渋滞につかまった。何とか空港に着いたものの、中は予想をはるかに超えた大混雑だった。優秀な添乗員が人をかきわけてリコンファームしてきてくれたおかげで、葵は予定していた夜の便に乗れることになった。
とはいえ、夜七時の便は十時になっても搭乗開始されず、待合室は疲れ切った人たちでいっぱいだった。通信は復旧しているので、みんな携帯電話やパソコンをいじっている。
テレビでは、昨日のクーデター関連のニュースが流れていた。
死亡者はなし、怪我人が数名と、被害は少なかったようだ。首謀者については、「調査中」と報道された。
チャトナ王太子が大事を取って急遽フランスへ出国した、と続報が入った。「国王に何かあったときに王統を守る危機管理だろう」と、待合室のアメリカ人たちが話しているのが聞こえる。
国王親子は、お互いを傷つけないために距離を取ったのだろうか。
どちらも悪くて、どちらも悪くない。王族でなければ、ここまでこじれることはなかっただろうに。
葵は複雑な思いでニュース画面を見つめた。
クマリにしろ、王族にしろ、自分の意思と関係なく重責を負った人というのは、どういう心持ちなのだろう。
国王はノブレス・オブリージュと言っていた。自らの運命を責務として受け入れる、そこに抵抗はないのだろうか。チャトナ王太子のように。
「運命、か」
日本語でつぶやく。
運命、そして役割。葵の中で、ある決意が固まりつつあった。
帰宅が遅れそうなことを祖父にメールをしようとした葵は、鏡香からメッセージが入っていたことに、今気づいた。
――ゴルカナでクーデター未遂って、大丈夫? 心配してます。
送信日時は昨晩だ。きっと心配しているだろう。葵はあわてて返信を打った。
――大丈夫! 予定通りの飛行機に乗れることになったよ。でも、混乱しててお土産買えなかった。ごめんね!
送信してから、SNSの鏡香のページを見る。「スタバの新作フレーバー☆」などと書かれた投稿に、この数日の出来事とのあまりの落差を感じる。
懐かしくて早く帰りたいような、違う世界のことのような、複雑な気持ちだ。
ようやく搭乗開始のアナウンスが流れる。
手荷物チェックは厳重で、軍服を着た女性兵士がリュックの中身をすべてトレイに出し、ポーチの中はもちろん化粧品の蓋を開けてまで確認された。
葵がびくびくしていると、去り際に女性兵士が「そのティカ、かわいいね」と英語で言ってくれた。
銃を持った兵士たちに見張られながらゲートを通る。葵はやっと飛行機に乗り込み、席に着いた。
離陸したのは日付が変わってからだった。
首都サハールは、ビルや民家が密集した場所に空港があるため、飛行機は急角度で飛び立つ。
街の灯が急激に遠ざかっていく。
うっすらと山々が見える。ラシュミナはどのあたりにいるのだろう。もう常世へ行かなくて済むのだし、ちゃんと眠れているのだろうか。
今頃になって涙が出てきた。ゴルカナの埃っぽい空気が懐かしくて仕方がない。
(また、必ずここに戻ってくる)
雲がゴルカナの灯を隠すまで、葵は決意を胸に、窓の外を見つめていた。
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