十七、令和九年十一月十六日(火)

47. 最終話

 事故のあと私は園を辞め、一年ほど沢岡のそばで暮らした。でも、結婚は叶わなかった。上の許可が下りなかったのだ。片手のない、不穏な事件の渦中にい続けた女は刑事の妻に適さないと判断されたのだろう。沢岡は辞職を口にしたが、私が頭を横に振った。沢岡は、誠実で真面目な男だった。最初は刑事に向かないと思っていたが、あそこはきっと沢岡のような男が必要な職場だ。沢岡は別れ際に私を抱き締めて、何かあれば、と震える声で言った。でも、あれから一度も連絡はしていない。

 沢岡と別れたあと半年ほど教会へ通い、洗礼を受け、夫と結婚した。夫は私を支えるため異動願いを出し、幼稚園を併設していない小さな教区の主任牧師となった。

 結婚二年目に、三度目の体外受精で娘達を授かった。夫はグレていた頃に誰も妊娠しなかったことを不審に思い、大学院の頃に検査を受けたらしい。その結果、精子が極端に少ない体質と知って結婚を遠ざけていた。

 二〇〇〇グラムと二一〇〇グラム、小さめに産まれた娘達はのぞみいのりと名付けた。無事産まれた時には喜びが勝ったが、初めての子育ては想像以上に過酷だった。元幼稚園教諭とはいえ相手にしていたのは新生児ではないし、していたとしても我が子ではまた違うだろう。しかも双子で、私には片手がない。泣く時もお腹を空かせる時も熱を出す時も、娘達はいつも一緒だ。どうしても、夫に頼ることが増えた。

 夫はおむつ替えさえも上手くできない私を支え、首が据わったあとはどちらか一人を背負って日中の執務を行った。程よく田舎の、おおらかな人の多い土地柄のせいか特に文句を言われることもなく、娘達は夫の背中で元気に育った。

 保健師の教会員に勧められ、一歳になるのをきっかけに保育園へ預けた。最初は号泣していた娘達もすぐに馴染み、三歳になる頃には保育園に行かない日曜を残念がるまでになった。家の中では保育園で習った歌を揃って朗らかに歌い、くるくるとよく踊った。

 確かに、大変なことは山のようにある。夫の謝儀は僅かだし土日も休みではないし、子ども達は筍のように成長するし、私は母親としても妻としても牧師婦人としても人の半分も働けない。それでも、幸せだった。


「すごい荷物が来てるな」

 昼食に戻ってきた夫が、居間に積まれたダンボールに笑う。

「お父さんが一人に一箱って張り切って」

 苦笑しつつ、茹で終えたうどんをシンクのざるへ上げる。ぼわりと立った熱気が、冷えた空気に散った。今年も残り一月半、来月は最大の繁忙期だ。

「あとは僕がするよ。揚げと出汁でしょ」

 上着を脱いだ夫はシャツの袖をまくりあげて、手を洗った。

「ありがとう。器出すね」

 あとの作業を夫に任せ、食器棚から丼を取り出す。作業台へ並べたあと、冷凍庫から刻みネギの袋を取り出す。片手では、どうしても半調理品や冷凍に頼らざるを得ない。保育園で弁当が必要な時は、夫がおにぎりを握っている。

「今年の誕生日プレゼントは、なんになったの?」

「お世話人形とお姫様みたいな服だって」

「お姫様の格好での豪華なおままごとが始まるな」

 夫は笑いながら、片手鍋から揚げを移す。二人が多い昼食は、ほぼ麺類だ。うどんラーメンパスタそば、冷凍とインスタントの繰り返しだが、夫が不満を漏らしたことはない。

「親が絵本とケーキで、申し訳ないね」

「大丈夫よ。あの子達、何でも喜ぶから」

 箸を並べたあと、思い出して七味を取り出す。テーブルへ戻ると、夫もちょうどうどんを運んだところだった。

 斜向かいの席に着き、夫はいつものように手を組む。私は、先を失くした左手の手首を包むように覆う。外へ出る時は義手を着けるが、家の中ではこのままだ。

 夫は、私が左手を引き換えに自分の命を救ったことを分かっている。私が何を知っているのかも、きっと分かっているだろう。それについてこれまで話し合ったことはないが、この先もない。それでも私達は、夫婦として生きていく。

 結びの言葉を揃えて終え、箸を手に取った。

「ケーキ、何時だっけ」

 夫がうどんを吹き冷ましながら聞く。

「四時半頃で頼んでる。いつものとこ」

「迎えに行ってから寄る方がいいね。ケーキって言ったらすぐ帰り支度するだろうし」

 早く迎えに行くと遊び足りなくて文句を言われ、園庭で二十分は待たされる。今は三輪車に夢中で、迎えに行くと大体園庭を爆走していた。

「それにしても、早いな。もう四歳か」

「ほんと。無事に育ってくれて、『ありがとう』としか言えないわ」

 そうだな、と答えて笑み、夫はうどんを啜る。開いたシャツの襟もまくりあげた袖も、相変わらずその辺のサラリーマンと変わらない。

 四十七歳になった夫の髪には白いものも増えてきて、目尻の皺も深くなった。保育園の保護者の中では、年齢の高い部類に入るだろう。中年太りとは無縁の体型だが、肺に影があると今年の健康診断は要精検になった。受けた胸部CTでは「異常なし」でひとまず安堵したものの、そういったことも気にしなければならない年齢に差し掛かっている。

 一回り違う年の差をこれまであまり気にしたことはなかったが、娘達が十七になる時には夫は六十だ。牧師は、定年のないありがたい仕事ではある。でも思春期の娘達が、牧師の父親に何を思うのか。恐らくは、私には経験のないことが起きるだろう。

 まあ、こんなのは先の話だ。胸に渦巻いた不安を宥め、うどんを啜る。今は今の、娘たちの成長を純粋に喜べばいい。

「僕は、君にもだけどね。君はずっと、僕の光だ」

 滲む汗を拭う左腕を下ろし、淡々と食べ進める夫を見つめる。神の言葉は多くても、愛の言葉は控えめな人だ。これも、神の言葉と言えなくはないが。苦笑して、またうどんへ向かう。吹き冷ました揚げをかじると、控えめな甘さが沁みた。


 五時前に帰ってきた娘達は、二人でケーキの箱を慎重に運んでくる。夫似とも私似とも言われる、彫りの浅いなだらかな顔立ちが緊張を漂わせていた。

「おかあさん、ただいま。ケーキ!」

「ただいま。きょうのごはん、なに?」

 一斉に話す娘達を、おかえり、と迎えながらケーキの箱を受け取る。

「今日は、カレーとチキンナゲットとサラダだよ。ご飯食べたら、ケーキ食べようね」

 うん、と答えの揃った娘達は、好物に目を輝かせる。紅潮した頬に、満面の笑みを浮かべた。

「おじいちゃんのプレゼントきた?」

 今日の髪型は、編み込みだ。要求の煩くなってきた娘達のために、動画を駆使して夫に覚えさせた。今では一人あたり十分足らずでできる。今日は崩れていないから、先生が編み直してくれたのだろう。

「きてるよ。お部屋に置いてあるから、開けてみたら」

 答えるや否や、二人は一目散に二階へと駆け出して行く。

「危ないから、階段はお姫様歩きよ!」

 いっちゃんがさいしょ、やだあ、とはしゃぐ娘達に声を掛け、ケーキの箱をひとまず冷蔵庫へと運ぶ。天井から伝わる音に、喜ぶ姿を思いながら夕飯の支度に取り掛かる。

 父は結局、本人達の望んだお世話人形とお姫様のようなドレスに加え、ぬいぐるみまで贈ってくれた。母を喪い弟が精神科病棟への入退院を繰り返す今、私の家庭と孫の幸せは父の生き甲斐だ。教育費の積立の上、生活費まで援助してもらっている。娘達が小学校へ上がったら障害者枠で仕事を探すつもりだが、どうなのだろう。片手しか使わない仕事なんて都会ならともかく、ここにもあるのだろうか。

 また翳り始めた胸を切り替え、冷凍庫から野菜ミックスを取り出す。甘辛く味つければ肉じゃがに、カレールーを入れればカレーにと、我が家には欠かせない商品だ。

 肉の灰汁を取り除き終えたコンソメスープに、凍ったままの野菜を投入する。少し煮てルーを投入すれば、完成だ。

 静かになった二階を見上げ、鍋に蓋をする。一通り中身を確かめ、着替えに奮闘している頃か。手を洗い、手伝いへ向かうことにした。


 階段を上り、すぐ手前のふすまを引く。予想どおりお姫様のようなドレスには着替えていたが、こちらへ向けられた背中は二つともぱっくり開いていた。ファスナーが上手く閉められないのだろう。

「プレゼント、どうだった?」

 声を掛けると、二人は揃ってぱっと振り向く。

「おかあさん、みて!」

 望は、嬉しそうに掴んだものを持ち上げる。そこにぶら下がっていたのはお世話人形、の頭だった。傍らには、はさみが転がっている。

 一瞬で凍った私に、祈が「いっちゃんも」と腰を上げ、脱げそうなドレスをたくしあげながら私に駆け寄る。

「みて!」

 まるで誇るかのように広げられた小さな手の中には、お世話人形の小さな左手が握られていた。

 まさか、そんな。

 思わずへたりこんだ私に、望も近づく。もちろん手には、人形の頭を下げている。

 後ずさり、襖に背を預けて二人の顔を交互に見据える。

「おかあさん、どうしたの?」

 不思議そうに窺う望に、冷たい汗がこめかみを伝う。まさか、こんなことが。

「おかあさん」

 蛍光灯の白い光を浴びて近づく小さな手が、昏い影を引いた。



                               (終)

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子羊は翳に染む 魚崎 依知子 @uosakiichiko

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