03.『螺鈿迷宮』
蓮の花が沈んだ。
陽射しの強い、初夏のことであった。
「この店を、お前に預ける」
「旦那様、何を仰っているんで?」
「お前には才がある。だから、この店を託そうと思う」
「私には荷が重すぎます。それに、まだ御隠居なさるようなお年でもないでしょう」
「いんや。もう老ぼれの出番はないよ」
旦那様は目尻に皺を寄せ、首を振る。
「しかし、私なんぞが……その、良いのでしょうか? 旦那様のように人から好かれることも少なく……それに私よりも商談の上手な者も、
「これから沢山経験を積んでいけばいい。堅実に励めば、いつの間にか立派な
「……へえ」
生返事になった
旦那様が川に浮いているのが見つかったのは、その翌朝のことであった。
駆けつけた嘉六は、茫然として立ち尽くした。
彼の手に、萎れた一輪の花が握り締められているのが、ちらりと見えた。
最後に見た彼の笑顔が、嘉六の脳裏を過ぎる。何故だろうか、涙は流れず、堰き止められた感情が、胸と肺を押し潰しているようであった。
ふと、水が鳴いたような気がして、顔を上げた。周囲の雑音がふっと遠のいて、陽を照り返す水辺に焦点があった。
此方を見た。
その鳥は
まだ
その頃、旦那様はまだ若旦那と呼ばれており、出来の悪かった嘉六にも優しく接してくれた。奉公に励む嘉六を見つけると、「秘密だぞ」と言って、いつも懐に忍ばせてある飴玉をくれた。人からよく好かれ、評判も高かった彼は、仕事にも実に誠実で、最初は小さかった店の業績も
「旦那様……」
やけに広く感じる縁側に
「旦那様、お食事です。少しでも召し上がられて下さい」
「……ああ」
自分が呼ばれたことに気付いて、嘉六は少し遅れて返事を返す。それを哀傷に依るものと受け取ったのか、女中は心持ち眉尻を下げて、襖を静かに閉めた。
気付けば、すっかり日が暮れている。暮方にこうやって、夕涼みをしていた旦那様を思い出す。彼は時折、表情を翳らせることがあった。美しく、儚く。それは形容し難い、なんとも
「君はよく勘案し、いつも自分の意見を持っている」
酒器を手に縁側に座る旦那様の、今にも消えてしまいそうな姿を見た時、嘉六は思わず声を掛けた。手招きする旦那様に呼ばれ、隣に腰を下ろした時、彼は静かにそう言った。
「そうでしょうか」
「そうだよ。君の利点だ」
嘉六は
「私はよく人と意見がぶつかります……今まで一度も、それが自分の利点だとは思ったことがありませんでした」
そう小さな声で返した嘉六の頭に、ぽん、と手が置かれた。皮膚は厚く、皺の多い大きな手だった。温かい人の温度が伝播するにつれ、嘉六の肩からは力が抜け、自然と吐息が洩れた。
「君は、ここに来たことを悔いてやいないかい」
「滅相もありません。ここに奉公に来れたこと、旦那様に出逢えたことは、天からの唯一の贈り物でしょう」
「こりゃまた大袈裟な」
「本当に思っているのですよ!」
「……そうかい」
「悔いていないなら、よかった。……人生、後悔だけは、残しちゃあいけないよ」
そう、呟くように付け足すのだった。
ひょろりとした痩せ型で、あまり派手な顔立ちではなかったが、それが人の警戒心を解くようで、「眠そうだ」と言われる柔和な笑顔も相まってか、人からは良く好かれた。
奉公に出て三年の月日が経った、ある日のこと。
「若ぇのに女をしらねぇたぁ、世間を知らねえのと同じことさ。いっぺん花街にでも行きゃあ、その野暮ってえ
そんな兄貴分の一言で、藤四郎は
「なぁにぼさっとしてるんだ」
「あ、いや……驚いてしまって。こんな華やかなところ、私なんかが来ちゃ場違いなような」
「肝っ玉が小せえなあ、おい。早く行くぞ。こんなところで驚いてちゃ、先が思いやられるぜ」
「さあ、今日はぱあっと遊ぶぞ!」
枝垂れ柳を潜ると、別世界が
鈴鳴り琴鳴り、人の浪。波間を縫う度、色欲の
美しい音色が
華美な
「なあに、ぼおっとしてはるん?」
はっと我に返った藤四郎は、朱塗りの銚子を手に、目の前で困った表情をしている遊女に、慌てて空いた盃を差し出した。
「お酒、強はるんですねえ」
「え、ええ、まあ。そこそこには……」
顔をまともに見ることができず、視線を逸らすも、そこには
「すいやせんねえ。こいつ、
「可愛いわあ」
くすくす。袖で口許を隠し、肩を揺らす遊女達に、藤四郎は熟れた柿のように顔を真赤にした。
「お初にお目にかかりんす」
冴えた声が響いた。開いた襖。遊女がひとり、現れた。
黄色と緑の着物に、すっと伸びた背筋。引き締まった雰囲気。
人形、ではなかろうか。
そう疑う心と裏腹に、脈打つ心臓は藤四郎を締め付け、生きし感情がむくりと顔を出す。小さな期待と希望に膨らむ胸の底、埋まっていた種が、はじめて芽吹いた瞬間であった。
「
すっと歩み出た彼女。身体の隅々にまで神経が通ったかのような、流麗な所作。
振れる着物の袖は、蝶がその羽をはばたかせるかの如く。
「綺麗だ……」
れんげ、れんげ、……漣夏。
彼女は藤四郎の隣に腰を下ろすと、伏せていた睫毛をあげて、此方を見つめてくる。混じり気のない、しかし、その奥には深い深い沼が潜んでいるような黒い瞳が、まっすぐに藤四郎を射抜くのだ。あどけなさを残した細面に、うるるとした唇がゆっくりと弧を描く。
「ぬしさん、お名前はなんざんす?」
「かっ、硴水藤四郎と申します」
「藤四郎さま。わちきがお相手させてもらいんす」
それは、穏やかな春のような恋であった。
銭が貯まる度、藤四郎は花街に足を運び、漣夏と
それに伴い、形骸的愛を、乱れた
藤四郎は、彼女を本気で好いていた。
彼女もまた、藤四郎を欲した。
「
耳に残るまろやかな声で、彼女は何度もそう言った。まるで、縋るように。憂いているように。そして時折、藤四郎に愛を施されることを心から望んでいるように。
「待っていてくれ。私が必ず……必ず君を迎えに行く。だから、待っていてくれ」
「ほんの戯れでありんす」
「
「藤四郎さま」
「なんだい」
藤四郎は、沈黙が恐ろしかった。齢の割に落ち着いた、彼女の穏やかな声を聞くと、不安に駆られた。夢のような
「指切りいうの、知ってやすか?」
「指切り? 知らないよ」
「遊女の間で有名なんざんす。こうやって……」
漣夏の華奢な小指が、藤四郎の指に絡まる。しっとりと汗ばんだ二人の肌が、隙間なく密着した。
「誓いを立てるんでありんす」
ほんの少し触れた部分の熱ばかりを気にして、彼女がどんな顔をしていたのか、知る由もなかった。
「幸せになれますように」
彼女に
「いつまでも、君と一緒にいられますように」
と願いを込めた。
それから、藤四郎の足は、ぱたりと花街から遠のいた。店で修行を積みつつ、
季節が変わるごとに、
そうして月日が流れ、やっと彼女を迎える算段がついた頃、藤四郎は再び彼女の元へと足を向けたのだった。
久しぶりに踏み入れた花街は相も変わらず賑やかで、色めかしい
「あら、硴水さま」
「漣夏を頼む。彼女を身請けしたい」
藤四郎は汗ばんだ額を袖で拭い、口早にそう言った。
「漣夏、ですか?」
花車の困り顔に、藤四郎は首を傾げた。
「どうして──!」
藤四郎の悲鳴が、響き渡った。
廊下からは、遊女達が怪訝そうに顔を覗かせた。そして藤四郎の姿を目にするや、一様に澱んだ表情を浮かべるのであった。
「漣夏は死にました」
身体が震えて、抑えられなかった。
「……いつ……?」
「ひと月前に」
たったひと月。たったひと月だというのか。
四肢から力が抜け、がくりと膝をついた藤四郎に、一人の
「
無垢な白い手が差し出したのは、一通の文。
それは恐ろしいものだった。ただの数枚の紙を、鉛のように重く感じた。
意を決し、封を切ろうとするも、なかなか開けられずに手こずる藤四郎の傍に膝をつき、禿の娘はそっと手を貸してくれた。
「姉さまは、ずっと待っていましたよ。硴水様の言葉を信じて」
墨がぼやけ、綴られた恋慕と感謝が文から染みだした。
「れんげ……」
この色の街は、一度奥深くへと入り込めば、戻ることのできぬ、螺鈿の如き迷える宮。遊女ひとり、男ひとりの人生など、狂わせるに造作もないのだ。
嗚咽を洩らしそうになった口を抑え、藤四郎は目を瞑る。
命咲き誇る
「買われてしまいそうになったのです」
はっと、藤四郎は顔を上げた。
「以前から、硴水さま以外の方からも身請けのお話は出ていました。でも、姉さまは頷きませんでした。楼主さまに頭を下げて、『藤四郎さまが迎えに来てくれる。どうかそれまで待ってくれ』と」
ぼたぼたと落ちる涙を拭うことなく、藤四郎は彼女の話を聞いた。
「豪商の
禿の娘の
彼女の文には、藤四郎を責める言葉はひとつも書かれていなかった。「遅い」と文句を言ってくれて良かったのに。「早くしろ」と罵倒してくれれば、良かったのに。
彼女は若く、愛らしい
「この金子は受け取ってください」
藤四郎はお篠に、漣夏の為に使おうと思っていた金子を全て渡した。
「でも」
「貰ってください。お願いします」
苦しい想いも、この金と一緒に、此処に残していけたらと思うのに。
形の
それから藤四郎は、狂ったように仕事に精を出した。
藤四郎は商事に向いていた。店を大きくする為に、己の金や時間を惜しむことなくありたけ投資した。
「私は疲れてしまったよ、漣夏。一体何の為に、懸命に働いているんだろうね……もう君は、この世にいないというのに」
あの頃から瑞々しいままの彼女の名を、いつまでも藤四郎は呼び続けた。
「……旦那様? どうなさったんで?」
やる瀬なさと哀しみは、いつまでも藤四郎を蝕んだ。仕事に没頭すれば、考えずに済んだ。酒を飲めば、忘れられた。しかし、心にぽかりと空いた穴からは、絶えず何かが注がれては漏れ出ていくのであった。
「嘉六か。隣においで」
ふと、この子に店を継いでもらおうと思った。一度そう考えたら、もう心は決まったように思えた。
そうして導き出した答えは、
彼女と同じ場所に眠れるのならば、それでいいと思った。
彼女は、凛と咲く美しい花のようだった。藤四郎の人生の華でもあった。
沈んだ底に再び根を下ろせるのであらば、私は
風が吹けば喜び、雨が降れば幸せを感じる。ただそれだけを求めていたのだから。
「おばば様」
背後から嘉六の名を呼ぶ声がした。振り返れば、二代先の
先代も、先々代も、子は授かっていなかった。しかし、幸せそうな
「藤四郎に花を
「ええ」
彼女は微笑んで、
「店の方は順調なようじゃないか」
と言った。
「はい。また近いうちにご報告にあがります」
「いいんだよ。あの店はもうお前のものだ。お前の好きなようにおし」
不安なのだと、本音を吐露してしまいたくなったが、藤四郎の墓前で弱音を吐くことはいけない気がして、嘉六は開きかけた口を
「若いうちから頑張りすぎちまったのかね」
「まだまだ、元気でいらしたのに」
嘉六は悔しくて堪らなかった。彼の死で
「あの子ほど成功した者を、私は見たことがないよ。だが成功者とて、思い通りに人生を歩める訳ではないんだね。それでも、あの子の人生が少しでも幸せだったことを、私たちは祈るしかないのだろうね」
彼もまた、あの笑顔の裏に、あの優しい眼差しの奥に、深い
「私、頑張ります。未熟で失敗ばかりの毎日ですが、精一杯頑張ります。だから先代、見守っていてくださいね」
優しい涼風が吹いた。墓を囲んで咲く草花が、笑うかのように緩やかに揺れるのであった。
完
燦 南雲 燦 @SAN_N6
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