02.『凛と生きる』

 曖昧な快楽。


 ──どうでもいい。


 投げやりな衝動。


 ──さいていだ。


 濃度の高い香水の匂いと、クーラーの匂い。そこに、ゆっくりと汗の匂いが混ざり合っては、絡まりつく。


 早く。早く、終われ。





「ねえ。きょうさ、わたしんち、だれもいないんだよね」


 お決まりの台詞。鬱陶しいと思うのに、時折ふと寂しくなり、それに縋る俺はなんて詫びしいのだろうか。

 結局俺に残るのは、膨れ上がった寂寥感と少しの疲労と、虚無感だというのに。


「きもちいい?」

「うん」


 学習しない俺は、今日も欲望に傅き、一時的な快楽の為に思いのまま身体を動かす。


 ああ、なんてつまらないんだ。

 女なんて、誰を抱いてもさして大差はない。

 暗闇に紛れてしまえば、ほぼ柔らかな触り心地しか分からない。時折近づいた顔が、可愛ければなお良し。胸か尻が適度にでかきゃ、更に良し。相性が良けりゃタナボタだ。

 誰とキスしても、少し気分が高揚するくらいで、別に何も思わない。

 そんなもんだ。


「マサムネ、あいしてる」


 愛してる? 笑えてくる。

 なんて薄っぺらい言葉なんだろうか。

 こんな中身のない嘘は聞き飽きた。


 自分の身体は、別に大して大事にするようなものでもない。

 最低限の分別はあるもんで、とりあえず避妊さえすりゃあいい。


 面倒ごとを引っ掛けてしまわないように、女友達とは常に適度な距離感を測る。

 彼女は面倒だ。青春の時間は有限である。


 愛想笑いの仮面も、並大抵のことでは剥がれ落ちない。

 男女問わず、友達もたくさんいる。


 満たされた毎日のはずだろう?

 これ以上何が足りないと言うのだ。




 つまらない男──。


 ぐさりと心に刺さった言葉の矢が、未だ抜けない。

 それどころか、時が経つにつれて、ずぶずぶと深くに突き刺さり、肉を抉る。




「もうちょっ、と、やさしく、して」

「……」


 の言葉がぐるぐると脳内を巡り、思考を侵蝕していく。

 胸中で舌打ちをする。

 汗が肌の上を伝った。疲れた。


 考えるな。

 どうせ適当ほざいていたんだ。

 惑わされるな。

 今は向き合いたくない。

 目の前のからだを抱いて忘れろ。

 理想の恋愛より、目の前の快楽を選べ。


「マサムネ、すきっ」

「う、ん」


 手を添えた背中が反っている。

 息も絶え絶えで口にするそれは、本心なのか。口から滑りでた戯言か。


 ベッドの軋む音、妙に淫靡な馥郁、荒い呼吸。俺の発した二文字を消してくれ。


「わたしのこと、すき?」


 あやかだっけ、あやのだっけ。

 名前すらあやふやな同級生が、自分に愛の言葉を求めてくる。


 気持ち悪りぃ。


 奇妙な間が空く。運動の汗とはまた違う汗が、つつ、と裸の背を伝った。

 返事の代わりに、激しく動く。深く。何度も。強く。

 女が絶叫するように悶える。


 そうだ。記憶を飛ばしてしまえ。考えられなくさせてやれ。

 快楽に溺れろ。愛の答えを求めていたことさえ、忘れてしまうほどに。




「汚い」


 思わず目を丸くして、目の前の女を見た。

 嫌悪感を露わに、指先を拭う素振りをしている。


「俺、そんな汚くないと思うんだけど」


 反論は尻すぼみ。

 彼女は尚も、ナイフのように鋭い視線で俺を貫く。

 心を見透かされているようで、身動みじろぎする。


「顔を見たらわかるわ。私に触れないで頂戴」


 彼女はそう言い放つと、唖然とする俺を尻目に、拾ってやったハンカチすら受け取らず立ち去ってしまう。


「どうすんだよ、これ……」


 手元には、あいつの白いハンカチ。


 彼女の名は凛というらしい。

 今時珍しいあの佇まいは、名前由来かもしれない。


 それから何度か、彼女にハンカチを返してやろうと声をかけるも、ぴしりとアイロンがけされたそれすら、汚いとの一言でばっさり斬り捨てられた。


 人は、自分にないものを求めるらしい。


 自分を大切にする生き方。

 はっきり意見する心の強さ。

 絆されない矜持。


 彼女は俺にないものを全て、大切に持っていた。




 夏が来た。だるように暑い夏だ。

 身体に纏わりつくシャツも、照りつく太陽も、アスファルトの反射も。執拗に俺を灼いてくる。

 お陰で俺の心も、熱いままだ。


「なあ、そろそろ折れてくれないかな」

「何を」


 振り返った女は、ひどく不快そうな表情かおをする。


「世渡り、性格、成績、ルックスに運動神経。どれも上級で、加えて凛一筋。どう? 奇跡にも近い優良物件だと思うんだけど」

「性格は中の下よ」

「登り甲斐がありそうだな」


 眉根を寄せた彼女が、顔を背ける。

 鉄板の口説き文句も、悪くない。俺は一人、ほくそ笑む。


「お嬢さん、どう?」


 押せ。押して押して、押し倒してやれ。


「俺と、付き合おうよ。凛」


 落ちろ! 俺の腕の中に!


 彼女の眼が、じろりとこちらを向く。相変わらずの不興顔が、いつもと少し違う。


「どうし……」

「わかったわよ」

「え」


 「だから!」と、彼女は半ば叫ぶようにして振り返った。


「わかったって、言ってんの!」


 理解が追いついたのは、少し後だった。


「っしゃ!」

「うるさいわね! そんな大袈裟にはしゃがないでよ」

「大袈裟じゃねえよ」


 身を引こうとする彼女の腕を掴んで、キスをした。

 優しく、ゆっくり、丁寧に。

 甘い。嬉しい。柔らかい。心が、満ちてゆく。


 幸せというものの欠片を、俺はやっと手にできたような気がした。


「凛、好きだ」


 たくさん練習してきたのも、今となっちゃ、良かったかもしれねえな。


 瞳を閉じる。

 後頭部に手を回し、抱き寄せた。

 掌に吸いつく柔らかな肢体の感覚が、夢ではないことを教えてくれる。


 深く、深く。甘美なるに溺れよう。


「愛してる」


 一瞬離れた唇が紡ぐのは、ずっしりと実った愛の言葉。





 完

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