南雲 燦

01.『艶色パレット』

 パレットには、色がのっている。

 青、赤、緑、白、黄。


 僕は暫し逡巡しゅんじゅんして、白を選んだ。

 水に慣らした筆先をゆっくりとパレットに下ろし、絵の具のほのかな薫りと春の空気を、ふんわりと混ぜる。


「へえ。わたしって、こういうイメージなんだ」


 しまった、水を入れ過ぎた。

 横から口を出す被写体が、黙って絵の具を足す僕の様子を、口のを持ち上げて眺めている。

 

 スケッチブックから切り取った画用紙には、鉛筆の下書き。何度も描き直した跡が薄くのこっていた。

 妄想と現実の狭間で揺れる、僕の手が描きだした身体からだの線は、どうしても黄金比へと寄っていく。はたとそれに気付いては、またわざとらしく線を書き直す。

 そんなことを繰り返したせいか。あてもなく彷徨さまよう黒鉛が振り撒いた塵滓じんしが、きらめく太陽光のふりをして、平面上の彼女に降り注いでいた。


「ちょっと。私の脚はもっと長いわよ」


 そう言われてやっと、僕は彼女に目を向けた。


「文句は受け付けてないよ」

「文句じゃなくて事実よ、事実。ほら、ここも! 顎をもっとこう、シュッと。ねえ聞いてる?」


 注文が多い。

 アーモンドのような瞳を生き生きと輝かせ、彼女は画用紙を覗き込む。


「脚もうちょっとどうにかならない?」

「これぐらいじゃない」

「こんなんじゃないわよ」


 ふうん、と適当な相槌あいづちを打ち、僕は椅子を後ろに引いて彼女から離れた。彼女はすかさず、ふざけたポージングをとる。


 部活で鍛えた、健康的でしなやかな肢体したい。雪をあざむ玉肌ぎょっき。胸元までまっすぐ降りる髪は少し色が抜けているが、椿油でいたかのようにつややかだ。

 制服に紺のカーディガン。左右の長さがちぐはぐの真っ白な靴下。上履きのかかとは履き潰され、後方に反って仰向あおむいている。

 高嶺の花のイメージからは随分と乖離かいりしているが、美人と称され、一目置かれるだけの美貌と才智を兼ね備えていた。


「どう? わかりそう?」


 片目を閉じ、鉛筆で身体の比率を確認する僕に、彼女は期待の滲む声でたずねる。


「まあ」


 軽く修正を入れる僕の手先を、彼女はじっと見つめる。


 彼女は僕に興味があるようだ。

 どうしてかは知らない。


 気まぐれの玩具おもちゃ。暇つぶしの遊戯。純粋な好奇心。


 彼女の本懐は未だ、ベールに包まれている。


「ボタン、ひとつ外れてるよ」


 手を動かしながら、僕は極めて平坦な声で教えてやった。


「あっ、ほんとだ。最後の授業、体育だったからかな」


 さして気に留めていない様子で、彼女はボタンを止めた。


 僕は至って普通の人間だ。

 人より少々口下手くちべたで、運動が若干じゃっかん苦手で、多少は絵を描くのが得意な、ただの高校生。


 色をつけてゆく。

 淡いはなが、白い紙の上で、恥ずかしそうに咲いてゆく。


 彼女は、席が隣というだけの、ただのクラスメイト。

 僕のなにが、彼女の興味をくすぐったのかはわからないが、彼女はいつも僕にちょっかいをかけてきた。



 ──雰囲気かな?

 ──曖昧だね。

 ──誰かを好きになるのに、曖昧な理由じゃ、だめ?

 ──……別に、そういうわけじゃないけど。

 ──静かなの。貴方の傍って、あたたかくて穏やかで、時間ときがゆっくり進むように感じるの。



 何気なくたずねてみれば、曖昧で感覚的な感想が述べられた。ただ、彼女のすいまなこが、まっすぐに僕を見つめていたことをよく覚えている。


「あっ、私のお腹こんなんじゃないわよ!」

「カーディガン着てるんだから、こんなだろ」


 頬を膨らませ、そう主張する彼女は途端、意地悪な笑みを浮かべた。


「ねえ」

「なに」

「見ればいいじゃない」


 固まった隙に、腕を掴まれた。


「ちょっ……」


 持っていた絵筆を、なんとかバケツに突っ込んだ。白い水飛沫が手を汚す。


 彼女に引っ張られるがまま、人気ひとけのない廊下を走った。

 満ちた静寂しじまに、足音が木霊こだまする。

 乱れた呼吸が、ちゅう泡色あわいろになる。

 斜陽が、二人の影をひとつにした。


「どこ、行くの!」

「部室!」

「部室って? 君の?」

「そう! 水泳部のね! 大丈夫、今日練習は休みよ!」


 彼女は扉を開け放ち、部室に僕を連れ込んだ。突然立ち止まったかと思えば、カーディガンをむりやり引っ剥がされ、シャワールームに押し込まれる。


「わっ」


 頭上から、ぶつかるようにシャワーが降ってきた。水が目に入り、コンタクトが飛んでいく。


「ごめんごめん、勢い良すぎた」


 けらけらと笑いながら、彼女はハンドルを調整した。


「コンタクト、片方どっか行ったんだけど」

「触ればいいじゃない」

「……君、自分がどれだけ大胆なこと言ってるか、わかってる?」


 答えとばかりに、彼女が自分のカーディガンを放った。上履きを蹴るように脱ぎ捨て、僕のもとへ飛び込んで来る。


「おい」

?」


 沈黙をと受け取った彼女は、嫣然えんぜんとした笑みを浮かべた。

 美しかった。


 ぬるい湯が、ふたりを徐々に濡らしてゆく。


 湯気にぼやける視界のなか、服が透けて、黒の下着が見えた。彼女に、恥じらいという美徳は存在しないらしい。

 むしろ、それを目にしてどぎまぎしている僕を見て、嬉しそうにしている。


「ほら」


 怯懦きょうだな僕の手を取り、自分の腰へと導く彼女。

 指先でくびれをなぞり、腰骨を撫で、臍部さいぶを這う。柔らかかった。


「ね? 触れてみなきゃ、本当の姿ってわからないものなのよ」


 彼女に操られながら、まどかな線に沿って手を滑らす。

 腰から、ふっくらとした胸、筋肉はあるが華奢な肩、細い首、そして、なめらかな頬。


「どうしたの」


 頬を包む僕の手を大切そうに抱え、彼女は瞳を閉じた。


「こうしてるだけで、幸せを感じない?」

「……そうかな」

「うん」


 心臓の鼓動が聴こえてやしないか、僕は少し心配だった。シャワーの音が掻き消してくれることを願うばかりである。


 彼女を見下ろす。あまりにも純粋に、僕に身をゆだねている。


「そうかも」


 彼女がぱっと顔をあげた。

 満面の笑みがふわりと広がり、触れる頬が熱を持った。


 僕は足を踏み出し、距離を縮めた。

 甘い香りがする。

 婬情いんじょういざなわれるがまま、彼女をそっと抱き締めてみた。

 息を呑むのが聴こえた。


 水鞠みずまりを弾く肌が、吸いつくようにてのひらに馴染む。

 うなじに張りつく髪を退けて、顔を寄せる。


 体温はひとつに溶けあってしまった。

 たかまる鼓動は、ただひとつの旋律をつむぎ、混ざりあう吐息といきは、互いになにかを許していた。


「こっち」


 彼女が道案内する。僕がゆっくりとついていく。

 そのうち僕は、案内役がいなくても、彼女を知るようになった。僕の描いた道の跡を、湯がすすいでしまうことをいいことに。


 酸素が足りない。


 蕩けるような表情かおで縋りつく彼女は、あまりにも頼りなく、とても淫らで、どうしようもなく愛らしく映った。


「厄介なことになった……」

「ん?」

「いや。続きを、描いてしまおうか」




 真っ白な画布キャンバスを用意した。絵の具を幾つもパレットの上に取り出す。


 僕はひとつも描けてはいなかった。彼女の悪戯な仕種も、あのたおやかな表情も、嬉しそうな笑顔も、なにひとつ。


 彼女が内包するのは、滂沱ぼうだと溢れる刺激的な極彩色。こんな色味だけでは足りない。

 混ぜて作りだせ。思うがまま筆にのせろ。


「ふうん。いい出来じゃない」


 僕の腕のなかで、うすぎぬに包まる彼女は満足げに微笑んだ。





 完

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