第4話 キスを

 閉じた私の唇に、遠慮ぎみに何かがちょこんとふれた。じれたようにそわそわ動くけれど、くすぐったくて唇をかたくむすぶ。そうしたら、また唇がはなれていく。


「あの、口をちょっとあけてほしい」


 おでことおでこをこつんとつけたまま目線だけ横をむけた小林さんは、恥じらいを隠し切れない清い処女のような顔をしていた。


 その顔ずるくないですか? イラっと……いやちがう。モヤっというか、胸を拳でぐりぐりされるような……。今まで体験したことのない感情が、抱きすくめられた体に押し寄せる。未知なる感情を分析しようにも、解読不能におちいり口をポカンとあけた。するとすかさず口はふさがれ、何かが侵入してきた。


 こ、これは、かの有名なディープキスというものでは?

 舌と舌をからませお互いの官能を刺激し合い、その後の行為を円滑に進めるためのキス。

 まさに、粘膜をこすり合わせている!


 えっと、感触は牛タンほどにはかたくなく、この柔らかさは、そうA5ランクの牛肉の舌触り。舌でとろけるような繊細な肉質。なにやら肉の油が染み出したように甘いのは、気のせいだろうか。


 よく、キスはレモンの味とかいわれるけれど、けっして爽やかな酸味ではない。生肉の甘さだ。すごいこんな描写、誰も書いてない。大発見かも。今度、書いてみよう。


 なんて、私がキスの実況中継を脳内で繰り広げている間も、小林さんの舌は私の口内を動き回る。歯列の裏側、上あごいろんなところ。


 普段自分の舌がさわっているところだけれど、他人の舌がふれると変な感じがする。お腹の奥がもぞもぞするというか、喉の奥がキュッとするというか。とにかく、苦しくないのに眉間にしわがよる。


 あっ、これが気持ちいいってことなんだ! そういえば、先ほど小林さんも気持ちがいいと言いつつ、眉をひそめていた。今私は、同じ気持ちを経験しているのだ。


 あー、今すぐメモりたい。でも無理だ。メモ帳は、はるか遠く……。

 この感情を書き留めることができないならば、誰かに伝達しなければ。脳内で情報を留めておくよりも、発語することによって、私のメモリーに深く刻み込めるはず。

 この感情を絶対、忘れてはならない。


 私は肩をおし、唇をはなそうとしたけれど。肩ははなれていくのに、小林さんの唇はなごりおしそうに唇を、ちゅっとついばんでようやくはなれた。

 大事なことを言う時は、相手の目を見て言うべし。小林さんのしっとりぬれた瞳をのぞきこむ。


「すごく、気持ちがいいです」


 で、どう気持ちいいか解説しようとしたとたん、はなれていた体はまた磁石のようにくっついた。


「俺も、気持ちいい……」


 私の耳元でささやかれる、レモンタルトみたいに爽やかで甘い声。


 きゅうううん!


 内耳に小林さんの声が届いたと同時に、心臓のあたりから、変な音がした。

 心臓がたてる音と言うのは、通常ドクンである。もしくは、ドキドキ。心臓の機能は、血液を体中に循環させるためのポンプの役割。そんなところから、きゅんなんて音が出るはずがない。出るはずないけれど、今たしかにきゅんと音がなった。


 きゅんの発生原因は、ディープキスという行為なのか? それとも、小林さんだから?


 原因を追究したい。ここに、重要なものが絶対隠されているはず……。そう思うけれど、頭がショートしているのか思考が働かない。働かない頭はどんどん熱をおび、体はふわふわと軽くなり、もはやあまり感覚がない。自分の体なのに、抱きしめられた熱に支配されていた。


 そんな魂のぬけ出たような体を、小林さんの手がはいまわる。他人に体を支配され、いいようになでまわされているのに、全然不快ではない。むしろ、もっとしてほしいとまで思ってしまう。

 脇から腹部、胸に移動していただきあたりのブラウスのボタンに長い指がかかった瞬間……。


 会議室のドアがノックされた。


「おーーい。面談長引いてるけど、大丈夫か?」


 他の編集さんの発語と同時に、小林さんの手はとまった。


「大丈夫。ちょっと話がこみいってるだけだから」


 さっきの甘い声とは180度違うお仕事モードの声が、頭上におちてくる。

 そして、はなれていく熱と甘い余韻。


「もう、この辺が潮どきだね」


 小林さんのどこかホッとしたような、残念なような、どっちつかずの声。それを聞いて、私もしょうがないって思ったのだけれど。


「あの、まだ肝心なこと教えてもらってないです」


 自分のふるえる声に驚く。なんだこの、生まれたての子鹿のような声は。聞いていて恥ずかしい。


 恥ずかしすぎて、瞳までうるんでくる。そのぬれた瞳で小林さんをみあげると、見開かれた切れ長の目が、私をみおろす。


「やっぱり、ものごとには順番というものがあって、ちゃんと手順をふんだほうが、より本質がわかるというか……」


「……言ってる意味がわかりません」


 今おこなったセックスへのプロローグは、まちがっていたのだろうか。


「あの、十分気持ちよかったですけど」


 素直な感想を、のべただけなのに。小林さんはまた、純情な処女のように顔をあからめる。


 きゅうううん!


「だから、その顔はずるい! また、きゅんってなる」


 心のうちにとどめておくべき言葉が、口をつく。きっと、きゅんがいわせるのだ。私の意志ではない。


「えっ、きゅん?」


 ハトが豆鉄砲をくらった顔を見せられても、なんでこんなに心臓がさわがしいのか。


「さっきから私、おかしいんです。心臓がいたくて、きゅんってへんな音もするし」


「それって……」


「この正体を知ってるんですか? 教えてください」


 さっきまで頬をよせていたワイシャツをがしっとにぎりしめ、回答をせまる。


「それじゃあ、あの……俺たちつきあわない?」


「はっ? 打ち合わせにつきあってもらってますけど」


「いや、そうじゃなくて。その男女のつきあいをして、よりお互いのことを知ればおのずとわかると思うんだけど」


「なるほど、たしかに小林さんのこともっと知りたいです」


 いがいそうに、小林さんの片眉があがった。


「セックスじゃなくて、俺?」


 あれ、私が知りたかったのはセックスだったはず。いつのまに、興味の対象がすりかわったのだろうか。


「えっと、両方……だめですか?」


 難解な質問を投げかけたつもりはないけれど、うれたりんごのごとき赤い顔は、口元を手でおおいうつむく。

 うつむいた顔は、やがてふっと前を向く。そして、口元をおおっていた手は私の口へすいよせられ、親指が右から左にやさしく唇をなぞった。


「俺も、もっと君のこと知りたい」


 きゅうううん!


 こんな変な音をたてるなんて、きっと心臓に疾患があるのだ。この原因をつきとめないがぎり、二作目の書籍化はありえない!



    了


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TL(ティーンズラブ)作家の憂鬱 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei

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