第3話 とろけそうな

「あの、申し訳ないのですが、他のところもさわっていいですか」


 のど仏だけで決して満足したわけではない。男性の未知なる領域はまだまだある。こんなのは、ほんのおさわり程度。本番はまだまだこれからだ。

 この私の探求心を編集として快く思ったのか、小林さんは無言で首肯した。ちらりと見あげた顔は、なんだかさっきより赤らんでるけれど気のせいだろうか。


 首においていた手を体つきをたしかめながらなでまわしつつ、肩、鎖骨、胸へとゆっくりはわせていく。


「小林さん、何かスポーツしてました? すごく筋肉質ですね」


 ワイシャツの上からふれる肉体は細いのに、しまっていて硬い。のど仏といい、男性の体って硬いんだな。私のフニフニした柔らかい体とは全然違う。まるで違う生物だ。


「……剣道してたから。これでも有段者なんだ」


 編集っていかにも文学青年って感じのなまっちろい人が多いのに、意外だ。でも、妙に息づかいが荒い。どうしたのだろう。

 しかしそんなことで私の探求の手はとまらず、まい進し続ける。胸部を通過するとき、突起物を発見した。


 指の間にひっかかった、小さなでっぱり。なんだろうと、指に力をいれたらビクンと小林さんの体が震える。


「すいません、痛かったですか」


 りんごのように赤らんだ顔は、フルフルと首をふりそっぽを向いた。胸においた手は、小林さんの心拍数の急激な上昇を感じとる。


「あの具合悪いのなら、やめます。動悸がすごいですけど」


「ち、違う……。気持ちいい……だけ」


 絞り出すようなかすれた声が、頭上からふってきた。

 気持ちいいって……どういうこと? 気持ちいいどころか、すごくつらそうなのに。眉をひそめかたく目をつむった小林さんの表情。何かを必死にがまんしているようにしか見えない。


 あっ、尿意か! と思ったところで、肝心の男性の部位を思い出した。そうだった、TL作品で一番重要な部位。


 太いとか、長いとか、硬いとか。知識だけで描写していたけれど、私は実物を見たこともなければ、さわったこともなかった。


 よく、セックス場面で女性が口にする「こんなおっきいの、入んない」ってセリフに疑問を持っていた。


 そんな巨大なモノを男性はどうやって、スラックスの中におさめているのだろう。パンツが四次元ポケットなみの機能を持っていないと、無理なんじゃないだろうか。


 今こそ、長年の疑問にアンサーが出る瞬間。

 私は、胸の突起におさらばして、するすると右手を下方へさげていく。六つに割れていそうな腹部を通過して――本当はもっとじっくりさわりたかったけれど――ベルト部分へ到達した。


 いざ! と手のひらを反転させ、指先を下に向けた。そして小林さんに断りを入れずに突き進もうとしたとたん、秘境への冒険はあえなく阻止された。


 小林さんが、私の手首をつかんだのだ。

 つかんだだけでなく、グイっとひっぱられた。突然のこの行為により、私はバランスを崩し、あつい胸板へ倒れ込む体勢となった。


 頬が、小林さんの体に直接ふれている。ワイシャツの薄い布越しに感じる男性の体。と思ったら、私の背中に腕がまわされがっちりホールドとされた。

 そうか、これはいわゆる抱き合うという行為! 愛し合うふたりが、おたがいの体温をとおし愛しさを募らせる尊い行為!


 小林さんはなんて親切なんだろう。この体勢の感覚を、教えてくれるべく手首をつかんでひっぱったのか。

 ではでは、ご厚意に甘えて存分に体験しょう。


 まず、いい匂いがする。クンクンと鼻をひくつかせる。

 安物の柔軟剤ではなく、メンズ香水のムスクの香り。ムスクとは、本来ジャコウジカのオスの分泌液。つまり、メスを誘うフェロモンの香り。


 常に女性を誘う目的でムスクを愛用しているのだろうか。たしかに、もっと嗅いでいたいと思ってしまう。

 小林さんの体温は、私より高め。その熱にあおられ、ムスクの濃度が高まり甘い匂いに酔いそう。


 しかし、体温を感じてもちっとも愛しさという感情がこみあげてこない。そうか、私たちが愛し合っていないからだ。ということは男性に抱きしめられてドキドキする女性は、少なからずその対象男性に好意をもっているということではないだろうか。


 なるほど、これはヒロインの心情描写につかえる。では、もっとこの甘い設定を研究せねば。

 私はより体温を感じようと、腕をまわし手のひらで小林さんの背骨あたりをすりあげてみた。すると急に上半身しかひっついていなかったふたつの体は、下半身まですいつくようにぴたりと合わさった。


 そして、何やら小林さんの下半身がかたい。かたい胸板にかたい下半身。日の光をたっぷりあびた大木に抱き着いた気分だけれど、頭を左右にふり頬をワイシャツにこすりつけてみた。そうすると、甘い匂いがより立ちのぼる。

 うん、ほどよい熱と甘さに包まれてだんだん気持ちよくなってきた。


 はっ! この感覚を忘れないうちにメモしないと。これが、相手に好意を感じ始める最初のステップかもしれない。テーブルにおきっぱなしのメモ帳に視線を走らせ、体を動かそうとしたら。


 より強く抱きしめられた。


 あれっ? 動けない。困ったな。この腕をといてくれないと、メモれない。そろそろと上目づかいで小林さんを見ると、バチンと視線がぶつかった。


「次に、進んでいいよね」


 行為が進ちょくするのはけっこうなんですが、その前にメモを……。と言っても聞いてくれなさそうな、余裕のない小林さんの表情。


 こくんと、私はうなずいた。うなずいたら、どんどん小林さんの顔が近づいてきて、私の唇をふさぐ。


 へー、男の人でも唇は柔らかいんだ。体はこんなに硬いのに。

 そこだけ、油断してるみたいでかわいい。私といっしょの柔らかい唇。同じ部分を発見して、少しうれしい。


 眼前にせまる小林さんの端正な顔。伏せられたまつ毛は濃くて長いとしげしげ観察していたら、唇が少しだけはなれ切れ長の目が薄くひらく。


「キスする時は、目を閉じるんだ」


 唇に伝わる、言葉の振動。耳の奥を揺さぶる低い声は、唇と心も震わす。

 そんなこと言われても、目を開けていないと観察できない。そう抗議したいけれど、できなかった。

 今ふたりの体は、お互いの境界があいまいになるほどひとつの熱いかたまりと化している。私の薄い胸に響く小林さんの鼓動。その性急なテンポに合わせ、私の鼓動も徐々にあおられていく。


 素直に目を閉じた。


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