第15話 四條畷に散る
旧暦の正月五日は一月末から二月の頭、この日は西暦で一三四八年二月四日である。
早朝、南朝の官軍が動いた。
大将は四条隆資。
太平記によると和泉や紀伊から集めた野武士二万人を率いて飯盛山に攻め立てたとある。
「狡猾な」
正時が吐き捨てる。
おそらく親房の献策だろう。
表向きは楠木軍の進軍を助ける陽動作戦である。
隆資は正行のためになると思って大将を買って出たものかもしれない。
その心情はありがたかったが、これで楠軍の退路は絶たれたと言って間違いない。
「全軍、押し出せ」
戦端は開かれた。
もう、進むしかない。
粛々とまだ薄暗い朝靄の中を進む楠軍を最初に発見したのは敵本陣ではなく飯盛山の別軍だった。
猛然と山を駆け降り、本陣と楠軍との間に立ちはだかる。
しかしその軍勢は多くなく、山を下るためだったのか三百余りが皆
「圧し包め」
まだ坂東武者の気風が残っているものか、彼らは展開した東西から挟み討つ形で奇声をあげながら突撃してくる。
楠木軍は慌てない。
きりりと弓を引き絞り、雨降るように矢を射掛けた。
「一番首はこの
賢秀は正行の叔父正季の子とされている。
父に似て剛勇で鳴らし、よく正行を補佐して楠木党の勢力を維持拡大することに貢献した男である。
合戦となれば必ず従軍し、正時共々おおいに戦功をあげたものである。
その賢秀が、深々と矢が突き刺さり地面に突き刺した刀で体を支えながら矢を抜こうとしていた男に斬りかかった。
それを合図にしたように楠木軍は馬の腹を蹴って敵勢の中へ駆け込んでいく。
冬枯れの田野は馬を駆るに自在で、楠木の騎馬は縦横に駆けては散々に敵歩兵を蹴散らしていく。
「進め、目指すは敵総大将ただ一人。前へ、前へ進むのだ」
正行が命じたのはただそれだけだった。
楠木軍は総力を上げて敵軍勢を打ち散らす。
しかし、一隊を突き破れば次の隊、それを破れば次の軍兵が本陣との間に割って入って行く手を塞ぐ。
「ええい、なぜ敵本陣に辿り着けんのだ」
正行は、苛立ちまぎれに不用意に寄ってきた敵の雑兵を斬り殺しながら悪態を吐く正時の声にはたと後ろを振り返る。
そこにどうと地を揺するような鬨の声を上げて背後を襲う軍が見えた。
いつの間に後ろに回った軍なのか。
視線を敵陣のあった場所に走らせる。
「
どうやら横槍を入れずに楠木軍をやり過ごした後、後ろに回って退路を絶ったようだ。
「まあよい」
もとより退却する気はない。
それより、だ。
遮二無二押し出しているのに敵陣に届かない。
やはり師直は侮れない。
味方に十倍する兵力で波状攻撃を仕掛けつつ、本陣はそれと気付かせないように巧みに退げていたようだ。
道誉が退路を塞いだのは果たして独断なのか、それとも師直と示し合わせてのものだったのか。
「休憩を兼ねて軍を整える」
何波目かの波状攻撃を退けた正行は正時に命じる。
「かしこまりました」
いったい何人残っているだろうか。
「御大将」
「新発意か。どうした」
「ぐるりと取り囲まれてしまいましたな」
「退路が空いてはおるがな」
と顎で指し示す先には確かに逃げて下さいとばかりの穴が空いている。
「逃げますか」
「好きにしてよいぞ」
「では、あの世への先触れを務めさせていただきましょう」
味方はすでに三百騎に充たないようだ。
しかし、正行の命令は変わらない。
「目指すは敵総大将師直ただ一人。全軍、突撃」
残った軍勢はすでに決死の武者である。
この期に及んで逃げるものなどただの一人もおらぬ。
「敵は師直ただ一人」
どの兵も口から出るのはこの一語。
それは個々人の存念を越えて呪いのように足利軍に迫ってくる。
ここまでの戦、その推移はおよそ師直の作戦通りに進んではいた。
勝っている。
敵はもう数百騎しか残っていないではないか。
後少し、もう一息で楠木の小倅を討てるはずなのだ。
だと言うのに、師直の焦りと苛立ちは刻々と募っていた。
「ここまで強いとは」
すでに楠木勢は死兵と化している。
いや、最初から死兵だったのではないか。
その鬼気迫る軍勢に数千という足利軍が気圧されじりじりと退がらされていた。
「楠木の兵は本当に人か。鬼や物の怪の類ではないのか」
と怖気をふるって京へ逃げ帰る武将が出始める始末だ。
これはまずい。
味方の戦意が挫かれてざわざわと動揺しているのが手に取るように判った。
師直は逃げ帰ろうと本陣の脇を通り抜けようとする隊に向かって
「見苦しや、あれな小勢に恐れをなして逃げ帰るか。京を出たる折、足利将軍になんと豪語した。命惜しんで何が武士か」
と、一喝すると。
「なんたる雑言。なれば総大将こそ矢面立って戦うがよろしかろう」
と、言い返し、あろうことか
「楠木よ、高師直はここにおわすぞ」
と呼ばわって逃げていく。
それを聞きつけた楠木軍は一丸となって師直目がけて駆けてくる。
その凄まじき様は悪鬼羅刹の如くであり、なまじの兵ではとてもではないが太刀打ちできそうにない。
師直がもはやこれまでかと覚悟を決めかけた時だ。
一人の武者が近づいた。
「何をしてござる。早う一旦退き軍を整えなされませ」
「しかし」
「ささ、早う。ここはこの山上六郎左衛門が時を稼ぎます故、安んじられよ」
師直は自ら被っていた兜を六郎左衛門に被せてやる。
退却して行く師直を見届けると、きっとまなじり上げて楠木軍を睨みつけると
「我こそは足利が執事、武勇天下に轟く高武蔵守なり。我が太刀の錆になりたいやつは、前に
この影武者は当たるも虚しく討たれて正行の前に首級を晒したが、正行これを前にしばし眉根を寄せていた。
「兄者、いかがいたした」
「これは本当に師直の首と思うか」
確かに兜は師直もものに違いない。
しかし、打ち取られる様子が呆気なさすぎて、およそ足利にその人ありと謳われた武将に相応しくない。
あの顕家を討った武将である。
「首を天高く掲げよ」
首級を掲げて「師直討ち取ったり」と叫ばせると、果たして敵方わずかに動揺するも顔を見知ったものが確認し、首級が師直のものでないと判ると
「それは総大将にあらず、山上六郎左衛門ぞ」
と、正行を嘲ってくる。
「やはりそうであったか」
自分でもそうではないかと思っていた。
顔を上げると畷の向こうに高氏の
あの旗の下にいる兜のない武者が本物なのだろう。
しかし、師直の首級を討ち取ったという高揚感が一度体を巡ってしまった後の落胆は、朝からの激戦を潜り抜けてきた満身創痍の身にはあまりにも重く、再び体を動かす気力が湧いてこない。
彼の周りにいる者たちも、もはや満足に戦えそうにない。
その上、総大将未だ健在と知って続々と新手が集まってくる気配があった。
あと一手、ほんのわずかに届かなかった。
楠木軍が一万あれば、いや、せめて倍の八千いればこの戦も勝てたかもしれない。
「やはり自分で謝ることはできそうにないな」
「兄上、敵に討ち取られ手柄を差し出すのは業腹。父たち同様互いに差し違えて、あの世の父上に謝りに行きましょう」
「そうだな。母には正儀が代わりに謝ってくれよう。正儀か。悪いことをした。あれ一人を置いて行くことになった」
「なに、あいつならこの苦難も必ずや乗り越えましょうぞ」
「では、正時」
「はい」
「少し早いが、父に叱られに行こう」
二人は気力を振り絞り、倒れ込むように互いの胸を刺し貫いた。
理想の彼方 ー継承篇ー 結城慎二 @hTony
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