子ども向けの読み物として根差し、台詞を一字分下げたり、漢字には全てふりがなを振るなど、作品のコンセプトを損ねない文体に初志貫徹している「大人の児童文学」たる精神が素晴らしい。そしてそれを差し置いても、とても児童文学らしい児童文学だった。
作者が何歳か存じ上げないけども、この作品は表現においても描写においても「子どもの目線になって」という気概をひしひしと感じる。それというのも子どもというのは文字を文字として認識するのでなく、まず初めに音声によって言葉を覚える事を先にするから。
つまり、この作品は「子どもに読み聞かせる事を前提に」あるいは「子どもに読み聞かせるように読まなければ」まるで意味を成さなかったりもする。子どもたちに言葉によって未知の経験を惹起させる作用のある文章は、子どもに対する優しさがある人にしかできない事でもある。
しかし翻って物語に立ち返ると、私たちは「役に立つから」と切り取られる事になる桜の木を守り通せるだろうか。あるいは大人にとって、それが自身の一番の矜恃だと固く信じていた事を「役に立つから」を相手にして簡単に切り離す事ができるのだろうか。
残念ながら「役に立つから」の前に屈服してしまう大人は多い。ましてや自身の命に関わる案件を前にしては、大人というのはあまりにも天秤の出来が不公平であったりする。ましてやいつ花を咲かせるのか分からないものに対しては、簡単に見切りをつけたりもしてしまう。
「咲くんだもん」というタイトルの裏にあるのは「咲くまで諦めない」という、単純だけども大切な意思の表れなのだと思う。