第14話 辞世の覚悟
行宮から河内に戻る前に、正行は行宮警護の任に就いている正儀を訪ねた。
「兄上」
正儀には一目見ただけで兄の覚悟が読み取れた。
「すまんな。お前には何も残してやれぬばかりか苦労ばかり押し付けることになりそうだ」
そう言われては二の句もつげぬ。
ただ
「心配するな、兄者は俺が最後までお護りする。なぁに、一戦にして大将首を三つ四つと獲って見せるわ。わしが師泰、兄者が師直の首を獲れば、次は足利兄弟よ」
「その時にはぜひこの正儀もご一緒させてください。兄弟三人揃って足利めを討ち滅ぼしましょうぞ」
「そうだな。その時は三人仲良く帝の元に凱旋しよう」
そんなことができるはずのないことは皆判っている。
判っていて嘯いているのだ。
おそらくこれが今生の別れになると知っているからこそ、誰一人そのことに言及しない。
とめどなく流れる涙の向こうの兄正行の目にも涙が溢れている。
次兄正時の目にも涙が溜まって今にもこぼれ落ちそうだった。
三人は肩を組んで泣き続けた。
やがて涙の枯れた正行が正儀を残して背を向ける。
「正儀」
「兄上、なんでしょう」
「母に謝っておいてくれ」
何を、などと訊くまでもないことだ。
しかし、正儀は訊き返さずにはいられなかった。
「何をですか。謝ることがあるのなら、ご自分で謝ればよいではありませんか」
「そうだな。帰ったら自分で謝るとしよう」
「正儀、あとは頼むぞ」
二人は一度も振り返ることなく正儀の許を去って行った。
その後ろ姿は正儀の記憶から生涯消えることなく焼きついて、彼自身の運命を決して行く。
決死の出陣を前にして、正行は参戦してきた一族の者どもを連れて
ここには先帝後醍醐天皇の陵墓がある。
一同で参拝した帰り、正時は一人の若侍が板壁に何か彫っているのに目を止めた。
「何をしているのだ」
「はい、この儚く無常なる世に、我が生きた証を先帝の眠るこの場所に刻みつけとうなりまして」
それを聞いた年嵩の武者がひたと膝を打つ。
「まさにまさに。無情なる公家衆に我らが生きていたというその証、ここに刻みつけて忘れられぬようにいたそうではないか」
そう言って、
すると、居合わせた者どもも次々に自分の名を板壁に残していく。
公家衆が、そんなことで彼らのことを思い出すとは思われぬ。
そんなことはこの場にいる誰一人判らぬ者などいなかった。
判ってはいても武士の意地として、死に行く者の矜持として名を刻まずには済まなかったのだ。
「兄者」
居合わせたすべての男たちが名を刻み終わると、正時が兄を呼ぶ。
ぐるりと一同の顔を見回せば、その顔は皆晴れやかに微笑んでいる。
正行はこれも一同に倣って自らの箙から弓を一本引き抜いて彼のために空けられた板壁の余白に、鏃の先でこう刻む。
(すでに生きて帰らないものと覚悟しているので亡き者の数に入る男たちの名を刻んでおく)
正行の覚悟は居合わせた皆の総意だったに違いない。
もちろんその思惑はそれぞれであっただろう。
この後の世を憂いて儚み、見たくないと諦念した者がいたかも知れず、公家衆の仕打ちに憤り、死んで見せようと意気込んだ者もあったかも知れない。
手柄を立てるまでは何があっても帰るまいとの誓いかも知れず、老いた身でどうせ死ぬのなら戦場で死にたいと、そう願った上での決意の者もいたに違いない。
互いに頷きあうのを見つめていた正行は、ここしばらくの儚げな様子から一変、目に光を宿してこう宣言した。
「よいか、我らはただ死にに行くのではない。帝のため、河内に暮らす民のため、
正行は再び兵を集めた。
しかし、既に敵軍は八幡に敷いた師直の第一陣だけで一万騎と言われていた。
これに師泰の第二陣、全国から呼び寄せている軍勢もあるという。
その数は六万騎とも八万騎とも喧伝されていた。
もちろん大きく見せているだけで、実際には歩兵も含めて八万人といったところではないかと正行は踏んでいる。
そんな大軍を迎え撃つ楠木軍は公称四千余り。
実に戦力差二十倍に及ぶ。
そのような状況では近隣の南朝方の豪族に声をかけてみても、怖気をふるって色よい返事は返ってこない。
「数を見ただけで勝ち目のないことが豪族どころか散所の民にだって判ると言うのに、北畠一派にはなぜこれが理解できぬのだ」
「何を言っても今更のこと。正時、兵の士気を下げるなよ」
「申し訳ございません」
年明けて
三日には本陣に号令を下し
そこから斥候を放ってみたが、楠木軍は吉野を出陣はしていたものの大した軍勢でもないのにゆるゆると進み、根拠地である河内赤坂辺りで今更ながらに兵を集めているという。
「さすがは楠木の忘形見、戦の仕方は父譲りか」
足利軍が斥候を使っているのと同様、いやその運用では当代切っての楠木党である。
おそらく味方に数倍する斥候を使って事細かにこちらの軍容配陣などを調べ上げているに違いない。
彼我の戦力差は二十倍と報告されている。
正直、相手の立場に立てば正面から当たりたくはない。
かといってこちらから討って出るのは先の二度の合戦の二の舞を演じないとも限らない。
そもそも楠木党は先代以来地形を利用し、奇略を用いた奇襲戦術を得意とする難敵だ。
直義の手前「楠木など恐るるに足りぬ」などと豪語したものの、その実はひどく恐れていたのである。
いや、その慎重さこそ実は師直の強さだったかも知れない。
「確実な勝利を収めるためには小倅めを誘い出さねば」
この戦はただ勝てばよいというものではない。
是が非でも敵総大将正行を斃して勝たねばならない。
それほど大事な一戦なのだ。
それは、足利の天下が盤石なものになるかどうかがかかった大一番であると同時に、足利家の中で確固たる地位を得て直義に対抗するため、高家のための戦でもあったのである。
「誘う罠には大きな餌をつけねばならん」
師直は本陣を五つに分け、
これが誘いだと気付かぬ正行ではない。
しかし、ここを通るしか道はなかった。
親房の檄が、兵糧が長期戦を許さなかったのだ。
かくして、正行、正時兄弟の運命を決する正月五日を迎えることとなる。
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