第13話 父の俤

「一気に打ち破りましょう」


 報せを受けた正時の第一声がそれだ。

 しかし、正行は言下に否定した。

 確かに先発の三千騎は一戦にして討ち散らす事も出来よう。

 だが、続々と集まって来る軍勢をいつまでも同じように各個撃破し続けるなど不可能に近い。

 そもそも動員出来る兵力が違いすぎる。

 藤井寺の折の合戦も住吉での合戦も、楠木勢は常に最大動員である。

 一方の足利軍はその都度新手の兵力で攻めてくる。

 これでは徒に味方の兵馬を疲弊させるだけの事ではないか。


「正時」


「はい」


「兵を分散して山へ上げろ」


「兵糧はいかがいたしますか。合戦続きで消耗しておりますれば、冬は越せませぬぞ」


「吉野へ出向く」


「ご一緒致します」


 正行は、ちらりと弟の顔を見た。

 正時が珍しく軍勢の指揮ではなく兄の同行を求めたからだ。


「ご迷惑ですか」


「いや、頼む」


 正時には不安があったのだ。

 一つには兄の健康状態があまり良くない事である。

 父の死後、常に兄の側で兄を見てきた。

 心身共に相当の無理を重ねてきた事を誰よりも知っている。

 父の十三回忌以降わずか数ヶ月の目覚ましい活躍で「楠木正行」の名が敵味方問わず大きな存在になったのとは反対に、彼自身の存在が儚くなったようでならないのだ。

 蒼白くやつれたおもてが、今にも消え入りそうで怖かった。

 だが、それ以上に彼が同行の決意を固めた理由が北畠親房の存在である。

 行宮に巣食う公家衆の気分を代表する親房の冷厳で容赦のない態度と現実を知らない指図が、兄と楠木党にどのような過酷な要求をして来るのか。

 それこそが気掛かりだったのだ。

 叶う事なら兄には思う様に振る舞って欲しいとねがっている。

 それが無理な事を判っていてもだ。

 

 足利軍は日に日に膨れ上がっていた。

 師直、師泰兄弟の三千騎が淀に着いた日に馳せ加わっただけでも武田、宇都宮、赤松など二万余騎。

 師直はこの中から精鋭七千騎を率いて、翌日八幡に進出。

 一族の師冬をはじめ細川、今川、佐々木といった源氏の一統など六万騎が着陣し、辺り一帯は足利軍の兵馬で充ち満ちた。

 確かにこれを各個撃破など正気の沙汰ではない。

 この情報は、宮中警護にあたっている正儀の元にも当然もたらされている。

 正儀の見立てでも真っ向勝負など考えられない。

 しかし、戦を知らない公家衆には兄正行なら出来るという無責任な信頼が拡がっていた。


「して、足利軍はすぐにでも攻めて来る気配か」


 正儀は庭に畏まっている部下に問いかける。


「いえ、大将師直、督促の軍勢すべてが集まるまで待つつもりのようにございます」


 この辺りの慎重さは太平洋戦争時のアメリカ軍を思わせる。

 緒戦での大敗はそのまま敵軍の命知らずな精強さと、自軍の生への執着からくる弱さであると自覚し、軍兵に拡がる恐怖心払拭のために必要以上の軍勢を集めて武将たちの精神安定にも努めなければならなかったものとみえる。


「その様子、兄たちにも知らされておるのか」


「はい。お館様は金剛山に兵を上げ、先代同様籠城によって全国の反足利勢力が蹶起するまで耐えるこころづもりのご様子です」


 それよりなかろう。

 正儀にはそう思える。

 しかし、楠木党の兵糧は幾月もの籠城が出来るほど蓄えられていない。

 おそらく父は、時局が有利と見つつ、それでもなお数年先まで見据えて準備を整えた上で挙兵したはずだ。

 でなくば百日もの籠城など出来ようはずもない。

 父は始めから籠城する計画のもとで兵を動かしていたのだろう。

 だが、兄は兵を動かした結果、籠城する必要が生じたのだ。

 この差は大きい。

 なにより、この後に及んで公家衆は一気に京を奪還出来るものと信じている。

 出来る事はないのか。

 正儀は己の無力感だけが大きく感じられた。


 吉野に着いた正行と正時は、中納言じょう隆資たかすけを通じて奏上することにした。

 彼が穏健派であったからである。

 控えの間で待っている間に一人の公家が現れた。

 宮中最強硬派の巨頭親房である。

 正時が敵意のこもった目で睨みつける様は、足利軍へ向けるそれ以上のものだった。


「帯刀」


 親房は正時をいないものと見做して、勤めて静かに平伏している正行を立ったまま見下ろす。


「二度にわたる合戦の働き、見事である」


「ありがたきお言葉」


 正行の声に抑揚はない。

 親房の言葉はいよいよもって冷たい響きを帯び出す。


「宮中においてはその方ならば年明け早々にも京を奪回出来ると評判であるぞ」


「楠木にそこまでの力はございませぬ」


 答えたのは正時であった。

 彼の言葉には憎悪とも言える鋭さがある。


「父に倣い、元弘の役の再現をしとうございます」


 正行は、今にも斬りかかりそうな正時の膝を抑えてそう言った。

 親房は正時に一瞥もくれることなく冷厳と正行に問う。


「楠木はそれでよいとして、主上はどうするつもりか。よもや主上を連れて山に籠るなどとは言うまいな」


 問うておきながら親房は答える間も与えず言い捨てに出て行った。


「よいか、ご主上を安んじられてこその忠臣ぞ」


 と。

 思い沈黙が兄弟を包む。

 まったく予想していなかったと言えば嘘になる。


「すまぬのう」


 沈黙を破ったのは隆資だった。

 どうやら親房とのやりとりを聞いていたものらしい。


「やはり、無理なのであろうな」


 とは、京奪還の事であろうか。


「敵が淀、八幡まで出張っておりますれば」


「して、ご主上にはなんと伝奏致さばよいかの」


 正行は黙した。

 様々の想いが胸中を去来したのである。

 今上の君の篤き信頼、先帝の事、戦場に果てた郎党たち、宮中警護に出向くまでの館での生活、親房の冷たい眼差しとその子顕家の激情、そして、最後に辿り着いたのが桜井で別れた父の沁み入るような微笑みであった。

 それは忘れかけていたおもかげである。

 それがまるで昨日の事のように鮮明に脳裏に浮かんだ。

 そこに微笑む父の穏やかな面差しのなんと心に沁みる事か。


「ああ、そうか……」


 正行はようやく父の微笑みの訳を知り得た。

 そこには悲壮にして清廉な決意と残される者への慈しみの情が溢れていたのだと、今ようやく気づく事が出来たのだ。

 そこに思い至ったことで彼の覚悟は決まった。

 正行は衿を正して平伏し、凛とした声で淀みなく奏上する。


「されば父は湊川へ赴く折、この正行を桜井の駅にて追い返す際、帝をお護り致せと遺言致しました。以来十三年、父の遺言に従って今日までひたすらに帝をお護り致す事のみ考えて参りましたが、帝を京へ還幸出来ずして父の遺命を果たしていると言えるものかとずいぶんと悩んでまいりました。このたび二度の合戦にて勝ちを得ましたのは、ひとえに帝の御威光によるものと存じますが、今また大軍京より罷り来るにあたり粉骨砕身して合戦致さぬとあらば、亡父に似ず武略拙きものよと謗られるは必定。これを避け、病に死するような事でもあらば帝の御為には不忠の臣、父の為にはまた不孝の子。帝を安んじる為にもこちらから進んで決死の合戦を挑み、敵大将師直、師泰の首級を取るか我が首級を渡すかという戦に赴く所存にございます。つきますれば、今生にて今一度龍顔拝したく参内仕りましたる次第にございます」


 その目からは、とめどなく涙が溢れ頬を伝う。

 親房とのやりとりを聞いていた隆資が、言葉の底に流れる無念の情と決死の覚悟を読み取れぬ筈がない。

 こちらもはらはらともらい泣きして、しばらくは取り次ぎに立つことも出来なかった。


 後村上天皇は正行の参内を喜び、伝奏に接すると哀しげな表情を浮かべた。

 それもまた隆資の胸を詰まらせる。

 帝の側で誇らしげにも満足そうにも見える親房とその一党を殴りつけたい衝動に駆られつつ、隆資は命ぜられるままに参内将兵の御高覧に付き従った。


「正行をこれへ」


 彼は官名ではなく名をもって招き寄せられた。

 それほど信頼されていたのである。

 御座所近くまで召し出された正行の伏した瞳の深い憂いが帝の目に留まる。


「面をあげよ」


 二人の視線が交差する。

 帝の瞳にもまた哀しみが宿っている。

 無言の会話が続き、いたたまれなくなった正行が平伏すると帝は直言を与えた。


「正行、進退の時をあやもうてくれるな。機に臨み変に応じてこそ忠なる勇士ぞ。朕がそなたを股肱の臣と頼んでおるという事を忘れず、必ず……必ず慎重に行動して命をまっとうする事をこころがけよ。よいな」


 楠木帯刀左門少尉正行。

 彼は今ようやくあの日、父の首級の前から一人抜け出して薄暗い持仏堂の中、形見の太刀を見つめながらただひたすらに希った事、すなわち父の想いに触れる事が出来た。

 身勝手に新田と別れて吉野に逃げ落ちる先帝を護衛しながら考えた、父の誠心誠意の本質を知り得た。

 若き公家武将顕家が語り聞かせてくれた父の姿、すなわち最善次善の献策を却下され、死命に黙して湊川で散った本心に想い至ったのである。

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