第9話
カツヤは大学という場所で、残された学ぶ時間が減っていくのを惜しむように真面目に漁るように知識を得た結果、国の現在も未来も世の中のルールも人々の善意だけで構築されているものではないと理解するようになっていった。
カツヤは年に何度か金を出してくれた法を守る立場の松井に会う時、よく質問をして彼の返答を確認しておきたいと望んだ。
「実際に聞いたことや目の当たりにしたことが特別で人より知識が豊富であったとしても、それを使う権力と知恵がなければ無駄なのでほないのですか?」
「この国の公の要職につけるのは実際は個々人の能力ではなく世襲制ですよね?身内が損をする類いの機密を他人が知り得ないよう、表に出さずに内々で身内で官職を引き継いでいける状況内でだけ進めていくのが慣習だったりするのは仕方ないのですか?貧富の格差が子孫にまで残ってしまいます!」
などと熱心に問うてみても、松井は煩そうな顔で酒を飲んでいるばかりだった。
カツヤは、自分も松井から支援されて学べる機会を与えられている天涯孤独の孤児であることから、得られた知識の活用先が彼らの指揮下に限定されることになる事に、ようやく気がついた。
松井ら戦後に頭角を現した街のにわか有力者達は、言いなりになってくれる真摯な若い者を見つけてきては支援者として豊富な資産を貸し付けて、医学、法学、商学、薬学、建築学、看護学など「自分達が自由に使える人間」を恩を売りながら次々に育成しているのだ。
やがて支援を受けた孤児らの中で途中で投げ出さずに専門的な知識を学べた者たちは、卒後、成績優秀なら地元の有力者や元軍の高官などの関係者親類筋らとの養子縁組が決まり戸籍も立派になり、婚姻によってさらに力を強固にしていくことになり、支援した有力者の外堀がガッチリと固まって強固に構築されていく。
元々裕福な大地主の家に産まれていたカツヤでも、戦災で家も財産も家族も全て無くなったため、もはや幼い頃の記憶をたどることも不可能だったのだが、
法律家の松井によれば広い茜根村のほとんどはカツヤの家と親族の持ち物で大勢の小作人をかかえていた記録を見たことがあったという。
松井から聞いたそうしたカツヤの過去が真実かどうかは戦火で焼失してしまった戸籍からはもうわからなかったのだが、
聞かされたカツヤのプライドは大学4年間余すところ無く真面目に学ぶ姿勢を貫くのには充分だった。
カツヤはすぐに国の税金や人民を自由に使えるような官職に就くことは自分のような者には叶わないと悟ったので、戦後のこれからの世の中の先を見た賢い経営者になってみたいと考えるようになっていた。
松井にそれを話すと、彼は、大規模な硝石の工場が手に入りそうなので大先生がツネオとノブに残した遺産でそこを買って3人で経営してはどうかと言い出した。
「ツネオ君とノブちゃんの遺産も増やしてあげればよろしい」
過去の地位だけでとうに貧乏な軍関係者の養子に決まっているカツヤがその話に飛び付いたのはいうまでもなかった。
「松井先生、よろしいんですか?大砲は無いとしても、ハムやソーセージといった外国の肉カマボコに硝石は必要ですし、ひょっとししたら大きく化けてしまいますよ」
「カツヤはすぐに人を信じる浅はかな男だよ。大きく儲けそうならすぐに目をつけられて奪われるだろうさ。そうならこちらで買い取って他に高値で売るだけさ。前例の無い工場なんぞは立ち上げがとにかく手間がかかるんだよ」
「カツヤ君は、先生にとってそんな存在でしたか」
「安心してるのか?カツヤのような正論を振りかざす人間なんてうっとうしいだけさ。本人の社会人としての経験の浅さを露呈させる雰囲気も気に入らんのだ。戦後の奪い合いでなんとか自分の心の底の善に目を向けないようにしている我々大勢には、そんなのは耳障りで仕方ないのさ」
「これからはどちらかというと建築関係の専門家の卵がもっと必要ですね」
「何もないところに大きく造れるんだ、戦争のお陰で邪魔も無い」
「戦争のお陰で金持ちと貧民が掻き回されましたね、神様は面白いことをなさいますね」
「いや、まだわからん。勝負は昭和中期に生き残っておるかどうかさ」
「法律も都合に合わせて変えられますしね」
「今や混乱期だ。犯罪の証拠さえも創れるんだから、恐ろしいことだよ…」
「駅の孤児の死体の山も消えましたし。駅裏の売春宿は目立ちますね…」
「潰して新しく建てて、高く貸すには、不動産専門家も大勢要るかね」
「夢のようにやることがありますね」
「電車も線路をあちこちに引いて、街が創られるのだ。乗り遅れている暇はない、そこらで行き場を迷ってる資金をかき集めよう」
「夢のような未来が目の前ですね先生!」
ノブが無事に女の子を産んで3ヶ月、育児だけの毎日は眠くて辛いけれど放っておけばすぐに死んでしまうような頼りない赤ちゃんは全てが手探りの若い母親のノブには可愛くて仕方ない。
ようやく大酒飲みで優しすぎて女にだらしない美男子のトミオとの離婚が成立したものの、姑に我が子を渡せと申し立てられているノブはカツヤの始めた硝石工場の一画に元々建っていたなんとか使える古い屋敷に住まって、退院してすっかり元気になってカツヤを手伝っているツネオと結婚したばかりのマチコという気の良い女にも助けられてそこそこ不自由無く暮らしていた。
カツヤは養子に入った先の娘と結婚したが、このカツヤの新妻はノブやマチコと仲良くする努力をすること無く、とにかく同じ屋敷内での同居が嫌だとカツヤに愚痴り、自分たち専用の新しい屋敷を建てさせようとしていた。
硝石は戦後の日本には面白いように必要で、ツネオとノブの遺産で買った工場はますます大きくなることが急務で、あちこちの銀行は是非うちで借金をしてくれとカツヤを毎晩接待し、建築費や人件費だけではない新たな土地買収や邸宅建設も含めた融資が膨らんでいった。
ツネオもノブも自分たちに遺産があることを教えられていず、カツヤの好意で安心して暮らせていることに毎日感謝して生きていた。
ツネオが退院して半年ほどして、弁護士の松井が意識不明で緊急入院し数日であっけなく死んでしまったことは、まだカツヤは知らなかった。
湯灌師レイコ~知っていたらわかり合えた大切な人~ 永沼玄信 @sonokoala2021
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