第8話

「松井先生、市政をとばして県議会議員になるそうですな」

「市民をたくさん雇ってもろうて儲けを外にばらまいてもらわな」

「いくつもの団体が推薦していくそうやで」

「大金の渦で先生の力もじわじわとついてきたか」

「止めようがないほどの勢いですな」

「こちらもしっかり寄っとかないと」

「ますます市民からいくらでも儲けさせてもらえますな」

「あの方の力で駅の開発を北側だけでなくもっとあちこちに拡げられるそうですよ」

「いろいろと始まりますかな」

「お互い乗り遅れぬように…」


レイコには、軽やかな熱を放ったろうそくの炎のようなボンヤリとした光が頬のすぐそばに感じられ、たくさんの人の話し声が聞こえてきた。

けれど、聞き取れたそれらの声の中にはツネオの声もカツヤの声もなかった。



同じ高さの向かいのビルの閉まった窓が反射した夕陽を背中で受けながらカツヤとキムラがツネオの病室のベッドの傍に座っている。

「目が覚めたか?」

「…?」

「ツネオ、わかるか?」

「…カツヤ兄さんか…?」

「なんで警察に捕まった?」

「…ああ。また、やらかしてしまったような…」

「どうしました?目が覚めましたか?」

「はい、看護婦さんから松井先生のとこに連絡してもらえませんか?」

「わかりました」

「キムラ君、あの看護婦さんがお前の知り合いか?」

「そうです、幼馴染みなんです」

「お礼を言っとかないとならんな」

「…カツヤ兄さん…ここは?」

「ツネオ、お前、急に倒れて死にかかってたんやと」

「…なんで?…書いてただけやのに…」

「書いてた?」

「なにかを…書いてた…留置所で…」

「どこか痛むか?」

「いや、なにも…。何を書いてたのかな…」



若い医者が、呼びに向かったキムラの幼馴染みの看護婦アヤと共に病室に入ってくる音が聞こえる。


「どうですか?ここに来たときのこと、おぼえてますか?」

「…来たとき?…」

「息は苦しいですか?」

「…胸が締め付けられる感じで重いです。まだ息が苦しい…」

「もう、大丈夫です。あとは日にち薬ですから、ゆっくりしてれば良くなるでしょう」

「…先生、俺はなんでこんなことになってんですか?…」

「原因はわかりません。もしかして何か口にしましたか?まあ、もう、大丈夫ですが」

「…こっそりもらったお菓子か何かを…水を飲んだかな…、なんか、ものすごい不安で恐ろしいです…」

「眠れる注射を打ちました、いまは自分の身体に治してもらう時ですよ。何も気にせずにゆっくりと眠ってください。それでは明日」

「…先生、ここに、おじいちゃんの下で働いてた里中先生がおられるはずで……」


ツネオはゆっくりと意識が薄れていくように誘眠薬で眠り始めた。



「キムラくん、大先生の遺族って、もう、あのツネオという人と妹さんしか生き残ってないの?」

「ああ。アヤも僕も大先生のお陰で飢え死にせんですんで、今がある。大先生の家族があんな貧しそうなんは気の毒すぎると思わへんか?」

「子は親を選べないのよ、それだけの違いやないの。キムラくんもサノくんみたいに真面目に働いたら?」

「サノは松井事務所にいるけど学校行ってない。弁護士にはなれん。今度議員秘書になるらしいけど、どのみち使い棄てやないか」

「キムラくん…なんてことを。妬みやわ」

「アヤはツネオ君をよく診てやってくれよ」

「あの患者。胃を洗浄してたから、ほんまは毒、盛られたはずよ」

「ツネオ君が大先生の全財産の正式な相続人やて、サノが言ってた。けど、カツヤさんの大学費用も生活費もそこから出とる」

「大人が勝手に山分けしたんやね、そんなもんやわ、なにもできないし、仕方ないわ」

「ツネオ君にいろいろ確かめたいけど、カツヤさんが何者かもわからんしな」

「どうでも良いでしょ。今の私らには関係ないわ、欲が渦巻いてそうで恐ろしいわ…」

「アヤはほんまに大先生に恩返しをせんでええんか?」

「里中先生も毒かなんかやと、思うんよ…。なんか、怖い…」

「だからこそ、僕とサノが動いてるんやないか」

「どう動くの?何したいの?放っといたら良いじゃない、危ないのと違うの?」

「ツネオ君にしっかりして欲しい、というか、今は、命を守ってやらな…」

「それで?何が起こるの?なにも知らないうえになにか出来るような力もないツネオさんのために、頼まれてもないのに、いったい何するの?」

「大先生の遺産はひとかどのもんやない」

「もう全部失くなってるのと違うの?警察も公務員も弁護士も…みんなで使ってるんちがうの?」

「サノは、訴訟ではっきりさせたら必ず消えたように見える遺産は出てくると言っとった」

「出てきても私たちのお金ではないやん」

「それはそうやけど…」

「大先生の親族てなんかパタパタ亡くなってる感じがしない?」

「だからこそ…」

「関係ないのよ!このままそっとしとこうよ。自分の受け取るべき遺産を管理も出来ない人が馬鹿なだけやん」

「アヤ!そんなこと言うなよ」

「…」

「子どもでも学が無くても筋が通る世の中でないといかん!」

「毎日毎日お金を払えない病人は死んでいくし、お金持ちは治って退院する。それが世の中やわ」

「貧乏人はみな死んで、世の中は金持ちだけになるんか?」

「そうよ」

「健康な貧乏人は?」

「病気になって死ぬまでお金持ちのために休むこと無く働くんでしょうね」

「…」

「お金持ちは倒れるほど働かないと聞いた」

「貧乏人の娘は今でも親に売られて身体を売って梅毒なって死んでるんよ!」

「黙ってくれ…」

「あの患者、偶然大先生の家族になれたとこまでの幸運が、とうとう尽きただけよ…」



ツネオが病室のベッドの上に起き上がって力無く座っている。

「ご気分どうですか?わたしは松井先生の事務所のサノと言います。君が酔って刺した相手は地元のチンピラのようで、被害届が出てませんので、君の刑務所行きはなしになりました」

「包丁なんて、持ってなかったはずなんです…。酔ってて覚えてないですけど…。」

「その包丁も見つかってないようです。留置所で、何か口にした覚えは?」

「書いてたら…、中の一人が、キャラメルを一つくれました、腹が減ってて。あと、水も。監視員に茶碗で水をもらいました。他には何も…」

「わたしは君のおじいさま、戸籍では父親となられている大先生に大変お世話になったものです。何かあればいつでも相談してください、お役にたてることはさせてもらいます」

「ここの病院長の里中先生に会わせてください」

「その方は少し前に亡くなっています」

「? まだ死ぬような歳ではないと思うのですけど…」

「入院されていて急に亡くなってしまったそうです」

「…里中先生が…」

「何も無いんです、何もわからない。何年かぶりにここに戻ったら、もう、自分の居場所は跡形無く消えて無くなったということです…」

「大先生にお世話になった住民がたくさんいますよ」

「もう自分には、カツヤ兄さんとノブだけしか家族がおりません」

「カツヤさんとは何者です? もしかして大先生の外の子どもさんの一人ですか?」

「詳しいことはわかりません、でも、今では家族なんです…」



サノは病院を出てすぐに役所に寄って戸籍を調べたが、カツヤの名前は大先生の子や婚外子、養子縁組など20人をこえる人数の「法的に守って面倒を見ていた子たち」の中には見当たらなかった。


「生年月日も戦災孤児なら不明な場合も多いからなぁ…」


サノ自身、カツヤと行動を共にしているキムラや、ツネオを担当している看護師のアヤと同じく戦災孤児であり、

10代の頃は自分も何とかして大先生の戸籍内の子どもになりたかったのに、といささか僻んでいた過去もあった。


戦争で貧富の全てが引っ掻き回されてしまったのだが、したたかに戦乱時代を好機ととらえて財を積み上げる者達も多かった。
















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