第7話

レイコが湯灌のシャワーヘッドをゆっくりと動かしながら目を閉じてから、だいたい30秒ほど過ぎている。


この方は若く見えるけれど、実際は80歳をずいぶん超えているだろう、と、

ここまで見えてきた時代背景からレイコには読み取れた。


昭和の前半頃の時代は夫より何歳も年上であることは隠すべきことだったのかもしれないし、今でも、遅くに産まれた娘が高齢の母の年齢を恥ずかしく思うことも少なくないままなのかも知れない。


戦時下や戦後ではお金持ちの子どもに産まれても成人前に両親が亡くなるとあっという間に家も財産も奪われて、世間の荒波に放り出された孤独で貧しい暮らしが待っている、といった風だったようだ。

現代なら犯罪でも犯さない限りそこまでのことはそうそうあり得ないはずだろうに。


レイコは少しだけ目を開けて遺体の反対側に回りこみ、シャワーの温度を確認してまたゆっくりと遺体の半身を洗い流し始め、しっかりと目を閉じ直して不思議ないつもの感覚に身をゆだねた。




薄暗くカビ臭い留置場の端の方で、ツネオが無心に何か書いている。

「おい、あんた、何した?そんで今何してる?」

「おい、耳は聞こえないのか?」

「大事なことを忘れんように書いてるんや、説明せにゃならんことが多すぎる…。おじいちゃんが俺に託したもんは、ほんまにたくさんあるはずや。キクエさんやハツエさんが文句言うくらいにな。あの人らが知ってたことが死んでしまってからあと、俺にはわからんままになってる。おじいちゃんの弟子の先生らも誰もどこにもおらん。あの病院はおじいちゃんがひいおじいちゃんと守ってきた江戸時代から続く診療所やと聞いとったのに。俺は何回もこの耳で聞いとるのに。いかん。俺が守らんといかん…」

「なんやこいつ、早口でブツブツと、目が座っとる。ヤクチュウか」

「おい!!静かに過ごせ、明日まで出さんからな」

「なんでこないだまでいた人がおらんようになって、あったもんが、みんななくなってしまうんや…。どうしたら良かったんや?!今ではもうわからん、俺は頭が悪すぎる…、猛勉強する機会は山ほどあったのに……、くそっ!」

「おい!!書くなら静かに書くように!!」

暗い留置所で見張りの警官の声が響いている。




いきなり明るくなった。

シューシューと音がしていて、目を閉じたツネオが病院のベッドで酸素マスクをつけられたまま何かブツブツ言い続けている。


「彼、昨夜、檻の中で急に倒れたのですか?」

「そのようです。持病かもしれませんが、原因不明で。呼吸が弱くなってます。なんとか持ちこたえてくれば良いのですが…」

「わたし、彼と、今朝初めての顔合わせだったんですが…」

「松井先生の事務所の方でしたか」

「本当になにも原因はわからないのですか?」

「ここでの出来る限りの対応はしています、自発呼吸ギリギリなんですが…」

「では先生、お手数ですが、落ち着いたら事務所にご連絡を、よろしくお願いいたします」

「はい、看護婦から連絡させます。あ、彼が、うわ言で里中先生を出せと言うのですが、もしかして彼も元医者かもしれません。私は初代病院長の里中先生を尊敬しておりまして。ずいぶん前に亡くなられてまして…」

「彼についてのそういうことは聞いていません」

「そうですか…」

「里中先生はご病気で?」

「いえ、死因はわからないんです。本当に。急に倒れて、2日間集中治療室で、なんとか回復して普通病棟に戻ってすぐに急変されて、そのままでした」

「その時は、こちらの?」

「病院長でした。この病院を近代化してこれからという時に…」

「そうですか。関係があれば聞いていると思うのですが。あ、では、失礼します」

「では…」



アパートのドアを何度も慌ただしく叩く音がしている。

「ノブ、いるか?」

「カツヤ兄さん、あわてて、どうかしはったの?」

「ちょっとな、昔大先生の診療所があった病院に行ってくる」

「今から?もしかして、ツネオ兄さんに何かあった?」

「お前は心配すんな、トミオも実家に帰ったことやし、のんびりしとけ。まだまだ予定日は先やろ」

「はい、体調も良くなってきました。大家さんとこのナナちゃんが遊びに来てくれるし。ナナちゃん、ツネオ兄さんのこと好きなんよ」

「そうか、そうか。楽しくしておきなさい。わしは試験もすんだし、何日かあっちに泊まるつもりや。」

「気をつけて、ツネオ兄さんは、仕事はええの?」

「女将にはツネオはしばらく休むことになると言ってきた。」

「はよ、帰って来てくださいね」

「わかった」



「キムラ君、待たせて悪かったな。ツネオは危ない、てか?」

「松井事務所の知り合いの話では、なんともいえん状態やとか」

「何があったのか、詳しくわかるか?」

「病院の知り合いの看護婦の話では、苦しそうに運ばれてきたツネオさんは里中先生を呼んでくれ、て言っとったそうです。里中先生がもう死んではること、知らんみたいで、て…」

「ツネオとノブのとこの死んだ爺さん大先生の、一番弟子せんせい様が里中先生や」

「カツヤさんは会ったことなかった?」

「会ったかもしれんが、忘れた」

「カツヤさんはもうすぐ学士様やろ?」

「そういう意味では、大先生に恩があるな。間接的に」

「電車きましたよ。夜行て、久しぶりですわ」

「ノブの姉、ほんまは出戻り叔母のヨリコいう女はどうなった?縁談探せたんか?」

「ああ、去年の秋に呉服屋の後妻に入りましたよ。松井先生の知り合いの、まあまあ爺さんですけど、それはそれは金持ちです。山口県の田舎町やったかな、熊本県やったかな…えっと…」

「戸籍抜けたんならそんでええわ。こっちのノブは結婚させたけど相手がダメやった」

「トミオとか言う色男?」

「子どもが産まれる前に離縁させる」

「はや。まあ、ツネオが受けた遺産もたくさんありますもんね、生活には困らんし」

「あと財産がどれだけあるのか、どうもようわからん…。誰がどこに使ってるのか…」

「カツヤさんみたいなのが何人もいるんでしょ」

「わしは大事なツネオとノブを2人とも面倒みてるんやで。他に誰が財産使えるもんかね」

「松井先生はビル建てて、あちこちに店だしたり妾に家建てたり、怪しいもんや」

「確かにな…」

「ツネオが死んだら相続人は一人も居なくなる…」

「え?カツヤさん!まさか…」

「眠れんなぁ…」


ガタガタときしむ音がして、暗闇を線路が続いていく。






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