心を取り戻すまで

あおいしょう

心を取り戻すまで

 親が死に、親戚に預けれらた。その親戚は気に入らないことをするとリグに暴力を振るった。

 学校でもいじめられた。金持ちの息子に意図的にターゲットにされて。

 暴力を受け、ゴミのようにゴミ捨て場に捨てられる日々。そんな中、リグは仔猫と出会う。

 世話をしてやらねば生きることもできない仔猫。自分を必要としてくれること、愛らしい仕草。荒んだ生活の中で唯一の喜びだった。


 だが、金持ちの息子に見られていた。金持ちの息子とその一味に猫奪われ、目の前で殺された。

 その時心の何かが壊れて、金持ちの息子たちを殺した。

 汚い心を司ると感じる場所を、体から排除して。

 猫の死体には何も感じなくなっていた。

 これからどうすればいいのかという不安も感じなかった。

 ただ、親戚の家には帰れない。そう思った。それも何も絶望はなかった。


 どこか遠い街に行くことにした。腹が減れば盗みをして、眠くなれば雨風を防げる場所にこっそり不法侵入した。それまでは悪いことのはずだったそれらをしても、なにも感じなかった。

 おかしいとは思ったが、それもどうでもよかった。

 公園で寝ている時、男にウチに来ないかと誘われた。

 誘われるままついて行った家で、裸にされよくわからないことをされたが、その家に住んでもいいと言われた。特に異論はなかった。


 女性がストーカーされてるところを見た。女性はそれに気づいているのか気づいていないのかわからなかった。だが、リグはそのストーカーを見た途端、殺意が湧いた。

 その男が汚いと感じた。汚い臭いがした。猫を殺したあの金持ちの息子のような臭いが。


 あの時以来、何も感じなかったのに、なぜこんなにも心がざわつくのか。

 久しぶりの心の動きを無視できなかった。後日、女性をストーキングしてる男の後ろを付け、隙を突いて、ナイフで刺そうとした。

 が、唐突に出てきた男たちにそれを止められた。

 ストーカーの男はその男たちに取り押さえられていた。


 止めた男たちは女性のボディガードだった。

 女性は今は一人暮らしをしているが、金持ちの娘らしい。娘にストーカーがついていると知り、今日から尾行が開始されたところだったという。

「そいつを殺したかった」

 リグは男たちに言う。

「女の人に汚いことをしようとしてた、汚い人間」

 男たちは彼女のことは自分たちが守るし、ストーカーのことはこちらで対処すると言ったが、リグはそう言うことではないと食い下がる。


 ストーカーの男の体から、汚いところを排除しなければいけない。なぜだか、それが自分の義務のような焦燥に駆られている。だがそれは理解されず、男たちを戸惑わせた。

「殺ってもらえばいいんじゃないの?」

 ストーカーされていた女性だった。彼女は「どうせ、その男を殺して、死体は誰にも見つからないように処理するんでしょ? それならそのこに殺させても同じじゃない?」そう言った。

「パパが邪魔者はみんな殺してるの、私が知らないわけないじゃない」

 彼女はリグの顔を覗き込んだ。

「その『綺麗にした』死体、よかったら私にも見せて」


 そうして、彼女の実家で暮らすことになった。

 彼女の命令で、リグは男たちに人の殺し方を教えられる。そうして彼女の父の命令で、邪魔者を殺す一員になった。

 リグはそれには何も感じなかった。不満も満足も。

 ただ、彼女の父親の命令で人を殺しても、ストーカーを殺したときの感情の昂りはなかった。


 彼女も言う。

「最初に見た『作品』以外、ときめかないのよね」と。

 彼女はリグが汚いところを排除した死体を『作品』と読んだ。『アート』だと言った。

 作品を見た後、彼女はいつも必ずリグを抱きしめて「ありがとう」と言った。

 リグには何が有難いかは分からなかった。抱きしめられる意味も。


 彼女は、

「あなたが惹かれる題材を探しに行くといいわ。自由に」

 そう言った。

「パパが呼び出した時だけ、帰って来ればいいの」

 そうして、旅のようなものを始めた。

 

 彼女の実家に預けられてから数年が経っており、体も大きくなって、男たちに教えられた殺しの技術もあった。

 汚い人間は一眼見れば汚いということを感じた。その直感が正しいのか最初は半信半疑だったが、汚いと感じた人間を調べると、必ず犯罪者で汚い人間だった。


 作品を作り上げ、彼女に連絡すると彼女はどんな場所へも飛んで来た。

 そうして作品を眺め、リグを抱きしめて、ありがとうと言う。

 一度だけ、リグはなぜいつも抱き締めるのかと訊ねた。

 愛してるからよ。あなたの作品も、あなたも。

 その返答の意味が、よく分からなかった。


 作品を作る時以外、特にすることはなかった。寝ぐらを探して、ぼーっとする。

 だが時々声をかけられ、その人物の家に連れて行かれ、以前、住ませてもらっていた家の男にされたように、裸にされてよく分からないことをされた。


 そうして自分の体が変化していることに気づくがよく分からなかったので、これは何かと彼女に訊いた。

 第二次成長だと彼女は言う。子どもを作るための成長だと。

「あなたに子どもができたら、その子は心を持っているかしら」

 彼女は微笑みながら、

「あなたの子どもを産んで、確かめてみたい」

 そう言われて、たとえ子どもが産まれたとして、自分がその子どもを育てようが育てまいが、どちらでもよかったので断る理由がなく、教えられたばかりのその行為を彼女とした。


 他では感じられない感覚があった。それが快感なのかはよく分からなかったが、自分を家に連れ込んだ男たちはこの感覚を求めているらしかった。


「でもやっぱり、こういう行為は、愛されてないと少し悲しいわね」

 終わった後、彼女はそう言った。


 子どもはできなかった。

 やはり安堵も落胆もなかった。

 それ以降、彼女とはその行為をしていない。


 そうして、旅を続け、時々彼女の父親の依頼を聞き、旅の中、一つの街に少し長くいると何でも屋として少し有名になり、どんな依頼も受けるようになっていた。

 それを彼女に話すと、彼女は「依頼を受けたらお金を取りなさい」と言った。

 生活に困らない程度の生活費は彼女の父親にもらっている。それなのになぜ金を取るのか。


「あなたはあなたを安売りしすぎなの。何も感じないからって、少しは自分が価値ある人間だと思って」

 人殺しなのにか? そう、訊いた。だが彼女は

「少なくとも私にとって、どんな宝石よりもあなたには価値があるわ」

 その言葉に反論する意味を特に感じなかったので、了承した。


 ある時ふと気づいた。いつからだろうか、彼女の名前を思い出せないのは。

 どうでもいいと言えばどうでもいいことなのだが、長年付き合いのある彼女の名前がなぜ思い出せないのか。

 脳の病気か何かだろうかと思ったが、どうでもよかった。


 寝ぐらを探して歩いていると、猫が横切った。

 別にあの猫が死んで以来、猫を見たことがないというわけではない。

 しかしその猫はリグの顔を見て、にゃあ、と鳴いた。

 自分が何かを感じたのかは分からなかったが、その猫について行った。


 たどり着いたのはどこかの屋敷の敷地内にある、小さな家だった。

 そこには猫が何匹かおり、ベッドがあった。

 そのベッドに寝転ぶ。

 猫が体の上に乗ってきた。

 撫でてみた。

 別に何か心が動いたわけではない。だが、あの猫にしていたことが、条件反射で出たのかもしれない。

 顔を舐められた。

 彼女と一度試みた、子作りで言われたことを思い出した。

 あなたも私を舐めて。キスして。

 と。

 そうすると彼女は喜んでいた。

 猫にキスして舐める。

 猫が喜んでいるのかは分からない。

 猫を体に乗せたまま、眠りについた。


 しばらくその場所を活動拠点にしていた。

 そうして汚い人間を綺麗にしている時だった。

 彼女に連絡する前、もうすぐ完成というところで、少年が現れた。

 汚さが微塵も見えない少年だった。

 少年はリグに向かって「殺すの?」と言った。少年には創作意欲が湧かないから、少年の問いにそう答えた。

 その綺麗な少年は、震えていた。綺麗なのに死の匂いがする少年。


 彼女は、怒ったり悲しんだりして激情したとき、キスをしてやると落ち着いた。

 だから、落ち着かせようと思ってキスをした。


 少年は力が抜けたらしく、尻餅をついた。

 帰れと言っても帰らないので、少年を寝ぐらに連れて行くことにした。


 綺麗なのに死の匂いがする……つまり少年は自殺をしようとしている。

 だが、綺麗な者が死に飾られるのは許しがたかった。

 そんな物で飾らなくても美しいのだから。


 少年は寝ぐらに着くと、たくさんいる猫に目を輝かせた。

 やはりこんな綺麗な目ができる者は、死で飾らなくていい。

 一晩、寝ぐらで過ごさせると、少年――ロルフは帰って行った。


 だが、ロルフがまた訪ねてこたときには、まだ死の匂いを纏っていた。

 殺さないことをはっきり告げたが、彼は帰らずに、リグの生い立ちを訪ねてきた。

 そのまま話した。

 ロルフも自分の環境を話した。

 彼の話に何か感じたわけではない。

 だが、彼は言った。


「あんたが猫たちを撫でる手って、すごく“だいすき”って感じがする」

 と。


 そんなふうに考えたことがなかったから、少し驚いたかもしれない。

 自分は感情を求めているのか。思い出したいのか。

 分からないが、猫を撫で続けた。



 ロルフに出会った時に作った作品を彼女に見せていなかった。死体を放置したら誰かに見つかったら騒ぎになる。だからすぐに連絡しなさい、と言われていたのに。

 連絡すると彼女はすぐに来たが、訝しげに「傷んでるわよ?」と言った。

 途中で邪魔が入ったのだと、ロルフのことを話すと彼女は「ふーん…」と興味があるのかないのか分からない反応をした。






 寝ぐらで眠っていたら、近くに綺麗な気配があった。

 たぶん、今までで一番綺麗だった気配は、あの猫だ。あの猫と同じような、綺麗な気配。

 うっすらと目を開けて見えたその影の頭を掴んで、唇を重ねようとする。

 と次の瞬間、衝撃が襲った。

 ロルフが怒っている。ロルフに殴られたらしい。

 綺麗な気配の攻撃は予測できない。


 彼女に教えられたことがある。承諾もなしにキスをするのは、時に人を傷つけると。

 私にはいつしてもらっても構わないけどね。


 そう彼女は言っていた。だから怒らせたのだろうか。

 ロルフに、あいつに見えたのだ、と謝った。


「あいつって?」

「リディア」


 そう口にした瞬間、何か思い出しては行けないことを思い出しそうな気がした。

 思い出してはいけないなら、思い出さなくていいと思い、無視をした。

 ロルフとロルフが連れてきた少女、パメラは、猫を連れてきていた。預かって欲しいと。


 そうして時々二人は猫を見にきていたが、ロルフから死の匂いは消えていた。


 だがしばらくすると、また濃い死の気配を纏ったロルフが訪ねてきた。

 自分を汚してというロルフに、リグは俺の手を刺してみろと言ったが、やはりロルフはできなかった。

 死の気配を纏っているが、綺麗なのだからできるはずがない。


 次の日、ロルフはひとりで何かやっていたようだったが、気にせずに寝ぐらで寝ていた。そうしたら、パメラがやってきた。

 ロルフのことを気にかけてやってください、と頼まれた。頼まれたのだから、金を取らなければならない。そう思って金を要求すると、パメラは怒った。

 何か延々と話していたが、よくわからない。その最後に猫たちが遊んでいた札束に気付き、これで払うと言い出した。


 ならば断る理由はなかった。

 ロルフを探して街へ出る。

 叫び声が聞こえた。綺麗な気配からの叫び声。

 路地で、綺麗な気配が羽交い締めにされている。


 笑い声が聞こえる。猫を地面に叩きつける音。血飛沫。その血飛沫が顔について、汚ねぇと騒ぐ声。力ない猫の声。もう一度叩きつける音。猫の声がしなくなった。


 そいつらの頭を壁に、地面に叩きつける。

 綺麗な気配はまだそこにいる。生きている。

 抱きしめた。


 目から溢れているのは涙だっただろうか。ずっと流していないからよく分からない。腕の中が暖かい。


「リグ?」


 違う。あいつはしんだ。でも気配は腕の中にある。でもあいつはおれの名前を呼ばない。血を、ぶちまけて、脳みそをたらしていて今腕の中にいて


 腕の中は暖かいのに、あいつはしんでいる。

 綺麗な気配は腕の中にあるのに生きてるのに死んでるのに生きてるのに


 あいつが何か言っている。

 あいつはしゃべらない。

 あいつは――――――――


「放せよ! 僕は――僕はロルフなんだから!」


 気づいたら、また何も感じなくなっていた。

 そばにいたのはロルフで、

「初めて会ったとき、キスしてきたの、僕をリディアに重ねてたからなの?」

 そんなことを訊いてきた。

 確かにあの時、リディアのことを思い出していた。

「かもな」

 と答えると、ロルフは礼を告げ、その場を後にした。


 だが、依頼を受けたのだからロルフに心の平穏を与える義務がある。しかしロルフは自分と一緒にいることは平穏ではないらしい。リグはそう考え、声はかけずにロルフを尾行した。


 ロルフはパメラと会っていた。

 するとロルフの死の気配は薄らいだ。だが、母親がロルフの前に現れた。

 ロルフはナイフで母親を殺そうとする。これは心の平穏ではないだろう。

 ロルフの心の平穏を脅かしているのがこの母親だ。

 いなくなるのが一番いい。


 母親からは心が捻れてる気配がする。美しくない。ロルフの心の平穏のために、綺麗にするべきだ。

 なのにロルフは母親を殺さないでと言った。

 なぜなのか理解できなかった。だからどうするか訊いた。


「僕は、母さんのところに帰る……」


 ロルフがそう言うと、なぜかロルフの真の心の平穏が何かわかった。

 だから、感情を吐き出せばいいと言った。

 自分は、吐き出す感情があるロルフが羨ましいのだろうか。

 そんなことを思ったが、よくは分からなかった。


 ロルフが感情を母親に伝えると、母親の歪んだ気配が薄くなった。

 ロルフの心から死の気配が消えた。


 任務は完了した。リグはその場を離れた。




 後日、猫の家にロルフが遊びにきた。

「お前、まだ俺に殺して欲しいのか?」

 死の気配が消えたのだから、そんなわけはないのは分かっている。なのに、リグの口からはそんな言葉が飛び出した。

 その言葉に「もうそんなこと言わないって!」とロルフは返した。少し不機嫌な表情に、何かを感じた感覚がする。

 それはなにかわからないが、少し心地いい気がした。


 ロルフは猫と遊んで帰った。

 例の仔猫を見る表情は、何かを決意したようだった。


 そうしてさらに後日、ロルフがまたやってきた。

「なんだお前。やっぱりまだ俺に殺して欲しいのか」

 前回言って、ロルフの反応に何か感じた言葉を、もう一度言ってみた。

 やはりロルフはすねた表情で、前回と同じようなことを言った。

 なぜか胸が少し暖かい。もう何年も笑っていないが、少し笑いそうになった気がした。しかし、表情筋が衰えてるからか、笑い方を忘れたのかは分からないが、笑うことはできなかった。


 猫たちの中に座ったロルフは、なぜか礼を言わない言い訳をしてきた。

 あれはパメラの依頼なので、ロルフが礼を言う必要がないのだがとりあえず話を聞いた。

 ロルフは言い訳を終え、だから金を渡せないと言う。

 あれはパメラの依頼なので、その点はパメラの了承を得る必要がある気がしたが、返して欲しいのではなく、話を聞いて欲しいと言う。


 リグに、自分を汚すなと言うロルフ。

 自分を大切にして、と。


 彼女以外で、そんなことを言う人間がいるとは思わなかった。

 彼女は自分に惚れていて、だからそんなことを言うのだから、ロルフも自分に惚れたのかと思ったが、違うという返事が返ってきた。


 ならばなぜそんなことを言うのか。


「あんただって……幸せになってもいいんじゃないかって、思っただけだよ」


 幸せに、なってもいい。

 それが、自分にとってどういうことなのかはよくわからない。

 何も感じないのに幸せになれるはずがないと思った途端、ロルフを抱きしめたくなって抱きしめた。

 口から自然と、ありがとう、と言葉が溢れた。


 なぜ感謝しているのか、なぜ抱きしめているのかもわからないが、胸が熱かった。


「うん。僕も、いろいろありがと」


 ロルフがそう言った。さっきまで強張っていたロルフの体が弛緩した。

 自分も肩の力が抜けているのに気づいた。

 彼女に会いたいと、唐突に思った。


 ロルフは緊張から弛緩したせいか、眠ってしまった。

 彼女に会いに行くなら、ロルフの依頼は受けられない。

 金を置いて、リグは猫の家を出た。



 彼女に会って、ロルフとの出来事を全て話した。

「つまり、その男の子のことが、とても大事になったのね」

 話を聞き終えて、彼女はそう言った。

「大事になった……」

 そう呟いて、そうなのだろうかと自問する。よくわからないが、そういうことなのだろうと思った。


「それでも、あなたは私に何も感じてくれないんだね。悔しい」

 そうなのだろうか。彼女に会いたいと感じた。しかし、彼女に会って、たしかに胸の暖かさも冷たさも、何も感じない。


「どうしたらあなたは私のことで、何か感じてくれるの?」


 わからない、と答えるしかなかった。

 彼女がキスしてきた。何も感じなかった。抱きしめてきた。何も感じなかった。


 彼女はリグの手を取り、自分の首に導いた。

「私が、この世からいなくなったら、あなたは何かを感じるのか、試したい」

 今まで、彼女の願いは無条件に応えてきた。

 だから、彼女の首に絡まる手に、少し力を込めた。

「最期に言っておきたいことがある。リディアは、私の名前よ」

 力を込めた。うめき声。彼女の口から泡が出る。そうして……動かなくなった。


 リディアは、私の名前よ。


 彼女が生きているときは素通りしていった、彼女の言葉。

 死んだ今、その言葉が脳に浸透していく。


 リディアは彼女の名前?


 リディアは、あの猫の名前だったはず。ロルフにもそう言った。

 だが、彼女は自分の名前だと言った。

「いや。俺は……」

 あの猫に名前をつけていない。


 ならなぜロルフに、猫の名前としてリディアと告げた?


「あ」


 彼女を愛していたから。


 だがその激情を認めてしまえば、他の感情を堰き止められなくなる。

 都合よく、愛しい感情だけを感じることはできなかった。

 他の感情を堰き止めなければ心は壊れてしまう。

 あの猫が死んだこと。人を殺したこと。路上でボロボロになって暮らしたこと。男に誘われ強姦されたこと。全てが押しよせてしまうから。


 だから、愛しいものの存在として唯一認めていい存在であるあの猫と、彼女をずっと混同していた。


「あ、愛してる」


 リディアの首から手を離した。後ろに倒れそうになった彼女を抱きとめ、見開いてる彼女の目を閉じ、口から吹いている泡を手で拭う。


 彼女が、あなたの子どもは感情があるのか確かめたい、と言っていたのを思い出す。彼女の頼みで、唯一叶えられなかったこと。


 彼女の体を彼女の部屋のベッドに寝かせる。

「作ろう。子ども」

 リディアの唇にキスして、それだけでゾクゾクとした快感が全身に広がる。

「愛してる」

 自然とその言葉が何度も出る。

 お互い裸になり、まだ暖かいリディアの身体を抱く。

 そうして彼女の中で、何度も果てた。そうして精が尽きたとき気づく。

 彼女は死んでいるから、子どもなどできるはずはないと。


 それから、何日呆けていたかわからない。

 リディアから異臭がし始めた頃、彼女のボディガードたちがやってきた。

 彼女と何日も連絡が付かなかったせいだろう。


 今までなら、彼らに捕まったとしても構わないと思っただろう。だが、今はハッキリと嫌だと感じる。彼らを蹴散らし、外に逃げ出す。


 逃げ出して、どうするのかはわからない。

 まだ、自分一人で何をしたいのかなんてこともわからない。

 ロルフが言った『幸せになってもいい』。

 リディアが死んで、どうやって幸せになればいいかわからない。

 でもやっと、誰かの言うことではなく、自分の心が動くに従って生きたいと思った。


 おそらくは、どう生きようとも、いつかは彼らに捕まって殺されるのだろう。

 けれど、いつかその時が来るまで、心に動かされるまま生きようと思った。

 感情を持って生きる。それは、彼女の願いでもあるのだから。















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