解決編
僕は警察が事故死と結論づけたのを新聞で知った。
「ご覧なさい。先生が解決しなかったから、警察はこんなことを言っていますよ」
彼はちらりと記事の題字を斜め読みすると、頷いた。
「それで正解だ。弥太郎の死は事故なんだよ。そこには謎もトリックもない」
「そんな莫迦な。凍死というならわかります。または手首を切った自殺という説もあるかもしれない。でも、なんで刺し傷で死んだ遺体が事故死なんですか」
「
訝しむ僕を、彼は目で制した。
「黙って聞け。江戸時代、承応三年のことだ。江戸市中に飲料水を供給すべく施工された玉川上水に、助水として狭山池が繋げられることになった。残堀川を通してな。現在の残堀川は狭山池と多摩川を繋ぐものとなっているが、それは水質悪化を防ぐべく明治期に新たに施工された結果だ。元の残堀川は、狭山池と玉川上水を繋ぐものだったわけだ。
「その際に、元々は広大な池だった狭山池から水が玉川上水に流入し、池の水位は大きく下がることになったわけだ。わかるか?
「大蛇を
突然の講義に、僕は思わず面食らった。
「そ、それは……わかりましたけど、それが今回の事件と何の関係があるんですか」
「言っただろうが。符合だと」
彼は呆れたように僕を一瞥する。
「まず川がある。川によって下がった水位がある。その因果として仮想の犯人――次右衛門が存在するわけだ。この仕組みはそのまま、お前の頭の中にだけいる殺人犯にも適用されるんだよ」
頭の中の殺人犯?
たしかにそうだ。名探偵たる彼がいることで、僕は無自覚にこの事件のことを奇妙な怪奇殺人であるという前提をもって見ていたことに気づいた。
「あの倉庫は雑多に箱が積み上げられていた。昼頃に与彦が見回りをしたとき、作業をしていた弥太郎を見逃してしまったんだろう。そして外から
「与彦が働く屋台は倉庫から距離があった。扉も頑丈なもので、他に出口もない。声を張り上げても外にいる与彦には助けが届かなかった。
「唯一の外に通じる場所――それは扉の下のわずかな隙間だけだった。凍死が迫り、正常な判断力を失いつつあった弥太郎は――そこで一つの賭けに出たんだ。
「凍結魚の凍ったヒレを刃物として、弥太郎は左手首に傷をつけた。そしてその血液を川のようにして扉の下に流すことでSOSのサインとしたんだ。転がっていた凍結魚が溶けかけていたのは、握りしめたときに体温が移ったからさ。
「氷を取りに行った与彦が異常に気づいたのは、扉の下を流れる血がきっかけだったのは知っての通り。だが――結果として弥太郎は賭けに負けたわけだ」
「それじゃ、解決を公表しなかったのは」
「あのような奇妙な死に様でなく、それこそ凍死でもしていたら――与彦の不手際による死だとすぐに露見していただろうな。どのみちいずれは事故とわかるだろうから、私が手を
「――ともあれだ。なにかあれば怪奇だの殺人だのと、お前は乱歩に毒されすぎているんだよ」
――彼はそう結んだ。
いまだ戦前の東京府・府中町、ある晩秋の日のことであった。
武蔵野探偵奇譚 ~犯人の名は蛇喰い次右衛門~ 秋野てくと @Arcright101
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