武蔵野探偵奇譚 ~犯人の名は蛇喰い次右衛門~

秋野てくと

出題編

 昭和七年、盛夏。


 死人のように着物を左前ひだりまえに着こなしながら。

 さも、これで当然でございという顔をするバチアタリがいる。


 傍らの男に注がれる奇異の視線に耐えて鉄道に乗り込む。僕は民俗学者を名乗る男――左前光蔵サマエコウゾウと共に、箱根ヶ崎村に向かっていた。

 この男、豪放磊落ごうほうらいらくにして勝手気儘かってきまま奇妙奇天烈きみょうきてれつにして放辟邪侈ほうへきじゃしで知られている。昨日のこと、彼は突如として我が家を訪ねるなり「明日の七時に府中駅」と言いつけて出ていった。僕なりに解釈すれば、これは「次の本のネタを見つけた。現地調査に向かうので、荷物持ちと筆記を頼む」という意味である。ふざけている。

 ふざけているのか、と返せば当然のような顔をして「ふざけているとも。でなければどうして、こんなおかしな世の中を生きていけるものか」と返す男なので、立て板に水、暖簾のれんに腕押し、すなわち下手な説得は休むに似たりということになる。


 そういうわけで今朝の七時。僕は彼と共に府中駅を発った。

 京王電気軌道の電鉄に乗り、八王子駅で降車。昨年の末に敷設されたばかりの八高南線で箱根ヶ崎駅に向かう。久方ぶりの蒸気機関車に揺られるあいだ、僕は今回の調査について説明を受けた。


 目的地の名は狭山池。サヤマノイケ、といえば古事記にも登場する垂仁天皇の子が作った溜め池の名ではないか。僕がそう指摘すると、彼は「阿呆が」と吐き捨てた。彼によると、記紀にあるところの狭山池とは華の関西・大大阪だいおおさかは河内にある史跡らしい。つまり、池違いというわけだ。ではなぜ箱根ヶ崎へ向かうのか。

 その答えはといえば、それはじゃっ喰い次右衛門にあったのである。


 昔々、まだその池がはこの池と呼ばれていた頃。

 池は今よりもずっと大きかったという。ある日、百姓の次右衛門が水浴びをしていたところ、小さな蛇に締めつけられた。たまらず次右衛門が蛇に噛みついたところ、蛇はたちまち大蛇となった。大蛇の傷口からは血が七日七晩流れて蛇堀川じゃぼりがわとなり、その流れを通して池の水位は大きく下がったらしい。

 更にはこの伝承にある蛇堀川じゃぼりがわ転訛てんかして、狭山池と多摩川を繋ぐ残堀川ざんぼりがわになったのではないか、ともいう。聞いてみれば面白そうな話である。


 彼は民俗学者を自称するものの、未だ一冊たりとも本を出せていない。いかにして生計を立てているものか、勤め人である僕には測り知れないが――目下のところ、彼の才能が民俗学ではなく探偵学にあることは明らかなのだ。


 結論から言うと、箱根ヶ崎村における調査は芳しい結果とはならなかった。


 着物を左前ひだりまえに着る――死者の作法をしてはばらないことに始まる左前光蔵の奇行は村民を辟易へきえきとさせたし、何より杉本何某なにがしなる地元の郷土誌家によると、次右衛門の伝承については来歴がわかっているらしい。

 本を書けないことを悟ると彼は筆記を止めさせた。その後も彼は来歴について傾聴していたが、僕の興味は民俗学より実のところ彼自身にあったので、その後は話半分で聞き流すことにしたのである。


 その後、駅を目指す帰路のこと。

 畑と畑の境を示す畦畔けいはんに植えられた草畑の脇を歩み、彼がこれは狭山の茶畑だと言った。赤く染まり始めた陽の照り返しを浴び、首筋を垂れる汗を自覚した頃、朱で染められた『氷』の一字がきらりと僕の目に入ってきた。


「かき氷だ。この暑さではだれてしまいますよ。一杯いただきましょう」

「私は甘物あまものは好かん」

「先生じゃありません、僕が食べるんですよ」


 すみませえん、と屋台の青年に声をかける。銭を支払うと青年は氷削機を起動したが、聞き苦しい音を響かせるばかりで、一向に氷が器に落ちることがない。どうも氷を切らしているとのことで、青年は屋台から離れた倉庫に向かった。茶畑を越えて、倉庫に走る青年を目で追いながら、彼は声色に含みをもたせて言った。


「冷蔵倉庫か。珍しいな」


 いやな予感がした。彼がこうなるときは、決まって事件が起きる凶兆なのだ。すぐさま、倉庫の方角から青年の悲鳴がとどろいた――


 亡くなっていたのは弥太郎という青年だった。

 遺体の発見者である屋台の青年――与彦と同年代の若者である。

 与彦と弥太郎の二人は、凍結魚流通の中継である倉庫の作業員だった。夏場はかき氷の屋台も出しているらしい。今日の倉庫当番は弥太郎だったが、与彦が昼に見回りをしたときには倉庫に姿がなかった。与彦はそのまま氷を持ち出し、倉庫を閉めて屋台を開いた。

 そして夕刻、追加の氷を取りに行ったとき、与彦は恐ろしいものを目にした。閉められた倉庫の扉の下、わずかに浮いた隙間から血が川のように流れていたのだ。扉を開けると、そこによりかかるようにして弥太郎が死んでいた。出血は左手の手首から流れていた。近くには溶けかかった凍結魚が一尾だけ転がっていた。悲鳴を聞いて駆けつけた僕がたどり着いたときには、冷え冷えとした冷蔵倉庫の中でも遺体はわずかにぬくもりを保っており、死んで間もないことは明らかだった。

 倉庫の扉は分厚い頑丈なもので、外側からかんぬきをかけて施錠するようだった。出入口は一つだけ。倉庫の中は箱が乱雑に積みあがっており、人が隠れるのは容易だが、調べたかぎりでは隠れていた人物はいなかった。倉庫の周辺は一面が茶畑で区切られた平野となっており、もし抜け出した人物がいれば屋台からも一目瞭然のはずだ。

 また、左手の傷口が粗いことも気になる。まともな刃物であればこんな傷口にはならないだろう……。


 動揺する与彦をなだめて駐在を呼ぶことにした。到着した駐在は僕たちをじろりと見つめる。この一帯の警官からは、左前光蔵はちょっとした有名人なのだ。ところがその彼はというと、どうにも精彩を欠く。駐在の質問に通り一遍に答えるだけで何もする気配がない。最初は気負いを感じられた駐在も、なにやら毒気を抜かれた様子だ。

 日が落ちてしばらくして、僕たちは連絡先を残して交番を後にした。

 

「どうしたんですか。先生ならとっくに犯人の目星が立っているんでしょう」

「まあな」

「なぜ解決しないんです」

「する義理もない。それに、どうにも腹が立つ。……今日のと妙に符合するあたりが特に、な」


「せいぜい警察に仕事をしてもらえばいい。そのために安くもない血税を払っているんだ、私が解決してしまえばせっかくの税金の無駄遣いというものだ」


 尚も食い下がる僕に、彼は不可解な言葉を残した。


「この事件の犯人は、じゃっ喰い次右衛門なんだよ」

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