After the rain
森山 満穂
After the rain
夜の内に降り続いていた雨は、目覚めるとすっかり止んでいた。ベランダから見上げた空は少し青みが強いセレストブルー。快晴というにはまだ雲が散り散りに残っていて、そこから覗く穏やかだけれど静かな色は、わずかに雨の余韻を感じさせた。濡れた街並みは空の色を映すように影を青く滲ませて、ビルの隙間から生まれ出づる太陽の光芒が雨粒に反射する。やわらかな色が一つ一つの雨滴の輪郭をなぞり、深呼吸をするようにゆっくりと頂点で光を灯した。純粋な光に包まれたそこは、まるで神聖な場所のように清く、美しく見えた。ふいに澄みきった風が肌を撫で、鼻孔が匂い立つ濡れた緑の香りでいっぱいになる。
その清かな匂いに誘われるように、私は眼下に目を向けた。街路樹や軒下に咲く紫陽花が露を湛えて、いきいきとその身を輝かせている。アスファルトには大きな水溜まりが出来ていて、世界を鏡のように映し出していた。その隙間を縫って足早に歩いていく人影がここからでもちらほらと見える。学生らしき若者、スーツを着た男性。スニーカーがひょいひょいっと軽快に飛び越え、よく磨かれた革靴が、水溜まりに映った空の間を颯爽と駆けていく。爪先が水面に触れて、小さな飛沫が光を含んで跳ね上がる。その時。水溜まりの色が一瞬だけ、オレンジ色に染まった。その色はほんとうに一瞬だけ色づいて、すぐに元のくすんだ青に戻る。記憶の奥底にぽとりと浮かび上がった波紋が、懐かしい思い出を呼び起こす。
雨は神様の涙だと、教えてくれた人がいた。地上の人々の悲しみを一手に引き受けて、神様は代わりに泣いてくれているのだと。その優しい声色と、強く結ばれた両手が脳裏に蘇って、しとしとと思考を過去へ
* * *
小学二年生の時、私はマンションの隣の部屋に住んでいるお兄さんに面倒をみてもらうことが多かった。母子家庭だった私の家は母が夜に仕事をしていて留守にすることがほとんどだった。そんな時はいつも、私はお兄さんの家に預けられた。その部屋に越してきた時からお兄さんとはご近所さんとして仲が良く、よく夕飯のお裾分けをしたりする親しい仲だった。なので日頃のお返しも兼ねてと、彼も私の世話を快く引き受けてくれていたのだ。
お兄さんと過ごす時間は、とても穏やかで心地がよかった。お兄さんが作ってくれたご飯を一つのテーブルで向かい合って食べ、食べ終わったらお茶を飲みながら少しだけおしゃべりして、そのあとに二人並んで私はお絵描きを、お兄さんは真剣な眼差しでノートパソコンに向かっていた。私の色鉛筆がスケッチブックを滑る音と、お兄さんが軽快にキーボードを叩く音。それらが静かな部屋の中にしとしとと降り注ぐ。二つのリズムが重なったり、離れて自由に飛び回ったりして自然と細やかなセッションが生まれた。お互いに干渉することはないけれど、小さなところで重なり合う。何もなくていい。ただ隣に寄り添ってくれていることがわかるだけで、私はこそばゆいけれど、とても幸せな気持ちになった。作業が一段落したらお風呂に入り、火照った身体を冷ますついでにテレビを観て、眠くなったら布団に入る。そんな普通の家族が送るような普通の生活が、私は好きだった。ちゃんと生活している感じがしたし、なにより寂しくない。冷蔵庫にあった出来合いのおかずやコンビニ弁当を温めて一人きりで食す日々を送っていた頃は、いつも胸のあたりに冷たい風が吹くのを感じていた。お母さんが私のために働いてくれていることはわかっている。けれど、寂しいものは寂しいのだ。一度温かさを知ってしまったら、もう抜け出せなかった。
次の日の朝は、一度誰もいない家に戻って支度をしてから学校に行き、帰ってきて母の置き手紙を読んで荷物を置いてから、またお兄さんの部屋にお邪魔する。それが日課だったけれどいつの日か、私は帰ってきて直接お兄さんの部屋にお邪魔するようになっていた。母が帰ってきていたとしても、ご飯はやっぱりコンビニ弁当、話しかけても帰ってくるのは適当な相槌、口を開けば勉強しなさいと小言ばかり。きっと冷たい時間が待っているだけ。お兄さんとの時間の方がよっぽど待ち遠しかった。嘘の理由をつけて毎日毎日足しげく訪れる私を、お兄さんは何も言わずに温かく迎えてくれた。お兄さんは大丈夫。いつだって優しい笑顔でそばに寄り添ってくれる。そうして一か月が経ったある日のことだった。
それは学校からの帰り、突然の夕立でひどく雨が降っていた日のことだった。幸い私は置き傘をしていて頭からびしょ濡れになることは
一瞬、目の前が透明の膜で覆われ、落下する中で次第に世界が色づいていく。夕焼けのオレンジが視界に飽和する。膜が取り払われ、視界が開けた瞬間。オレンジはいっそう鮮やかに私の目に飛び込んできた。建物もアスファルトも、夕陽に注がれてあたたかな色に染まっている。雲一つない空。そこからはらはらと、雨粒が橙色を孕んで灯火のように降ってくる。地面にたどり着くとそれは、線香花火のように跳ね散って跡形もなく水溜まりの一部になった。
その只中、私の目の前で雨に打たれている人がいた。両手を広げて空を仰ぎ見る姿は、背景の鮮やかなオレンジと相まって絵画のように神秘的に見える。湿った髪は首筋に張り付き、白いワイシャツからはところどころ肌が透けていた。その背格好にどこか既視感を覚えると、数分遅れてこの人はお兄さんだと、はたと気付いた。さっき傘ごとぶつかったにも関わらず、お兄さんはこちらを振り向きもせず、じっと雨の中に立ち尽くしていた。雨音の隙間に聞こえる呼吸は陶酔しているように深く、肩が密やかに上下する。だんだんとその音は雨と歩調を合わせて、紛れていく。私はふいに、お兄さんはこのまま雨に溶けていなくなってしまうんじゃないかという不安に襲われた。追い打ちをかけるように、大きな粒がたたた、と傘に落ちて不安を煽る。いてもたってもいられず、私はお兄さんを呼んだ。
「お兄さん?」
私の声に、やっぱりお兄さんは微動だにしなかった。そうしている間にも、雨粒はお兄さんを濡らし、存在を薄めていく。もはやお兄さんの存在を示してくれるのは、身体に当たる雨の飛沫だけだった。
「なにしてるの? 風邪ひいちゃうよ。わたしの傘いれてあげるから」
めいっぱい背伸びをして傘を差しかけようとするけれども届くはずもなく、揺れる傘の露先からとめどなく水が零れ落ちる。その水が、お兄さんのズボンにびしゃりと掛かる。それでも彼は何の反応も示さず、ただ雨に打たれていた。あれだけ近くに感じていたのに、今のお兄さんはとても遠いところにいってしまったようでますます不安になる。困り果ててその背中を見上げるだけになっていると、ぽつり、とお兄さんのつぶやきが零れ落ちる。
雨は、
「雨は、神様の涙なんだ」
その言葉が耳に届いた瞬間。降り落ちるいくつもの雨滴が宙できらめいて、止まる。一瞬一瞬に光が騒めいて、夕陽の世界にゆっくりと移ろいでいく。
「たくさん悲しんでいる人がいるところでは雨が降る。それはその人たちの悲しみを神様が引き受けて、代わりに泣いてくれているからなんだよ」
ぽとり、ぽとり、と傘の生地に滴が落ちて、つぅっとふくらみに沿って伝う。それはまるで、お兄さんの言っていることは本当だと示してくれているかのように、頬を伝う涙を連想させた。
「だから傘を差して拒むんじゃなくて、こうして受け止めることで神様に感謝を示してるんだ」
お兄さんの声色は、ぼんやりと夢見心地な響きから柔らかいけれど芯を持った、いつもの優しい響きに戻りつつあった。もう一度、お兄さんを見る。空を見上げて両手を広げている姿は、祈りを捧げているように見えなくもない。同じようにしてみようと傘を閉じかけた時、お兄さんの手のひらが静かに傘の表面に触れた。
「違うよ」
やさしいけれどつめたい、言葉の質量が傘越しに伝わる。途端、ふっと圧が消えて、指の長いお兄さんの手形だけが残った。言葉の意図がわからずにそれをぼうっと眺めているうちに、お兄さんの顔が傘の端から現れる。そして、目線を合わせて私の前にしゃがみこんだ。
「ういちゃんがしなきゃいけないこと、これじゃないよ」
いつものような優しい調子でお兄さんは言う。私が、しなきゃいけないこと。心の中で咀嚼して、でも意味がわからずきょとんとしていると、お兄さんは膝の上に乗せた腕を組み直して微笑んだままつぶやいた。
「ういちゃんが神様のためにしなきゃいけないことは、ちゃんとお家に帰ること」
言われてはっとする。私がわざと家に帰っていないこと、バレてたんだ。見つめるお兄さんの瞳が、悲しみの色に滲んでいるのがわかった。いくつもの筋が、下がった目尻から頬へ流れ落ちる。その透明な軌跡に傘の色が映り込んで、水色が淡く広がって消える。泣いているみたいな表情に、真正面からお兄さんの顔を見ていられずに俯いた。すると、空いている方の手をつめたい両手で包まれる。ういちゃん、静かな声色で名前を呼ばれる。
「さびしいんだよね。ひとりぼっちで、かなしいんだよね」
ぽとり、ぽとり、とつめたい手から滴がこぼれ落ちるのと一緒に、言葉もこぼれ落ちる。あたたかなそれは心の中に染み込んで、じわりと視界が滲む。
「ういちゃんと同じように、お母さんもきっとさびしいんだ。ういちゃんと一緒にいたくてもいられなくて。だから、二人のさびしい気持ちが雨を降らせたんだよ」
やわらかに手をほどくと、お兄さんは両手で小さなお椀をつくった。そこに一粒、また一粒と滴が落ちて、雨水が溜まっていく。やがてできた小さな湖がお兄さんの手の中で揺らめいた。だが、その水は指の端から溢れ出て、隙間からも漏れ落ちていく。
「ういちゃんもお母さんも、こうやって言えずに溜めてたかなしみが溢れ出ちゃったんだ」
滔々と流れる雨水を眺めながら、私は寂しいと思いながらも結局、それを示すことをしていなかったのだと気付いた。「けれど」お兄さんが言う。顔を上げると、お兄さんも自分の手もとを見つめていた。小さなお椀をつくっていた両手が組まれて、水が地面に落ちる。濡れた手のひらが密着して、強く握られる。「こうすれば、さびしくない」きゅうと握られた手にまとわりついた滴が、あたたかな光に包まれて夕焼けのぬくもりを連れてくる。
「ういちゃんがちゃんと、さびしくてしかたないんだよって、自分の気持ちを伝えたら、お母さんもきっと本当の気持ちを教えてくれる。ういちゃんがさびしくないように、そばにいてくれるよ」
そばにいる。私はお兄さんの結ばれた両手を見ながら、母に抱き締められた時のぬくもりを思い出していた。私はずっと、ういのそばにいるからね。そう言って母はただ私を抱き締めた。ぎゅっと触れ合うからだがあたたかくなって、心まで満たされる。離さないとでもいうように強く回された腕。固く結ばれた右手と左手。まるであの時の私とお母さんみたい。
気付けば、おもむろにお兄さんの右手に手を伸ばしていた。すると、お兄さんは強く結んだ手をほどいて、私の手を迎え入れてくれる。右手に握られ、そして左手が包み込む。そのつめたい手は触れられたところからぬくもりを分けるようにあたたかくなっていく。そうだ。私はお母さんにこうしてあげればいいんだ。ずっと、こうしたかったんだ。
「お家に帰ろう」
ね? 少しだけ首を傾げて、お兄さんは優しい眼差しを向けて言う。静かに雨に打たれながら、私の返事を待ってくれている。ぬくもりからも言葉からももたらされるやわらかさとあたたかさが、気持ちを後押ししてくれる。帰ろう。帰ってお母さんにちゃんと気持ちを伝えるんだ。私は上目遣いにお兄さんを見て、こくりと頷いた。お兄さんも優しい表情を浮かべて、こくりと頷き返してくれる。よし、行こうか、と私の右手だけを握り直してから、お兄さんは腰をあげる。傘の向こうに顔が消えかけて、私は思わず、あ、と小さく声を上げた。お兄さんはそれに気付いて、また目線を合わせてくれる。
「ん? どうしたの?」
「……一緒に入ろ。お兄さん、風邪ひいちゃうよ」
お兄さんの上にそっと傘を差し出す。とたとたと、頭上で雨音が歩く。すると、お兄さんは微笑みを深くしてもう一度、両手で私の手を包み込んだ。
「ありがとう。ういちゃんはやさしいね」
でも大丈夫。言葉とともに、お兄さんは静かに傘の外に出た。
「もうすぐ止むよ」
そう言って、背後を振り仰ぐ。つられて視界の端に傘を退けると、オレンジ色の空に舞い散る雨粒が、ひとつ、ふたつと音もなく去っていく。ひとつ、またひとつと、その小さなきらめきと引き換えに、空は本来の穏やかな明るさを取り戻していく。ひとつ、ふたつ、ふたつ、ひとつ。雨の気配は次々と立ち去っていき、泣き疲れた空をなだめるように、夕焼けの色が優しく世界を照らし出す。その美しい光景に見惚れていると、ふいにお兄さんがこちらを振り向いた。
ほらね。濡れた毛先から滴が跳ねて、夕陽に溶けるように散っていく。微笑むお兄さんの目がさらに細くなって、わずかに見える瞳に
それから夕陽の色を纏った彼は私の手から傘を受け取って閉じ、今度こそ、帰ろう、と私の右手を取って立ち上がる。すると、雨水を含みすぎてくたびれた革靴がびゅっと奇妙な音を立てた。その音にびっくりして顔を見合わせると、二人して声を上げて笑った。笑いながら、私たちは夕陽が彩る水溜りのきらめきを通り抜けて、家路へ歩き出した。
その後、私はちゃんと家に帰り、お兄さんの言ったとおりに事は進んだ。母は夜の仕事を辞めて、昼に働ける仕事に変え、私との時間を大切にしてくれるようになった。普通の暮らしが母と過ごせるようになって、私は完全に浮かれていた。だからその数日後、お兄さんが仕事の関係で静岡県の山奥の村に行くのでしばらく留守にすると言って出かけて行った時、私は見送りもしなかった。
お兄さんのことを忘れて楽しく日々を過ごし、一か月が経った頃。静岡県の山奥で起こった土砂崩れで何人もの人が亡くなったというニュースが流れた。多くの人がその土石流に巻き込まれて、身元不明の遺体もあるらしかった。お兄さんが行った山奥の村がそこだとは限らない。けれどそのニュースに、私は胸騒ぎを感じずにはいられなかった。でも私にはお兄さんの無事を知る術など持っていなかった。お兄さんが生きているのか、死んでしまったのか、今でも知らない。けれどあの日以来、お兄さんの姿を見ることはなかった。隣の部屋からはいつの間にかお兄さんの名前がついた表札が消えていて、新しい住人の名前に差し替えられていた。
あの日の夕立のように、お兄さんは温かい記憶だけを残して、私の人生から立ち去ってしまった。
* * *
マンションを出て、まだらに道路を占める水溜まりの隙間を歩く。ベランダから見るよりも水面に映る景色はくすんだ色をしていて、建物は歪な線を描きながら揺れていた。ふと、一番大きな水溜まりの脇で立ち止まる。しゃがんで覗き込んだ水面は、灰色、ブルーグレー、黒。静かな色合いが不安定にたゆたっていて、その中ではいまにも雨が降りそうな予感がした。
『雨は、神様の涙なんだ』
脳裏にあの日のお兄さんの言葉が蘇る。ぽつりと落とされた一滴のような声から、記憶の断片が滲む。雨は神様の涙だから、水溜まりは悲しげな色しか映さないのだろうか。空とビルとのあわいが溶けて、黒ずんだり、不明瞭な色になる。居並ぶ風景はどれも、泣きそうに震えていた。
あれから、二十年が経った。私は中学も高校も大学も家から通学できるところに通って、就職先も地元の企業に決めて、いまだに実家に身を置いている。その理由を、通学が楽だからとか、安定した企業だからとか、もっともらしい理由をつけて今まで生きてきた。けれど、心のどこかでは違うような気がして、でもそれが何なのかわからなくて、わからないまま、こうして今もここにいる。
ため息をつくと、循環して立ち上ってきた雨の残り香が鼻をくすぐる。夕陽を纏った彼の姿が、私の中にぽつぽつと立ち現れては、その色だけを残して静かに去っていく。とっくに忘れてもいい記憶なのに、彼は私の奥底にまだ生き続けていた。私はほんとうは、お兄さんが帰ってくるのを待っているのだろうか。だから、ここを離れられないのだろうか。お兄さんの残像が消えてしまうのが無性にさびしい。
だめだ。お兄さんがあんなことを言って消えるから、雨の気配はどうしても私を感傷的にさせる。ふいに、足元の水溜まりがひとつ、ふたつ、みっつと波紋を描いた。見えない涙が落ちるように、くすんだ青空がさめざめと揺れる。水面に映った私の顔は、哀しげに歪んで見えた。波紋がちょうど、頬のところに生み出て、なかなか消えてくれない。ほんとうに、泣いているみたいだ。じわりと目頭が熱くなる。情けない顔の自分を見たくなくて、腕の中に顔を埋めようとしたその時。私の右隣の水面に、黒い人影が映った。その人の詳細は波紋に歪んでわからず、下を向いたまま自然に視線を横にずらす。靴の先に、目が行く。水を含みすぎてくたびれた、見覚えのある革靴。少し身動きして、びゅっ、と小さく音が鳴る。その音に思わず目を見開くと、水溜まりに光が駆けてきて、太陽がその中に生まれた。
瞳に、光が灯る。オレンジ色が弾ける。
跳ねるように視線を上げると、空には虹がかかっていた。
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