第113話 惨劇(ハク)


 ハクは建物屋上から、昆虫の巣が爆撃によって徹底的に破壊される様子を眺めた。衝撃波と熱気がやってきて白い体毛を揺らしたが、ハクはパッチリした大きな眼で爆発の炎と一緒に立ち昇る黒煙を見つめていた。やがて昆虫の殲滅が確認できると、〈人造人間〉たちは静けさを取り戻した廃墟の街に消えていった。


 日が傾いて灰色の雲に覆われていた空が暗くなると、〈傍観者ぼうかんしゃ〉と呼ばれていた奇妙な種族も動かなくなり、まるで植物のように景色に同化してしまう。ハクは廃墟の街に吹く風のなかに雨の匂いを感じ取ると、探索を切り上げて拠点に帰ることに決めた。


 ほどなくして通りは完全な暗闇に支配され、廃墟に潜んでいた変異体が獲物を探すため通りに出てくるのが見えた。それは倫理観の欠如した略奪者たちが、奴隷に産ませた子どもを廃墟の通りに放置して、周辺一帯を徘徊している〈腐肉喰らい〉の餌にする時間帯でもあった。


 けれど幼い〈深淵の娘〉が、その暗闇を恐れることはなかった。まるで身体からだの一部のように、夜の闇は優しく彼女を包み込んでいく。昆虫の鳴き声すら聞こえてこない静寂しじまのなか――その奇妙な空白がつくりだす異様な空気感も、彼女を怯えさせることはできなかった。


 死人のような青白い肌を返り血で染める人擬きが、ひたひたと歩いているのが見えた。女性の面影が微かに残る化け物は、無残に破壊された人間の下半身を引きって歩いている。どこかで人間を襲い、そこで処理しきれなかった肉を、本能の赴くままに蓄えとして確保したのかもしれない。


 小さな肉食昆虫が地面に残された肉片を目当てに集まっているかと思えば、死骸を引き摺っていた人擬きに襲いかかる生物の姿も確認できた。


 動物園で飼育されていた動物を起源とする生物なのかもしれない。水没していた地下鉄駅の出入口から姿を見せたカバにも似た異様な生物は、頭部を傾けながら人擬きに突進すると、口を大きく開いて一気にみついた。


 ぼんやりと歩いていた人擬きは抵抗することもできずに、あっという間に身体をバラバラに破壊され、そして生きたままわれた。自動車よりも大きな身体を持つ生物が、ぐちゃぐちゃと咀嚼音を立てながら哀れな人擬きを食べる姿は迫力があったが、建物の外壁に張り付いて移動するハクの脅威にはならないだろう。


 野生動物の営みを興味深そうに観察したあと、ハクは移動を再開する。背後で異形の獣たちが荒々しい唸り声をあげながら死骸を奪い合う音が聞こえてきたが、もう振り返ることはなかった。


 予想に反して雨は降り出していなかったが、そのときが近づいていることは分かっていた。びしょ濡れになるまえに拠点に帰らなければいけない。それは固い決意に思われたが、深い闇のなかで銃声が轟いて、マズルフラッシュのまたたきが見えた瞬間には忘れられてしまう。


 十字路に面した廃墟のなかで戦闘が行われているのか、銃声の合間に人間の叫び声と悲鳴が聞こえ、廃墟からは鉄と血の臭いが漂ってきていた。


 建物の崩落していた壁から光が漏れ、銃弾がすぐ近くに飛んできては、建物の外壁に直撃して音を立てる。ハクは射線上から移動すると、廃墟の屋上に向かって飛び降りる。


 完全に崩落していた屋根から建物内に侵入すると、咽返むせかえるような血の臭いと刺激臭に襲われる。頼りない照明装置によって浮かび上がる薄暗い部屋は、誰かが流した血液で赤く染まっていて、床には血溜まりができていた。


 真っ赤な血液を踏まないように注意しながら廊下に出るころには、騒がしい銃声は聞こえなくなっていたが、代わりに幼い子どもの泣き声が聞こえるようになっていた。どこか、暗い井戸の底から聞こえてくるような音は、けれどパタリと聞こえなくなってしまう。


 泣き声は廊下の壁に反響して、しばらく尾を引いたが、それは錯覚だったのかもしれない。


 そろそろと廊下を移動すると、死骸のそばに屈み込む人擬きの後ろ姿が見えた。皮膚がたるみ、背中にできた腫瘍しゅようからは気色悪い粘液が流れ出している。その化け物はハクの接近に気がついていなかったが、探索の邪魔になるような生物を放っておくわけにはいかなかった。


 ペッと糸の塊を吐き出すと、それは人擬きの後頭部に命中する。すぐに蒸気を立てながら頭部が陥没してジュクジュクと溶けていき、化け物は獲物に覆い被さるようにして倒れ込む。


 その醜い身体の隙間から見えたのは、内臓を喰われた大型犬だった。人間と一緒に生活していたのかもしれない。飢えた人擬きは犬にすら容赦なく襲いかかっていた。


 ふと気配を感じてトコトコと身体の向きを変えると、廊下の先に立っている子どもの影が見えた。じっと立ち尽くす黒いシルエットはハクのことを見つめたあと、廊下の突き当りに消えていった。


 冷たい空気がハクの体毛を撫でる。影のように静かに動く存在は、あるいはこの世のモノではないのかもしれない。ハクは逆立てた体毛を震わせたあと、長い脚をそろりと動かして廊下の先に進む。


 荒々しい咀嚼音が聞こえる。一心不乱に獲物に咬みつく音だ。壁を使って天井に逆さになりながら移動を続ける。影のなかに入ってしまえば、ハクの存在を認識できるモノは存在しない。たとえ身体中に無数の瞳を持つ化け物でさえも。


 そのおぞましい化け物の近くに影が立っている。先ほどの子どもの影だ。ハクが近づくと、その影は、またもや暗闇に向かって駆けていく。なにかを探しているのかもしれない。


 ハクは幼い子ども特有の鋭い直感で状況を把握してみせた。この建物で惨劇が起きた。そしてその衝撃から立ち直っていない存在が暗闇を彷徨さまよっているのだ。


 人擬きの群¥れに破壊されたバリケードを見ながら廊下を進む。人間の反撃によって行動不能にさせられた人擬きの呻き声や、叫びを聞きながらハクは進み続けた。


『どうしてこんなことをするの?』

 不意に幼い男の子の声が聞こえる。暗がりにひとりうずくまり、不安に押し潰されている子どもの震える声だ。


 廊下の先に女性の死骸が横たわっているのが見えた。彼女の腹部は大きく裂けていて、ご馳走にありつこうと二体の人擬きが我先にと争うように彼女の内臓を貪っている。


『どうしてこんなことをするの?』

 また子どもの声が聞こえる。


 どうして動物は食べ物をほしがるのだろうか。ハクは死体のそばに立ち尽くす影を見ながら考えた。生命を維持するため栄養素を体内に取り入れる必要があるとか、常に新陳代謝をする必要があるとか、そういう難しいことは分からなかったが、それが動物の本能的な作用だということは分かっていた。


 だから思った。それがその化け物の習性なのだと。呼吸をするように、人擬きは生物を襲わなければいけないのだ。そうしなければ、いずれ植物のように動けなくなってしまう。


 子どもの影はハッと顔をあげると、暗闇に潜むハクから逃げるようにして駆けていった。


 ハクはカサカサと腹部を振ると、小指から突き出た細い骨で女性の眼球をくり抜こうとしていた人擬きの頭上を通って、子どもの影を追いかけて部屋に入ろうとした。


 しかしどういうわけか、扉は固く閉ざされていて開かない。木製の扉だったので、そのまま破壊しても良かったのだが、子どもを驚かせたくなかったので別の入り口を探すことにした。


 しばらくして窓から侵入する方法を思いつくと、ハクは惨劇の場になった廃墟を出て、建物の外壁を移動して部屋に侵入した。


 すると暗がりに佇む子どもの姿が見えた。けれどそれは黒いシルエットではなく、実体を持った子どもだった。左右にゆっくり身体を揺らす子どもの腕からは、血液が滴り落ちている。怪我をしたのかもしれない。


 声を掛けようとして近づくと、その子どもが人擬きと同じ気配をまとっていることに気がつく。ハクは身動きせずに、これからどうするか考えた。


 建物内に遠雷のような低い音が響いてくると、ハクはいそいそと外に出ていった。

 あの廃墟には生物を見境なく襲う化け物しかいない。ハクの興味を引くモノはもう存在しなかった。

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