第3話

 翌朝の食堂に、二人はいた。

 笑みは絶やさないが、アンジーを眺める二人の視線は冷ややかだ。アンジーを警戒し、見張るために席についたような雰囲気だった。

 トレイに食事を載せた執事が、食堂を出ていく。その機会を見逃さず、アンジーは言った。

「これを食べたら、帰ります。お世話になりました」

 アンジーはなるべく平静を装い、嘘をつく。ジィランがアンジーを横目で見た。

「彼の絵はもうできたのですか? こんなに早く?」

「いいえ。けれど、やはり耐えられなくなりました。お金のために残りましたが、報酬も欲しくない気分です」

 小刻みに震える指先を隠しながら、アンジーはパンをちぎって口に運ぶ。

「仲良くやっていたようだったのに?」

 柔和な表情とはうらはらに、ゲイルの眼差しは獲物を狙う獣のように鋭い。アンジーはやっとの思いで顔をあげ、ゲイルを直視した。

「昨日は、無礼をしました」

 頬杖をついたゲイルの眼差しから、目をそらしてはいけない。目をそらしたら、嘘が伝わってしまうかもしれない。だから、アンジーは必死に我慢して微笑んだ。

「いろいろあって、混乱してしまったのです。素敵な殿方に優しく声をかけられた経験が、わたしにはあまりなかったので……」

娘のはじらいと受け取ったのか、ゲイルはどこか満足そうに唇を弓なりにさせる。

「……まあ、帰ると言うなら賢明な選択ですよ」

「よければ、僕たちが送りましょう」

 ジィランとゲイルの視線が、意味深に絡み合う。長い沈黙が続いた後、戻ってきた執事が紅茶の準備をはじめた。

 テーブルにカップを置き、紅茶をそそぐ。さすが執事だとアンジーは思う。もしも自分だったなら、手が震えてこぼしてしまうだろう。

 二人はなかなかカップを持たなかった。アンジーは意を決し、カップを口に運ぶ。それをみとめてから、先にゲイルが紅茶を飲んだ。

 安心したのか、ジィランも飲む。そんな二人の姿を、執事は静かに見つめていた。

 だが、なにも起こらなかった。

 やがて二人は、最後まで紅茶を飲み干した。アンジーは執事を盗み見る。執事は落胆したかのように、視線を足元に落としていた。

「バルト。馬車を用意してくれ」

 ジィランが言う。返事をした執事が、食堂をでようとしたときだ。

 椅子から腰をあげたジィランが、テーブルに手をついて動かなくなる。その手がみるみるうちに、骨と皮と化していく。うめき声もあげないまま、ジィランの頬が痩けていった。

 眼鏡がずり落ち、テーブルに転がる。その様子に息が止まり、身動きのとれないでいるアンジーを見下ろすと、不気味な笑みを浮かべたまま床に倒れた。

 ゲイルも頬杖をついた恰好のまま、屍と化した。

 硬直した身体が椅子から落ちた瞬間、執事が足早に歩み寄る。テーブルの燭台を持ってかかげると、やせ細った黒い獣が二匹、よだれと泡を口から流し、衣服の中で息絶えていた。

「……い、犬?」

「いいえ。これは悪魔の使いです」

 深く嘆息した執事は、テーブルに燭台を置いて頭をたれた。

「……思いつきませんでした。毒を入れることはしたのですが、気づかれて。できうることはすべて試したつもりでした。それが、まさか……」

 コルザの両親が他界してから、訪れる人もいないままの数年を、魔物とともに過ごしてきたのだ。はじめはなんとかせねばと思う。しかし、無駄だと知らされるたびに気力は萎える。気づけばコルザの精気を吸い取っていく魔物との生活に、すっかり慣れてしまっていたのだった。そのことを、バルトは強く責めていた。

「あきらめていました。私もこのまま朽ちていくつもりでおりました」

 目頭を涙で光らせ、執事はアンジーに小瓶を戻した。

「なぜ、このようなものを?」

「怖がりの兄弟子のお守りでした。借りができてしまって、ちょっと悔しいです」

 安堵したアンジーは、いまさら大きく震える自分の両手を見て笑った。

「見てください、すごい震えてます。ほんと、すごく怖かったです!」

 すると、執事も微笑んだ。

「……わたくしだって、もちろん怖かったです」



 寝室にいるコルザの姿は変わっていなかった。

 遺体となった獣のことを執事が告げると、「そうか」と小さく答えたのみだ。

 アンジーは車椅子に手をかけて、この部屋から出ることを提案した。コルザはすぐに了承しなかったが、やがて小さくうなずいた。

 きっといままで何度も試したのだろう。嘔吐をおそれるコルザは、寝間着の袖口で口をおさえた。

 執事がドアを支える。アンジーが車椅子を押す。まぶたをきつく閉じるコルザを乗せた車椅子が、寝室から出た。

 なにも起こらなかった。コルザの姿はやはりそのまま――だが、なにも起こらなかった。

 なにも、起こらなかったのだ。

「……外、でございます」

 執事が言った。コルザは苦笑する。

「……まだ屋敷の中だぞ」

 そう言ったコルザの声が震え、肩が上下していることにアンジーは気づいた。

 姿の変わらない落胆と自由になれたという複雑な思いが、コルザを泣かせていたのだ。

 うつむき、すぐに涙をぬぐう。

 そうして小さな声で、執事に告げた。

「バルト。アンジー・グロウ氏に、報酬を渡してやってくれ」


   * * *


 コルザに体力が戻るまで、肖像画の仕事は延期された。だが、アンジーはその朝、たくさんの報酬を受け取って屋敷を出た。

 その二週間後、アンジーは約束どおり屋敷を訪ねた。荒れ果てた庭園を行き来する庭師がおり、厨房のある屋根からは煙が立ちのぼっていた。

 扉を開けたのは壮年の召使いで、旦那さまは療養に出かけていると言う。嬉しくなったアンジーは「またきます」と告げて屋敷をあとにした。


 取引先や工場に出入りしなくなり、社交の場に姿を見せなくなった従兄弟たちについては、経営から離れて異国に向かったという噂が広まり、やがて誰も口にしなくなった。

 次から次へとあらわれる資産家や舞台女優に、社交界の話題は移ろい変わる。そういう都だ。


 ひと月後、アンジーはふたたび屋敷を訪れたが、見違えた敷地と屋敷を門から見て驚いた。蔦ののぞかれたれんがの壁、磨かれた彫像、青々とした庭園。噴水から出る水は小さな虹を輝かせていた。

 絵の具で汚れたつなぎ姿のアンジーを、門番がけげんな顔で見つめてくるので、アンジーはそのまま素通りしてしまった。


 二か月が過ぎて三か月が過ぎたころには、もうアンジーもコルザのことを、ときおり思い出すだけになっていた。

 仕事も延期されたままで気にはなっていたが、続きをおこなうのであれば使いの者がくるだろうし、そうでなければもっと腕のいい画家にあらたに注文するだろう。

 庶民の街を案内するなどと言ったものの、そんな約束もコルザは覚えてすらいないはずだ。万が一覚えていたとしても、しょせんは身分の違う相手である。これだけの月日が経っても音沙汰がないということは、コルザもあらたな人生を歩みはじめていて、もうアンジーのことも肖像画のことも忘れているに違いない。


 それでいいのだ。


 アンジーは相変わらず、雑用に追われる日々だ。リベドは失踪したままだし、兄弟子のテラドに命ぜられるまま街の中を奔走していた。


 髪が耳をおおう長さまでのびた、ある日。

 買い出した食料の紙袋を両手で抱え、アトリエのあるアパートの階段をのぼっていると、ドアが開け放たれてあることに気づいた。

(うそ、泥棒!?)

 アトリエ中に描きかけの肖像画があったところで、当の本人以外に欲しがる者などいない。それにくわえて金目のものなどなにもないので、テラドは常に鍵もかけず、ふらりと煙草を買いに行くのだ。

 急いでアトリエに入ると、見知らぬ青年がソファに座っていた。客だ。

 慌てたアンジーは奥まった台所に走り、テーブルに紙袋を置いた。

「誰もいなくて、失礼いたしました!」

 整えられたブロンドの髪は、窓から射し込む光に透けて輝く。見ほれるほど端正な顔立ちで、エメラルドグリーンの瞳は優しげだ。

 身なりの良さで、庶民ではないことがわかる。ソファに花束が置かれてあったので、恋人か婚約者に会う前に立ち寄ったらしい。こういう客はたまにいる。

「お忙しいところ、お待たせしてしまって申しわけありません。ここの重要人物は全員出払っておりまして、わたしでよろしければいったんご注文を承ります」

 アンジーは借金の書類やら新聞やらが積まれたテーブルをあさり、やっとの思いでペンと予約表の紙を見つけた。

(予約の前に、お茶を出そうかな。急いでいるみたいだけど、一応訊いてみよう)

 それがこの国の礼儀だ。

「もしもお約束のお時間に間に合いそうでしたら、お茶をいかがですか?」

 アンジーが花束を手でしめすと、彼は口元に指をあて、さも楽しげにクスリと笑った。

「いや、大丈夫だ。いただくよ」

「かしこまりました。あの、少々お待ちください」

 外から兄弟子の声がする。はっとしたアンジーは窓際に向かい、見下ろした。籠にいれたパンを配達している女子店員と、テラドはのん気に談笑していた。

(信じられない。自分だけおいしいパンを食べようとしてる!)

  そうではなくて女の子を口説いているのだが、食べ物第一のアンジーには伝わらない。自分の分も買ってくれと叫ぼうとしたものの、上品な青年がいることを思い出して我慢した。

 台所でマッチをすり、釜に投げ込む。ケトルの湯が沸くまでに、しばし時間がかかりそうだ。

「先に注文を承ります」

 ペンを耳にはさみ、眉を八の字にさせながら予約表をめくった。

「……実は哀しいお知らせがございます。リベド指名のお客さまには、無期限でお待ちいただいているところなのです。一番弟子のテラド・ルーザですと……三か月ほどお待ちいただくことになってしまいますが、いかがいたしましょう」

 彼は長い足を組み、微笑んだ。

「きみは?」

「えっ? いえ、わたしはまだ見習いです」

「そうなのか? それは知らなかった。だが、以前描いたことがあるはずだ。中途半端な描きかけがあるのでは?」

 アンジーは驚き、目を丸くした。

(あっ、そうか。この人はコルザさんの知り合いかもしれない!)

「もしかして、コルザさんのお知り合いですか? わたし、前にお屋敷に行ったことがあるんです。療養に出かけていると教えられたので、きっとお元気なんですよね?」

 青年は微笑んだまま、なにも言わない。まるでしゃべり続けるアンジーを、ずっと見ていたいと思ってるかのような雰囲気だ。

「……それで、描くのはあなたですか? それともその、花束を差しあげる方でしょうか? もちろんお二人一緒の肖像画も、ご予約いただけます!」

 アンジーが花束を見て伝えると、青年それをつかんでアンジーに差し出した。

「これはきみにだ。まだわからないのか?」

「えっ」

 上流階級の見知らぬ青年から、花束をもらうようなことをした覚えはない。

 戸惑うアンジーを見て、彼が笑った。

「コルザなら知ってるさ。庶民の街を案内してくれるんだろ? 妙な娘」

「え?」

 まさかと思う。しかし、目の前にいる彼がまさに、コルザ・ヴィラト本人なのだった。

 なにかの冗談だろうか。けれど、その眼差しにはたしかに覚えがあった。

「早く受け取れ。これはきみにだ」

 アンジーはおずおずと、花束を受け取った。

 いったいなにが起きているのだろう。これはきっと、夢に違いない。

「あの、あ……なたはとっても見違えてしまいました。ど、どうして」

「きみに言われたとおり、栄養のあるものを食べて身なりをととのえて、たっぷり療養していたらこうなった」

 ケトルが音をたてはじめたので、花束を抱えたアンジーはソファから腰をあげた。

「それで、あの寝室は?」

「全て取り払って改装した。で? うまいパン屋はどこにある?」

 三ヶ月も経ったというのに、覚えていてくれたのだった。お茶を飲んだら行こうと、コルザが言う。

 アンジーは花束を飾った。それからカップにお茶を注ぎ、テーブルに置く。するとコルザはいっきに飲み干そうとし、熱いとあたりまえなことを言った。どうやらせっかちな人のようだ。

「落ち着いてください」

 アンジーが笑うと、コルザも苦笑した。

「いままでの時間を取り戻したくて、いちいち焦る癖がついたな。行こう」

 立ちあがったコルザは、アンジーの腕を取った。

「あの、わたしはまだ仕事中でして!」

「これも仕事のうちだ」

 アンジーを引っ張ったまま、階段をおりて外に出る。琥珀色の光が街を包んでいた。

 立ち止まったコルザがアンジーを見下ろす。こんなにも背が高かったのかとアンジーは思う。それに、夕暮れの光がコルザの瞳を染めている。瞳だけは、変わっていなかった。

「描きなおしてもらわないとな」

 そのとおりだ。

 石だたみをはさんだ向こう側では、テラドがぎょっとしてこちらを見ている。それにもかまわず、微笑んだアンジーは大きくうなずいた。

「わかりました。わたしがあなたの肖像画を、承ります」


(了)

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タンジェリンの肖像 羽倉せい @hanekura_s

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