第2話
晩餐の用意ができたと執事に案内され、一階の食堂に赴いたアンジーは、そこで二人の青年に会った。
二人ともみごとなブロンドで瞳は青く、どこか色気を含んだ美しい容姿の持ち主だ。
ゲイルと名乗った青年はにこやかで、人好きのする雰囲気がある。縁なしの眼鏡をかけたジィランという名の青年は、知的な印象だ。ここに暮らしている彼らが、ヴィラト家の工場経営をまかされているコルザのいとこであった。
アンジーが席につくと、執事が皿にスープを盛ってくれる。
「まだお若いですね」
ゲイルが言う。しかし、アンジーは満足に返事もできない。スプーンを持つ手がまだ震えている。
コルザの姿は、数百年も生きている屍のようだった。
骨格の輪郭がわかるほど肉は落ち、そのせいで眼球が飛び出しており、白い肌には血管が浮いていた。
乾ききった唇は割れ、咳をするたびに唇に血がにじむ。それを、伸びた爪の指先でぬぐうのだ。その姿はまさしく生気を失った怪物のようで、とうてい直視できなかった。
(逃げるべきだったのかもしれない)
いまさら後悔の念がわいてくる。
「……大丈夫かい」
隣のジィランに声をかけられて、アンジーはなんとか笑みをつくった。
この場にコルザはいない。トレイに食事をのせた執事が食堂を出ていったので、ひとりで食事をとっているらしい。そのおかげで、気持ちを少し落ち着かせることができる。
(とにかく、まずは落ち着こう。それから、どうすべきか考えよう)
アンジーが自分に言い聞かせていると、ゲイルが言った。
「辞めてもいいんだ。帰るなら馬車を用意させるから、僕が送っていってあげるよ」
「それがいい。いや、待てよ。私たちはこれから夜会へ出かけるから、きみも一緒にどうかな? そのあとで帰ったらいい」
「ああ、それがいい。どうかな?」
二人に言われ、アンジーは一瞬迷う。けれど、うつむきがちにアンジーの前に座っていたコルザの姿が、脳裏にこびりついて離れない。
あの姿を他人にさらすことは、彼にとってよほどの勇気がいたはずだ。それも自分が「あなたを描く」と、言いきったからではないのか。
(やっぱり、簡単には裏切れない)
「……今夜はここに泊まります。それでひと晩、考えてみます」
ジィランと視線を交したゲイルが、にっこりと微笑んでアンジーを見る。
「僕らも彼をまともに見たことはないんだ。声も手も震えるほど恐れているのにひと晩考えるだなんて、よほどお金に困ってるいるのかな。それともきみは、ただの変わった画家?」
「からかうんじゃない、ゲイル。彼は自分の仕事をなんとかやりとげようとしているだけだ。誰もが断った仕事をね」
頬杖をつくゲイルと目があう。燭台に揺れる灯りのせいで、美しさが際立っていた。女性の誰もがうっとりするような笑みだ。それなのに、なぜかその瞳の奥にあさましい獣のような下品さを感じた。
ただの直感である。アンジーは静かにジィランに視線をうつす。にこやかな表情だが、眼鏡越しの瞳にやはり同じ印象を抱いてしまう。
困惑したアンジーはとっさにうつむいた。すると、ゲイルが笑う。
「なるほど。きみは勇気ある画家というわけか。次はぜひ、僕を描いてもらいたいな」
アンジーに与えられた部屋は、コルザの寝室の隣だった。
なんとか仕上げたデッサンに、アンジーはろうそくをかかげた。見たままであるがままのコルザの姿が、淡い灯りに照らされる。
会話を交わしたのは一度きり。咳の止まらないコルザに「大丈夫ですか」とアンジーが訊ね、「どうせもうすぐ死ぬ」とコルザが答えたのみである。
テーブルにろうそくを置き、アンジーはため息をついた。
なぜだろう。あの従兄弟たちはとても素敵なのに、泥のような濁りを青い瞳に感じる。
「瞳だけなら、あなたのほうがずっと素敵」
たとえ眼球が飛び出していても、コルザのほうが美しいと思う。
ほんの少しの曇りをのぞけば、その向こうは青空。そんな輝きがあるように思えるのだ。
ふと、壁越しにコルザの咳が聞こえた。同時に、窓からは馬車の遠ざかる音がこだまする。ゲイルとジィランが夜会へ出かけていったのだ。
女性が見とれるような容姿の持ち主は、年齢にふさわしい楽しみを毎夜謳歌する。そしてコルザは、毎夜ひとりで死を待っている。
ひどい咳が続くので、燭台を手にしたアンジーは部屋を出て、おそるおそるコルザの寝室をノックした。やはり返事はない。
「あ、あの……大丈夫ですか」
ドア越しに訊ねたものの、沈黙が続く。そしてまた席をする。どうにも気になってドアを開けると、車椅子からベッドにあがろうとしてもがくコルザの姿があった。
「……なんの用だ?」
アンジーが近づくと、肩越しににらまれた。やはり、その姿はどうしても醜い。
「……俺にかまうな。きみの仕事は俺の顔を描くことだけだ。このおぞましい怪物のような姿をな」
「そうですけど、ずいぶん咳をしていたようなので、気になります」
コルザがにやりとする。
「同情か? 同情しても報酬は変わらないぞ」
偏屈というのは噂どおりらしい。しかし、それほど嫌な人物ではなさそうだ。
「いいから、出ていけ」
咳をしながら声を荒らげ、身体を折り曲げてまた咳をした。
「薬はないのですか?」
アンジーが近寄ると、顔をそむけたコルザは己の醜さを隠すように片手でおおった。
「あるわけがない」
「お医者さまには診てもらっていないのですか」
やせ細った指のすき間から、ぐるりとコルザの眼球が動き、アンジーをとらえる。
「……医者になおせるわけがない。物好きな絵描きめ。きみの役目は俺を描くことだけだ。ほかのことはいっさい気にするな。同情などまっぴらだ。いますぐここから
出ていけ」
コルザはアンジーの肩を押しのけ、穴の空いたブランケットをかぶって押し黙った。
「……おやすみなさい」
そう告げるアンジーに、返事はない。
なんという病なのだろう。治ることのない姿にかける言葉も浮かばない。
そんな自分がはがゆくなる。
ドアを閉じると、すすり泣く声がアンジーの耳にとどいた。そのとき、アンジーは知った。
――彼は怪物じゃない。自分と同じ、人間なのだ。
* * *
天気もわからない闇の屋敷に、結局アンジーは屋敷を去らなかった。
コルザのことはまだ恐ろしいが、それは姿だけのことだとわかってきたからだ。
会話も交さず、カンバス越しに向き合う時間に慣れると、やがてアンジーは自分の仕事に集中していく。
朝食は食堂でとったが、昼食はコルザの寝室まで執事に運んでもらった。食の細いコルザは昼食をとらない。アンジーがテーブルでパンをかじり、スープを食べている間、コルザはベッドに横たわっていた。
アンジーがパンを頬張りながら構図を考えていると、コルザが言った。
「……あいつらは?」
「あいつら?」
ベッドを見ると、ガウンを羽織ったコルザが身体を折り曲げて咳をする。
「あいつらはあいつらだ」
「もしかして、あなたの従兄弟のことですか? いえ、見てません」
コルザの咳はとまることがない。同じ体勢で車椅子に座り続けるのは辛いはずだ。アンジーは先を急いだ。
「これから色をつけていきますがデッサンは終えているので、眠っててくださっても大丈夫です」
アンジーが袖をまくりあげる。筆をくわえ、油絵の具をパレットにのせる。すると、独特のにおいが部屋にただよいはじめた。
ときおりランプをカンバスに向けてかかげながら、筆とペインティングナイフを使いこなす。絵に集中していたので、そんな自分をコルザが眺めていることに気づかなかった。
ふとカンバス越しにベッドを見ると、コルザと目が合って驚く。
(起きてたんだ)
コルザの手足は長い。車椅子に座っているとわからないが、コルザは実は背が高いのだ。従兄弟は似るというから、こんな病にかからなければ素晴らしい容姿の持ち主かもしれない。
ふいに過ったその考えが、アンジーの手を止めさせた。
「……どうした?」
コルザに言われ、はっとしたアンジーはまた手を動かす。すると、コルザが苦笑交じりな声音を放つ。
「もう震えないのか」
「あなたはわたしの兄弟子のように、無駄なおしゃべりで邪魔をしてこないので、集中できます。集中している間、わたしの頭の中は無になるのでなにも怖くなくなるんです」
コルザが笑ったような気配がしたが、アンジーが彼を見たときは、すでに目を閉じていた。カンバスをこする筆の音だけが、ひたすら静かに刻まれていく。
そうしていると、やがて寝息が聞こえてきた。
ベッドを見ると、胎児のように身体を丸めてコルザが眠っている。
手を止めたアンジーは彼に近づいた。
姿はやはり醜い。伸びきった白髪、あらわになっている額の皺。彼はそれらを隠すかのように、腕の中に顔をうずめて眠っていた。
アンジーはブランケットを広げ、コルザの身体を優しく包んだ。そうしてから晩餐の時刻まで、黙々と絵を描き続けた。
* * *
ジィランは晩餐会へ出かけたらしく、食堂にはゲイルしかいなかった。
「会話は楽しく弾んでるかな?」
ゲイルがあやしく微笑んだ。
「……弾むというほどではありませんが」
やっぱり苦手だと、アンジーは思う。自分を品定めするかのような眼差しに耐えきれず、とっさに視線をそらした。すると、ゲイルが言った。
「彼は病のせいで頭もやられている。妄想にとり憑かれているんだ。だから少しばかり奇妙なことを言ったりする。気にしないでくれないかな」
え? 困惑したアンジーは、思わずゲイルを視界に入れた。
ゲイルがにっこりと笑った。その表情が、自分をもっとも魅力的に見せるとわかっている人間の微笑み方だ。社交の場ではさぞかし人気者だろう。
「ひとつ教えてくれないかな?」
アンジーは眉を寄せる。目前の美青年が言った。
「どうして男の服を着ているの?」
アンジーは息をのんだ。べつにバレてもいいのだが、ゲイルの視線にいたたまれなくなり、とっさに椅子から腰をあげた。
「……女の肖像画家は、信用されないと言われたからです」
ゲイルも席を立つ。
「なんだ、やっぱりそうか。男にしてはかわいらしい顔立ちだから、からかい半分で言っただけなのに、当たったね」
食堂を出ようとしたとき、ゲイルに腕をつかまれた。
「かわいい絵描きさん。僕はきみを誘惑したい衝動にかられているんだけど、どうすればいいかな?」
つかまれた腕を、力一杯に振り払う。ゲイルを押しのけ、彼の笑い声がこだまする食堂をあとにし、廊下を走った。
階段を駆けあがると、トレイを持った執事とすれ違う。声をかけられたが、混乱しているアンジーに返事をする余裕はなかった。自分に与えられた部屋のドアを開けようとしたのに、実際に開けたのはなぜかコルザの寝室だった。
車椅子のコルザは、アンジーの描きかけの絵を眺めていた。アンジーが戸口に立った瞬間、その姿をこちらに向ける。
「い、いきなりすみません。ぼ、僕はあの人が――あの人たちが苦手です!」
コルザは毛のない眉を寄せ、息をのむ。その姿はどうしたって不気味だ。けれど、アンジーにとっては自分の腕をつかんだ美しい青年のほうが、いまはもっと不気味なのだった。
「彼らの瞳は、まるでよどんだ泥みたい」
コルザが目を見張る。
「……泥?」
「そうです」
すると、コルザが笑った。
「絵描きの表現とは妙なものだな。では、おれの瞳はなんだ? もっとよどんだなにかか?」
カンバスを指す。
「背景しか塗られていない。この木炭のおれの瞳を、何色にするつもりだ?」
「構図に迷っているんです。でも、瞳の色は決めてます。僕はあなたの瞳を美しいと思います」
コルザは驚いたように、アンジーを直視した。アンジーは息をととのえながら、カンバスに近寄った。
「本当の色はわからないけれど、この暗さとランプで夕暮れと同じ色に見えます。僕の一番好きな時間です。だから、あなたを描こうと決めたんです」
アトリエに射す西日。窓を開けていると、あちこちから香ばしい夕げのにおいがただよってくる時間。やがて、腹が減ったとテラドが言いだし、リベドがいれば三人で食事をとる。家族のいないアンジーにとって、忙しない一日が終わる夕暮れどきは、一番楽しい時間だった。
おだやかで優しい、あたたかい時間を思わせてくれる瞳。
コルザがうつむいた。車椅子を動かし、ベッドに近づく。
「……俺の瞳を、気に入ったと言うのか。この屍のような、浮きあがった瞳を」
「あなたの姿は病のせいです。それとこれはなにか違うんです」
「苦手と言ったのは、なぜだ?」
「瞳がどうしても気に入らないのです。なんだか獲物を探して街をうろつく、やせ細った野犬みたいに思えてしまうんです。かわいそうだけれど、避けたくなる」
それは、十六歳の女の子の勘。肩越しに、ゆっくりとコルザがアンジーを振り返る。
「誰もが見ほれる姿だぞ。きみは男だが、女性ならうっとりして動けなくなるほどだろう」
女性なのだが。そうは言わず、アンジーは息をつく。
「わかっています。でも、僕にとっては姿はあまり関係ありません」
それは、目に見えることじゃない。十六歳の女の子の勘のようなものだ。
コルザは静かに車椅子を動かし、アンジーに向きなおった。そうしてまっすぐアンジーを見つめてから、視線を落とす。
続きを描くためにアンジーが筆を取ると、コルザはぽつぽつと語りはじめた。まだこの姿にならなかったころのこと、自分と同じ病で両親が亡くなる前のこと。
「もしかして、その病は家系なのですか?」
アンジーが訊ねると、コルザは口を閉ざしたまま、爪ののびた指先で天をしめした。意味もわからず、アンジーも天井を見上げる。
そこには光の灯されていないシャンデリアがあるのみだ――。
(――いや、違う)
アンジーの手から、筆がすべり落ちた。同時に、静かな声でコルザが言う。
「……俺は一生、この部屋から出られない。出ようとするとひどい吐き気におそわれて、嘔吐したまま気絶する。そしてこの姿が、さらに悪化していく」
アンジーはテーブルのランプをつかんだ。背伸びをし、精一杯の灯りを天井へ向ける。
シャンデリアを囲むように円形の装飾が、血のような朱色で描かれてある。アンジーの知らない文字、折り重なる多角形。
「魔術だ」
コルザが言った。
* * *
何度布で拭いても決してぬぐえない。新しい壁紙を貼ってもにじんでくる。
相手は人ではない。
そこに住む者の精気を吸い取る、長い間生き続けている魔物に魂を売った〝なにか〟である。
そうコルザに教えられ、アンジーの脳裏にすぐさま浮かんだのは、従兄弟を名乗る者の姿だった。
「俺が死んだら新しい獲物を見つけるだけだ。三年前、社交の場で父に近づき、この屋敷に出入りするようになった。ここはもともと両親の寝室だ。ヴィラトの家系が絶えるまで血のつながりのある者の精気を吸う。そういう意味がしるされてあると教えられた」
恨みではない、そんなものはなにもない。ただ、自分達が生きていくために、それはしるされたものなのだった。
「……ま、魔物ですか?」
コルザは答えない。
「神父さまを、呼ばれましたか?」
「得体のしれない者に憑かれている家系だと知られることを、父は嫌った。俺にもそう遺言を残して死んだ。時代をさかのぼれば伯爵家だ。家名に傷をつけたくなかったんだろう。病と噂されたほうがまだマシだと考える。きみにとってはくだらないことかもしれないが、これは貴族の尊厳だ。俺も同じ思いでいる」
「まさか、本当に……あの二人が?」
コルザはうつむいた。
「国から国へ。どこからきたのかもわからない。そういう〝なにか〟だ」
自分が奇病だという噂が庶民にまで広まっているのは、美しい姿をした彼らがこの屋敷に誰も近づかせないために、社交の場で語るからだとコルザは話す。
「でも……あれが消えれば、あなたはもとの姿に戻れるかもしれないんですよね?」
アンジーが天井を指す。コルザが自嘲気味に笑った。
「言っただろう、決して消えない。彼らの血で描かれてある」
「……で、では」
ごくんとつばをのみ、アンジーはコルザを直視した。
「彼らを……亡き者にすれば」
「試そうとはした。何度もな。執事のバルトがナイフで刺そうとしたこともあるし、俺が窓から突き落とそうとしたこともある。そのたびに軽く交された。それに、どんな毒を入れたとて、必ずにおいで気づかれる。そのたびにやつらは報復することもなく、ただ静かにあざ笑う。わかるか?」
コルザが表情をゆがめると、額に血管が浮いた。
「この無力感。やがてなにもしたくなくなる。無駄だ。衰えるごとに、このまま朽ちていくほうがいいと思うようになる。すでに気力をうしなったバルトも同じだ。俺と共にするつもりでいる」
うつむいたコルザは、車椅子に手をかけて背を向けた。
「……いま話したことは忘れてくれ。ただ、誰かに話しておきたかっただけだ。きみはほかの人間と違うものを見るようだから、信じてもらえると思った」
病のせいで妄想にとり憑かれていると言った、ゲイルの言葉を思い出す。どちらを信じるべきかは明白だ。
「肖像画を頼んだことに他意はない。俺はもうすぐ死ぬ。そしてこの屋敷からは誰もいなくなる。だが、この屋敷を誰かに売るつもりはない。おれの顔が飾られてあれば、不気味がって屋敷を買うような者もいないだろう。この屋敷も、俺とともにこのまま朽ちていけばいい」
「でも……あなたの工場は?」
「もうほとんど、あいつらのものだ」
コルザが手を振った。出ていってくれと態度でしめされ、アンジーは戸口に向かった。が、ドアを前にして立ち止まる。
「……あの二人さえ消すことができたら、あなたはもとの姿に戻れるかもしれない」
はっ、とコルザが笑う。
「すでにこんな姿で、もとに戻れるわけがない。それにこの姿で生き続けたとて、いったい誰が訪れる? 誰もだ。いますぐに死んだほうがマシだ」
アンジーにも、部屋に引きこもった時期がある。大好きだった父が他界し、学院を辞めて無力感におそわれ、学院時代の知人にも背を向けたことがあった。
そのくせいやにさみしくて、誰も訪れない部屋のドアを一日中見つめていたものだ。
「……僕が」
アンジーは言う。
「僕がきます」
「……同情か? まっぴらだと俺は言ったぞ」
「わかっています。でも――」
コルザの前に進み出て、アンジーはドアを指した。
「――あの人たちは毎夜遊び放題。でもあなたはここでたんまり咳をして、たったひとりで死を待ってる。そんなことってないでしょう? 少なくともわたしは許せない!」
興奮のあまり言葉づかいが女性になってしまい、手で口をおおう。驚いたコルザが、息をのんだのが伝わる。ため息をついたアンジーは、肩をすくめて苦笑した。
「……女の肖像画家はお金持ちに信用されないから、こういう恰好でいけって兄弟子に言われたんです。髪は家賃のために売ってしまったので、ドレスでくるのもおかしいですし、結局こうなったと言いますか……」
コルザは食い入るようにアンジーを見ている。
「……男性のふりなんてして、すみませんでした。でも、見た目なんて髪型や服装でどうとでも変わるんです。だからあなたもきっと、姿が戻るとか戻らないとかはおいておいても、栄養のあるものをたっぷり食べて、髪も爪も切って身なりをととのえたら、好きなところに出かけられるようになると思います。わたしでよければお伴しますし、よければ庶民の街だって案内します。わたしのアトリエの近くには、すごくおいしいパン屋さんがあるんです。なので、あきらめないでください」
訴えるアンジーを、コルザは静かに見つめていた。やがて、ふと口もとをほころばせる。
「……妙な娘だ」
そのときはじめて、コルザが笑った。
「娘なのにあいつらに惑わされず、おれと普通に話す。はじめは震えていたのに、絵を描きはじめると王政時代の騎士のような顔になる」
「騎士ですか?」
「そうだ」
褒められることに慣れていないアンジーは、照れ隠しに髪をかきあげる。そうしながら、天井をふたたび見やった。
(……消えないのなら、あの二人をどうにかするしかない)
おそらく、人の姿をした〝なにか〟。罪悪感は残るだろうが、やりとげる価値はある。とはいえ、なにをどうやりとげたらいいものか。
思案したアンジーは、思い出した。
悔しいことに、自分勝手な兄弟子にひとつ、借りができてしまいそうだ。
「……神父さまを呼んだことはないんですよね?」
「ない。呼ぶつもりもない。なんだ?」
毒は気づかれる。けれど、水ならどうだ? それはにおいのない、ただの水。
ただし――聖なる水だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます