タンジェリンの肖像
羽倉せい
第1話
彼は、怪物と呼ばれている。
奇病らしい。まだ若い年齢であるのに精気がなく、目は落ちくぼみ、頬は痩せこけ、ひとりでは満足に歩くこともできないという噂だ。
その醜い容姿のせいで、いくつもの繊維工場を経営している実業家だというのに、独身である。
一日中カーテンで閉めきった暗い屋敷に引きこもり、経営のすべてを二人の
「……で? わたしにおしつけてますよね、この感じ」
アンジーはアトリエでため息をつく。絵の具で汚れたシャツ姿の青年は、そんなアンジーに道具箱を差し出した。
「おしつけなんかじゃねえさ。じーさんは失踪中、俺はほかの仕事で忙しい。暇なのは誰だ?」
アンジーがしぶしぶ道具箱を受け取ると、にやつきながら煙草をくわえた青年は、絵の具の染みついた指先でマッチをすった。
じーさんとはリベドのことだ。
アンジーと青年にとっては先生であり、このワルザール国、首都ミラレバに住んでいる人びとにとっては、肖像画家である。しかしいまは、このアトリエにいない。放浪癖があり、すきあらば弟子の二人をほっぽって、姿をくらますのが常なのだ。その尻ぬぐいをしているのが、一番弟子のテラドである。そしてアンジーは、リベドの二番弟子。とはいえ、絵はまだ描かせてもらえず、仕事といえば掃除に洗濯、買い出しと雑用ばかりの日々だった。
アンジーは唇をとがらせる。
「暇じゃないんですけど」
兄弟子のテラドに、ぺしりと額を叩かれた。
「おまえに仕事を選ぶ権利なんかねえんだよ、国立芸術学院の落ちこぼれ。退学させられたおまえを拾ったのは誰だ?」
リベドなのだった。
「そうですけれども」
ここへきてはじめての、ちゃんとした肖像画の仕事である。それなのに心が浮きたたないのは、描く相手のせいだ。
「……コルザ・ヴィラトって、すっごい偏屈だって噂じゃないですか」
「偏屈にもなるだろ? 外に出られない容姿のうえに、自由に出歩ける身体でもねえしな。ま、どんな気まぐれでそんな自分の肖像画を頼んできたのかは、俺にもさっぱりだがな」
身なりのよい中年の紳士が、このアトリエを訪れたのは三日前のことだ。
紳士は執事だと名乗り、こう言った。
「肖像画をお願いしたい」
そしてヴィラトの名を告げた。急いでいるとつけくわえ、ほうぼうの画家に頼んだが、名を聞いてみな断るのだと語った。
金を積まれても断りたくなる相手、それがコルザ・ヴィラトだ。しかしテラドは断らなかった。金銭感覚のない老先生の借金に道具代、アトリエ代、自分とアンジーの給金もあり、とっさに金勘定が働いたのだ。
その仕事をいま、テラドはアンジーにおしつけているのである。
アンジーは肩を落とした。
「……わかりました。まるっきり気がすすまないけど、行ってきます。とりあえず」
どうせすぐに追い出される。基礎からまるでできていないと、学院の教師たちに笑われ続けた腕前だ。戸口のイーゼルを抱えたアンジーが、布でくるんだカンバスとスケッチブックを肩にさげようとした矢先。
「ちょい待ち」
そう言って呼びとめたテラドは、自分の足もとにある大きな荷袋をつかみあげた。
「忘れたのか? 急ぎの仕事だから、仕上がるまで住み込みだ。こいつに着替えろ」
アンジーが中を見ると、男性用の衣類が入っていた。
「ガキのころのおれの一張羅だ。その汚ねえつなぎは脱いで、せめて身なりはちゃんとして行けよ」
「着替えのドレスの一着ぐらいは持ってます。動きやすいからこの恰好をしてるだけで」
テラドが苦笑した。
「あのな? 給金が安すぎて家賃が払えねえって、髪を売ったのはどいつだっけな? そんな短髪でドレスを着てたら、女装してる頭のおかしな少年と思われるのが関の山だ。どうせあの執事だって、おまえを男だと思ってる。ま、おまえが女の恰好してたところで、屋敷の誰かがおかしな気をおこすとも思えねえけどな」
都の美人は、ふくよかな体型でブロンドだ。アンジーは瞳ばかり大きい痩せっぽちで、栗色の髪。学院の生徒だったときも、アンジーを気にとめる異性は皆無だった。
「それに、残念ながら男に見えたほうが得なんだよ。いまだに女の肖像画家なんか、趣味の延長だろうと思ってるやつは多い。とくに金持ちはそうだ。損したくねえならぶつくさ言わねえで着替えるんだな。それと、これもな」
ズボンのポケットから小さなガラス瓶を取り出す。
「持っていけ」
中には透明な液体が入っていた。
「水?」
「聖水だ」
「……えっ!?」
「おれのお守りだ。世の中物騒だからいつも持ち歩いてんだよ。悪魔だとかもうようよしてるっつー話しだから、こいつを持ってるとなんとなく安心すんだ」
意外だ。というか。
「……悪魔とか信じてるんですか」
テラドが顔を赤くした。
「い、いいだろうが! ともかく、都がいろいろ物騒なのはおまえだって知ってんだろ? だから、兄弟子として一応心配してやってんだよ。いいから持っていけ」
アンジーは半眼になる。心配なら自分がいけばいいのにと心の中で訴えてみたものの、めずらしいテラドの思いやりに感謝することにして、小瓶をありがたく受け取った。
荷袋を背負い、道具をたんまり抱えたアンジーがアトリエを出ると、テラドが戸口で言った。
「いいか、すげえ報酬額なんだ。自分は最高の画家なんだと思い込め。丁寧な男の言葉を使って、ハッタリをかませ。それで、この仕事を絶対にモノにしろ!」
――バッタン。
アンジーの目の前で、守銭奴な兄弟子はアトリエのドアを閉じたのだった。
* * *
資産家の屋敷が建ち並ぶ区域、サリヌ街。
快晴の午後、テラドのおさがりを着たアンジーは、鉄製の門の前に立って大きく深呼吸をした。
チャコールグレーの上着にズボンは、庶民男性の一張羅だ。ポケットにはテラドにもらたお守りも入れてある。つばつきの帽子をとったアンジーは、大荷物を抱えたまま門に手をかけた。
門番はおらず、広い敷地は荒れ放題。手入れのされていない庭園、水の出ない円形の噴水、あちこちにある彫像は泥と鳥のフンで汚れている。
(うわ……。いますぐ帰りたくなってきた)
優美な装飾のほどこされた灰色れんがの屋敷は立派だが、壁には枯れたツタが絡まっており、ここに人間が住んでいるとはまるで思えない。
おそるおそるアンジーがノッカーを叩くと、ランプを手にした執事が現れた。
「お待ちしておりました」
短い白髪、彫りの深い端正な顔立ちだが、表情にとぼしく眼差しはうつろだ。
執事の背後は、闇である。外は光に満ちているのに、窓という窓に厚手のカーテンがさがっているため、屋敷内はランプがなければ一歩も歩けないほど暗い。
吹き抜けになっている広いエントランスの正面に、左右にまたがる大階段。荘厳なはずの光景も、灯りがなければ怪物屋敷だ。
アンジーが屋敷内に入るなり、執事が扉を閉めた。
(もしかすると、二度とここからでられなかったりして)
内心冗談めかしたものの、事実になりそうな予感を覚えて打ち消した。
「こちらへ」
執事が大階段をのぼる。引き返すならいましかない、けれど、足は階段をのぼってしまう。
――それは、好奇心のせいだ。
怪物と噂される青年の姿を、見てみたいという興味。
けれどこう暗くては、見えるものも見えないかもしれない。
「あの、もう少し明るくなりませんか? これではデッサンもまともにできません」
肩越しに振り返った執事が、立ち止まった。
「暗いまま見える輪郭で、結構でございます」
「え?」
なんとも不気味な注文だ。前を向いた執事は、左の階段をのぼっていく。
「ヴィラト家は代々、主の肖像を大広間に飾ります。コルザさまの具合がよくありませんので、お元気なうちに描いていただきたいのです。たとえ、この暗さの中のお姿であったとしても」
もしかすると、コルザが最後の主となるかもしれない。アンジーはぶしつけなことを思い、気鬱におそわれた。
(ご病気で、ご家族もいらっしゃらない。孤独な気持ちはわたしもわかるから、なんだかせつないな……)
いや、少なくとも執事はいるか。
「あなたは、ずっとここに仕えていらっしゃるんですか」
「はい。わたくしの家系は代々、こちらの離れに住む執事でございました」
やがて、二階の奥にあるドアの前に立つ。そっとノックした執事は、返事を待たずにドアを開けた。
執事がランプをかかげる。アンジーは目をこらした。
天蓋つきの大きなベッドが中央に置かれてあるだけで、あとは重厚な木製のテーブルセットのみ。壁には絵も飾られておらず、床にはさまざまな書物が散乱していた。
ほこりっぽいにおいが鼻につく。大きな窓にはやはりカーテンがさがっており、隙間を埋めるかのように紙が貼られてあった。
ベッドはととのえられたままで、そこに主の姿はない。と、窓際に浮かぶ闇の輪郭が、アンジーの視界に飛び込んだ。
「お連れしました」
部屋に入ることなく、執事が言う。
「どうぞ、お入りください」
執事にうながされたアンジーは、おそるおそる一歩足を踏み出した。直後、ギリギリとした奇妙な音を響かせながら、闇の輪郭が近づいてきた。
車椅子に乗っているらしい。その姿が暗がりに浮かびあがったとたん、アンジーは驚きのあまり身動きを忘れた。
車椅子の人物は、両目の部分に穴を空けたブランケットをかぶっていたのだ。
――怪物。
ブランケットの頭が小さく上下する。うなずいたのだ。と、それを見た執事は、しりぞこうとするアンジーの背に軽く手をそえ、室内に入れる。そうして床にランプを置き、ドアを静かに閉じてしまった。
呆然としたアンジーは、車椅子の人物を見下ろした。
テラドにおしつけられたとはいえ、乗りかかった船でもある。やるだけのことはやるべきだ。そうも思うが、いますぐ逃げたい。しかし、恐怖のあまり身体が動かない。
「わ、わた……」
言いかけて、男の恰好をしていることを思い出す。
「ぼ、僕は――」
「――おそろしくておぞましい。いますぐこの屋敷から出たいと顔に書いてある」
あざけるような、しゃがれた低い声だった。
穴の開いたブランケットから、憂いをおびた瞳が動いてアンジーを見上げてくる。
床のランプに照らされた瞳の色は、夕暮れ色だ。同時に、甘い果実のタンジェリンを連想させる。ほんとうの色は青だろうか。その瞳だけは、宝石のようだとアンジーは思う。
せつなげだが、優しさを秘めて輝くもの。
なぜかそのとき、アンジーは遠い昔に教えられた父の言葉を思い出した。
アンジー。
美醜に関係なく人間の顔は、内面をうつす鏡のようなものだ。
思いが人の顔をつくる。目立たない容姿でも、美しい内面の者もいる。
美しい器量の持ち主でも、悪魔のような者もいる。
あるがままを見たままに描くのではなく、その内面まで浮きあがらせる。
それが腕のよい肖像画家なのだ。
瞳を見ればよい。瞳がすべてを語ってくれる。
怪物と人びとに噂される青年が、ブランケットに手をかけた。
「この姿を目にしたら、きみは一生悪夢にうなされるだろう。帰りたければ帰ればいい。この屋敷まできた画家はきみだけだ。金欲しさでも褒めてやる。どうする?」
美しい裸の女性、たわわに実った果物に、甘美な芳香をただよわす花。華やかな都の建築物と行き交う人びと。アンジーはたくさんの絵を描いてきた。
見たままはつまらないから、さまざまな色を塗りたくり、自由に描いたその絵を「新しい」と父は褒めた。なんとか受かった学院では、その絵はゴミ同然の扱いを受ける。
退学させられたのではない、自ら辞めたのだ。
辞めてから絵が描けなくなった。どうせゴミなのだ。売れもしない。
他界した父の残してくれたささやかな財産で食いつないで半年後。投げやりな気分のまま、広場で観光客相手に似顔絵を描きはじめた。
そんなある日、にこやかな表情の老人が、眼の前にあらわれた。
――わしを描いてくれんかね。
この国の学院では、リベドは笑われる画家だった。父もそうである。
肖像画は食うための絵であって芸術ではない――というわけだ。だが、リベドの元には舞台俳優がやってくる。新婚の男女もくるし、成金もいる。娼婦もいる。みな、自分のもっとも輝かしい姿を、絵で残したい人びとばかりだ。
精一杯のお洒落をし、恰好をつけてポーズをとる彼らの姿を見ていると、アンジーのささくれだった気持ちもやわらいでいった。やがて、本当に描きたいという気持ちが、こみあがってくる日を待つようになったのだ。
そしていままさに、アンジーは思ったのである。この瞳の持ち主を、描いてみたい。
「どうする?」
もう一度、怪物が言う。アンジーはカンバスを抱えなおした。
「あなたを描きます」
沈黙がただよった。そして怪物は、血管の浮き上がった手でブランケットを握る。
それを床に放り、自分の姿を闇にさらす。
アンジーは、怪物を見た。
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