死人憑き

赤城ハル

第1話

 私はゾンビモノが別段に好きというわけではない。あくまで民族学者の立場から日本のよみがえり伝説の少なさに疑問を投じていて、研究をしていただけである。

 そんなある時、私は九頭竜村の伝承に興味を持ち、足を運んだ。もちろんあわよくば日本の甦り伝説について新しい一説を投じるものを獲られればと考えていた。だが、それが今後終身に渡って苦しみを伴うということになるとはその時は思いもよらなかった。

 そのせいで今となってはゾンビ映画を見ることが嫌いになった。ゾンビ映画そのものには恐怖心はない。だがあの九頭竜村での出来事と結び付き、あの時の恐怖が現実へと戻ってくるのだ。あの恐怖体験を二度と思い出したくもないし感じたくもない。それゆえ今ではゾンビ映画は忌避している。


 日本にはゾンビモノ、いわゆる死者が甦り、生者を襲うという伝承が非常に少ない。それはひとえに火葬が多いことが挙げられる。しかし、日本には土葬の文化があり、平安時代には風葬や鳥葬といった葬儀があった。にも関わらず死者が甦るという話が少ないのは不思議なことである。

 ここである話をしたい。靴ヒモが切れると不吉の予兆という迷信は知っているだろうか。この迷信は日本全国に知れ渡っているメジャーな話。しかし、この迷信の元ネタは下駄の緒である。下駄の緒が切れると不吉という迷信が現代文化に照らし合わされ靴ヒモに変わったのだ。ではこの下駄の緒が切れると不吉というルーツはどこからかというと、それは土葬の文化からきている。故人が甦って家に戻らぬよう下駄の緒を切って棺にいれるという風習からである。

 それはすなわち死者が甦るという伝承も残っていてもおかしくはないはず。もちろん現実問題、死者が甦るなんてことはない。だが、日本にはおける死者の甦りや動きまわって生者を襲うという話は非常に少ない。なぜか日本にはおいては悪霊となって生者を苦しめる話がメジャーとなっている。

 そもそもゾンビというものはブードゥー教の中の話であり、その話が日本に伝わらなかったゆえ死者が動き、暴れるという話がないではと考えられている。しかし、中国ではキョンシーというゾンビモノが存在する。なら、なぜ日本には動く死体というものは伝わらなかったのか。

 一応、一般には知られてはいないが死人憑きという話が日本にはある。これはお坊さんが遅刻もしくは諸事情で来れなくなったことにより、故人が起きあがり、暴れ回って親族家族を襲うという話である。私はそれ以外に甦り伝説を探ったがゾンビモノに近い伝承は見つからなかった。

 研究対象を別の物に変えようとした時、一年生の田辺という学生から面白い風習を聞いた。それは土葬を済ませて四十九日の後に土を堀り返し、棺を確かめるという。その際に棺に巻かれたヒモが切れていた場合はその日の内に火葬を実行するというのだ。私はその変わった風習に目新しい何かを見出だそうとした。わざわざ土葬から火葬にするのだから甦り伝説の一つはあるであろうと。しかも棺に巻いたヒモを確認するというのだから何かあるに違いないと考えた。だがその学生からは風習のみで伝承についての話は何一つ得られなかった。私は不謹慎だが彼に地元でその行事があった際には一報を頼んだ。すると意外にもつい先月に親戚の伯母がなくなり今月にその儀式が行われるという。私は好機と知り、その行事に参加させてもらえないかと頼んだ。彼は一度実家に許可の連絡をしないといけないという。もちろんそれはそうだろう。学生である彼の一存では決められないはず。翌日、私は彼から儀式の参加の件が実家から許可が下りたという吉報をもらった。


 九頭竜村は東北にある境界未定地域のすぐ隣にある村であった。境界未定地域はどの県にも属さない地域であり、主に文化、宗教上によるものが多い。九頭竜村の隣にある境界未定地域は縷々伊江ルルイエと呼ばれる霊場であり、九頭竜村に管理されていた。

 私をここに案内してくれた学生の田辺及び、彼の家族以外は余所者である私をあまり歓迎してくれなかったように見られる。さすがに田辺家に寝泊まりするわけにはいかず近くの民宿に泊まることにした。民宿は主人である老婆と娘夫婦が経営していた。基本は娘が経営を任されていて、旦那の方は平日は役所で働き、休日は民宿の手伝いをしているとのことらしい。民宿といっても九頭竜村は観光地でないゆえ客は少なく、主に霊山登山目当ての登山家か修験僧くらいである。主人である老婆は民宿を娘にほぼ任せっきりなので暇であり、私にこの町の風習についての質問を嫌な顔せず教えてくれた。特に甦り伝説に関する地元伝承を知ることができたのは嬉しいことだった。

 日本には古事記、日本書紀に書かれている国譲りの話がある。この国譲りの話は天津神が葦原中国あしはらのなかつくにに降り立ち、国津神との争い、葦原中国を平定した話である。要は国津神を恭順させた話である。この話は九州から中部地方の諏訪にまで及ぶ。だが東北のこの地では風変わりの国譲りの神話がある。大抵、地方の伝承などは後から日本神話に取り込まれることが多い。それゆえ年代や神の名や特徴、特性が変わっていることもおかしくはない。しかし、ここの国譲りでは神名がなく旧支配者と天津神となっている。旧支配者は国津神ではなく豪族の可能性が高い。となれば、もしかしたら国譲りではなく神武東征ゆかりなのかもしれない。だが神武東征は九州から近畿までで東北には関係はあっただろうか。神話が体系化され組み込まれるならまだしも神武東征は神話ではなく歴史に分類されるはず。多少は人外的な能力の話があるがそれでも神武東征は歴史に当て嵌められる。なら、この地域の神話も国譲り関係なのかもしれない。

 国譲りの神話を聞いてみると天津神と旧支配者は争い、お互い一進一退の攻防を繰り広げた。そこでお互い決め手がないゆえ、不可侵協定を結ぶことになった。けれど旧支配者は言葉巧みにじわじわと天津神の眷属を自分達の支配下に置いた。だがそのことを天津神側の巫女は前もって予知しており対策を取っていた。これによって万事抜かりはないとたかを括っていた旧支配者は最後の最後で眷属を奪われ天津神と巫女により封印されてしまったという。話を聞くとやはり神話に連なるものであろうか。

 私は女老主人にこの地域の郷土資料館もしくは神様ゆかりの地について尋ねた。郷土資料館は文化館に併設され、神様ゆかりの地となると神社か境界未定地域の縷々伊江と教えてもらった。縷々伊江には険しい山を越えなくてはいけないので断念することにした。

 まず私は文化館に向かった。だが文化館はロビーにある壁一面に村案内と書かれた村の地図と数枚の写真と歴史早見表だけだった。文化館は子供の遊び場として機能しており、目的はすぐに終わった。私は図書館になら何かしらの手懸りがあるのではと考えたがこの町には図書館はなく、仕方なく私は帰路につくことを決めた。その時、ロビー受付から田辺から電話がきていると言われ、受話器を受け取った。私としてはスマホで連絡をすれば良かったのではと勧めると、ここでは電波が悪く通話ができないとのこと。彼は民宿の女老主人から私がここに伺うことを聞いて連絡をしたらしい。彼の用件は明日の棺ヒモ調べの話をこの後、夕方18時に話し合うと言う。文化館の置時計で時間を確かめると現在夕方の16時31分であった。私は彼に礼を言って受話器を置き、文化館を出た。

 亡くなった彼の伯母の家には親族のみならず町民が大勢いた。彼らは奇異の目で私を見るも誰も文句は言わなかった。後で聞くと田辺が前もって私のことを親族、町民に説明してくれていたらしい。四十九日のスケジュールは10時にお坊さんが来てお経を読み、昼12時に昼食。そして14時に墓を堀り、ヒモを確認。ヒモが切れていた場合はすぐに縷々伊江の火葬場へと運び荼毘に付す。そして灰を墓地へと埋葬される。ここにいる者からしたら私は研究のためヒモが切れて欲しいと願っている人間と思われているのだろう。

 ここで私は埋葬された棺のヒモを確認をすること、ヒモがほどけるのではなく切れるという謎、そして火葬するというこの地域特有の風習のルーツについて尋ねた。

 その質問に田辺の祖母が答えた。少したどたどしく言葉も所々単語が抜け落ち、話すというよりも本人の記憶の再確認のようであり、抜け落ちた箇所は周りの大人達がフォローをしつつ、私が求めていた伝承が明確に姿を表した。この町の風習はやはり国譲りの神話が関係していた。旧支配者から解き放たれた眷属は天津神へと帰依したが旧支配者からの呪縛は完全に解かれていなかった。眷属たちは死すると死人となり旧支配者の眷属となる。本来ならそこで火葬が一般となるのだが天津神は遺体を傷付けることを許さない神であり、代々続く伸展葬を命じ、もし四十九日が経ち旧支配者の呪縛の兆候があった場合にのみ火葬を許すと告げた。それ以降、この町では棺にヒモを巻き、もし四十九日後にヒモが切れていたなら縷々伊江にて火葬を行い、埋葬するという風習が生まれた。

 そして縷々伊江はかつて旧支配者が亡き神殿を偲び、それをモチーフに眷属たちに作らせたという。その話から察するに旧支配者は元々はこの土地の土地神ではなく他の土地から日本へと渡った神であるらしかった。


 翌日、四十九日は滞りなく行われ、予定通り14時に棺のヒモを確認することとなった。

 不謹慎だが私にとっては幸運なことにヒモは切れていた。棺に巻かれていたヒモは分厚く、固く結ばれていたにも関わらず、まるで千切れたかのように不自然と切れていた。埋葬された中でどのようなことでそのように切れるのかは甚だ不明である。気落ちする親族及び町内の方々。そんな中、私はなるべく彼らの琴線に触れないように努め、写真を撮ることを伺い出た。許可が得られ、少しばかり冷ややかな視線に耐えつつ私はカメラを構えシャッターを切る。

 田辺家の者は棺の蓋を開けて御遺体の状態を確認した。私も民族学の人間。洗骨というものを知っているので一度土葬された御遺体を見るのは初めてではない。しかし、目に入った御遺体に私は声を上げて驚いた。驚いたのは私だけでなく若い者や数人の大人たちも驚いていた。

 というのも御遺体の腐敗があまり進行していなかった。というよりか私が知る限りどの腐敗進行にも有り得ぬ様相であった。眼球と唇ななく歯は剥出し、体は子供ほどの背丈に縮こまって、全身は青黒く、皮膚は所々破れ、腕と足は細く緑色の斑点がある。腹は妊婦のように膨れ上がり、爪は指先から骨が飛び出たように太く鋭かった。何よりも棺を内から外へと押そうとしているように手の平を前へと向けていた。田辺の伯母については昨日、写真で見せてもらったがどう考えてもこのような御遺体になるとは考え難い。これはやはり旧支配者の呪縛の兆候であろうか。

 御遺体は棺ごと縷々伊江と運び、荼毘に付すこととなった。それには先頭で銅鑼を鳴らすもの、棺を載せた荷車を引くもの、それを後ろから押すもの、火葬用のガソリンや薪を背負う火葬技師、そして私が縷々伊江に向かうこととなった。縷々伊江は山を越えなくてはいけないので重労働であったが何の役割りもない私が文句を言う立場ではない。私は黙々と彼らの後を追った。時折、手伝う旨を述べるも余所者を受け付けないのか彼らは頑なに私の手伝いを拒否する。

 山の中腹にまで進んだ時、晴天だった空は急に曇り、そして雨が降り始めた。棺を濡らさぬように布が掛けられ、私達は縷々伊江へと急いだ。雨は止むことなく、むしろ次第に強くなった。風も相まって横殴りの豪雨となる。地面はぬかるみ荷台は進み難くなった。さすがに手伝わなくてはと私は手を貸した。彼らも拒否することはなかった。私は荷台を後ろから押しながら山道を進んだ。しばらくすると空が瞬き、雷音が鳴った。私達の心と体を震わすように雷鳴が轟く。その雷鳴の中に崩落の音を聞いた。皆はその音の方へと振り向く。そこは崖で、崖上から土砂が波のように崖を滑る。私達は急いで進んだが私達は土砂に流された。だが、そんなに流されることなく、土砂に埋もれることもなく、私は土汚れにあった程度で被害は少なかった。しかし、二人が被害にあった。一人が足を捻挫し、もう一人が体を大木に強打して。さらに荷台の車輪が片方壊れてしまって運ぶには二人で持ち上げるしかなかった。そこで棺の運搬を一時中断と私達は決めた。そして怪我をした二人を町の病院へ連れていくことにした。それには怪我のない二人が肩を貸して下山することにし、私はここで応援が来るまで待つこととなった。私も下山をしたかったが誰かが棺を見守らなくてはいけないので私は待つしか他なくなった。曇り空だが雨は止んでいて、怪我のない二人が急いで棺を坂の上まで運び、私に坂の上で棺と待つようにと言った。

 異変が起こったのは彼らが去ってから30分ほど経った頃だ。棺から音が発せられた。その音は始めは小さかったが次第に大きくなり、棺が内からの暴力で震えた。私は棺の上に上半身を乗せて震えを止めようとした。だけど力は強く止めることはできなかった。そして木々が折れるような音を聞いて私は怖さで棺から離れた。音は増え、それに比例するかのように棺が割れ始める。そしてとうとう棺の蓋が破れ、腕が外へと伸び、現れた。私は大きく後ろへと後退りした。もう一本の腕が現れて、そして顔が現れた。私は悲鳴を上げて棺に背を向け、走った。距離を取り、棺を窺った。棺から御遺体は這い出た。そして立ち上がり、天に向かって雄叫びを上げた。それはもう御遺体ではなく伝承の死人であった。そして死人は私に顔を向けると叫び、走ってきた。私は全身粟立ち、悲鳴を上げながら全力で逃げるように山道を駆けた。坂を降り、蛇道を進み、竹藪の中を突っ切る。そして荒原を走り、私は道の終着点に辿り着いた。塀があり外から尖塔、長年の風化により形が分からなくなった銅像、砕けた石柱が窺える。そうそこは縷々伊江であった。

 私は縷々伊江に逃げ込み、石柱に身を隠した。縷々伊江の中へと目を向ける。入って右奥に大きな窯があり、どうやらあれが火葬炉であると思われる。他が古くさいなか窯だけは新しく、人の名残が残っていた。私は塀の入り口に気を配りながら窯に近付いた。何か武器なるものを探した。以前の火葬の際に残った薪が置いてあり、その薪の近くに火ばさみが置いてあった。火ばさみでは少し心もとないが、ないよりはましだろうとそれを手にした。そして窯を調べた。屈まなければいけないくらい天井が低い。窯の中には何もなく、奥は天井が高く、煙突口があった。火葬には大量の薪が必要だった。多少は予備の薪はあるがそれだけでは足りないだろう。近くにガソリンタンクがあった。火ばさみを置いて、ガソリンタンクを抱えた。少し重みがあり、揺らして確かめてみると、中にはまだガソリンが残っていた。これなら死人にかけて、火を着けて燃やせば消し炭にできるだろう。少し離れた所に机と椅子があり、机の上にチャッカマンがあった。確認してみるとまだ使用は可能らしい。しかし、どうやってガソリンを死人にかけようか。バケツはない。なら石柱に登り、上からガソリンをかけるべきだろう。

 そこで後ろの気配に気付いた。倒すことを考えていたせいでうっかりしていた。やつは火葬場近くにまでいた。私は背を屈めてガソリンタンクを抱えて窯へと入った。死人はまっすぐ俺に追い掛けてきた。死人は背が低くなっているとはいえ、少し屈まなくてはいけない。それをしなかった死人は額を入り口にぶつけて倒れた。私は奥へと進み、煙突口から外に出た。死人は中に入り、爪を伸ばして私の足を掴もうとする。私はガソリンを死人の頭からかけて、ライターに火を灯してそれを死人へと投げた。火は一気に燃え広がり死人を抱き、煙が登る。私は煙突から離れて窯の入り口を閉じた。中からは断末魔が発せられる。そして入り口を叩く音が。私は両手を握り、祈った。だが窯の入り口が破られ、中から火だるまの死人が現れた。私は後ろへと下がる。その時、硬いものが足に触れた。それは火ばさみであった。私はそれを手にして、ゆっくりと近づく死人の胸に向け突いた。死人は突き飛ばされて一歩下がるが、すぐにまた私へと近づく。次に私は火ばさみで死人を突くのではなく近づけさせないように押し止める。火の熱が熱伝導で火ばさみを握る私の手に伝わる。私は火傷の痛みに耐えつつ、絶対に手を離さない覚悟で火ばさみで燃える死人を押し続ける。そしてやっと死人の膝崩れ、地面へと体が横たわる。それでもなお死人は腕を私へと伸ばしてくる。私は大きく後退り安全な距離を取った。死人は小刻みに震え、とうとう動かなくなった。後には黒い煙が立ち登る。

 しばらくして応援がやって来た。安心したせいか私の意識は安らかに落ちた。次に目を覚ました時、私は病院のベッドの上にいた。両手は火傷で包帯が巻かれている。そのことからあれは夢ではなく現実で起こったことだと再認識した。それから町長やお坊さん、何らかの威厳を持った老人たちが面会にきた。そして私にあの場所であったことを口外しないこと忠告する。そして縷々伊江の火葬場で起こったことは外には上手く誤魔化しているという。この時の私は全てを公表するか否かで迷っていた。あの時のことは事実ではあるが一体誰が信じるだろうか。私の気が触れたと思われるのが落ちだろう。なら、黙るべきが賢明かもしれない。しかし、どこかに恐怖を誰かに話すことで恐怖心を緩和されるのではと期待があった。そんな時に訪れたのが彼らだった。彼らはあの場所であったことについて理解していた。だからこそ、あのことは心の内に留めておくのがよいと悟られた。

 ゆえに私は黙秘することにした。ただ、それでも気が休まらず。恐怖が私に付きまとうのだ。ゾンビ映画や葬儀に関することを目に耳にするだけで、私の心はざわめくのだ。だから多少の安らぎのため、こうして私は筆を取っている。誰に見せるわけでも、読ませるわけでもないのに。

 全てを書き終えて、両手を見ると火傷の跡が。

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