二言目 ワード・イーター
「ありがとうおじさま!じゃあ先に行ってるね!」
ぱあっと顔を輝かせた二階メグは、すっくと立ちあがると身を翻し、惨憺たる有様の研究室から躍り出ていった。彼女の一挙手一投足できらきら輝く粒子と音が踊るのは気のせいだろうか。そのついでに埃がまた舞い、大場は、煙たがるように払う仕草をして。そして「……どこに?」と呟いた。
成る程、自分で言っていた通り、かなりのドジであることを早速証明してくれた。後ろに軽く流した白髪交じりの頭をばりばりと掻きつつ、大切な蔵書を踏み潰さないよう、慎重に一歩一歩、研究室を歩み出る。
「教授!」若い男の声。
「大丈夫ですか?何があったんすか、えらい音がしましたけど……」
物音を聞きつけた教え子が困惑した表情で、埃まみれの大葉と、その背後の本の海を覗き見る。
「ああ、田原……心配ないよ。ちょっと盛大に転んでね」
ふと、この騒ぎは学生たちが仕掛けた悪戯なのではという疑念が頭を過った。以前にもあった事だ。唐変木を地で行く大葉をからかおうと、研究室の蔵書を全て成人向け雑誌にすり替えるという大仰なもので……しかしどこまでも淡々と対応する大葉の反応は面白くもなんともなく、それなりに労力を割いた若者たちを大いにがっかりさせた。
その首謀者は、目の前にいるこの軽薄な男である。
「田原。美少女戦士を見なかったか?ぴちぴちひらひらのコスチュームを着た」
「いえ……」
田原は田原で、その時の仕返しをされているのではないかと疑った。
――――――――――――――――
別棟から歩み出ると、本棟との間を結ぶ並木道、真黄色に染まった銀杏の絨毯が広がっている。戦時中に建てられたものを利用した別棟の赤煉瓦とコントラストを織り成すこの光景を、大葉は気に入っていた。ほんの少し、冬の兆しを感じさせる風の冷たさがまた、心地いい。
「おじさま!ごめんなさい!私、また慌てて……きゃー!」
ずざざざ、どしーん!全速力で駆け戻ってきたメグが、銀杏の葉っぱで滑って転ぶ。「いたたた……」立ち上がってお尻をさする。ただでさえ短いひらひらのスカートがめくれ上がっているというのに。そんなことしたら更にお尻が露わになる。
大葉はそれをまざまざと見せつけられて。なんかもうわざとだとしか思えない煽情的な彼女の振る舞いに、やはりこれは誰かの
「まずは落ち着きなさい。私は何処に行き、何をすればいいのかを教えてほしい」
「駅前の大通り。ワード・イーターが暴れてるみたいなの」
「ふむ、それで」
「連れて行って!」
「……道を教えれば済むことでは?いいかい、正面口から西へ真っ直ぐ――」
「おじさまと一緒でなければいけないの。理由は……ええと……あれ、なんだろう。教えてもらってない気がする。とにかく連れてこいって言われただけで……」
さっぱり、わからん。
うーんうーんと首をひねる少女と全く同じ仕草で悩みたい気分だ。
大葉は軽く溜息をつくと、悩み続けるメグへ毅然と言う。
「とにかく、私も行けば良いんだな?急いでいるんだろう。行くぞ」
百聞は一見に如かず。研究の基礎だ。
―――――――――――――――――
大学前、市営バス停留所に並んでバスを待つ二人。
「あのう……おじさま?これって」
「免許はあるが、車はない。私の足では二十五分は掛かる」
「で、でも、急がなきゃ、皆が……!」
びょんびょんと跳ねて焦れるメグ。その度にぼよんぼよんと揺れる胸。
「慌てなくても、じきに来るから」
落ち着き払って応える大葉。しかしやっぱり気が散る。揺れすぎだ。
「……その恰好はどうにかならないか?その……色々と……その」
「どうにか?いろいろ?」
きょとんと首を傾げるメグの隣では、あとから並んできた初老の婦人が、色々と丸出しの少女を見て「あらやだ」という顔をしていた。
「だから、その……」
はしたない恰好をどうにかしてほしい。という言葉を飲み込む大葉。ご婦人の蔑む様な視線は、大胆なボディスーツを着る少女よりも、彼女に腕を絡み取られて立つ大葉自身に向けられている事に気付いたのだ。弁解すればきっとドツボにはまる。
大葉はご婦人の刺すような視線に耐え。
「……来ないね」
メグはぽつりと呟く。
「…………」
「…………!」
何処かでまだ彼女の言を疑い、事態を静観していた大葉は、彼女が訴えかけているものが、市営バスの運行を止めたのだと悟った。
目の前を、パトランプを漲らせた数台のパトカーが全速で通過した。
――――――――――――――――
(美少女戦士?ついに耄碌したかあのじいさん……それにしても)
嵐が過ぎ去った後のような大葉の研究室のあと片付けを、どこからどうやって手をつけていいものか。呆然としていた田原に、息を切らして戻ってきた大葉が『ぴちぴちひらひらのえっちなコスチュームを着た美少女』を伴っていたので、田原はまた唖然とした。
大葉は、何か言いたげな教え子を鋭い目線で制し、それから、低く呟く。
「……田原、頼みがある。車を貸せ」
――――――――――――――
駐車場に雑に停めてあった田原の愛車の車種は、その手のものに疎い大葉には判らないが、とにかく黒い車体に赤のラインが施された、スポーツタイプのそれなりに高級な外車。彼は資産家の一人息子で、その所為だとは言わないが、とにかく何事につけ傲慢で、好き勝手に振る舞う我儘な青年で、この停め方もその現れ――
「――おじさまっ、はやくはやく!」
助手席に座るメグは自らきっちりシートベルトをしていた。その辺を何故かきちんと理解しているのは謎だが、そのシートベルトで彼女の胸がえらいことになっている……ことに、大葉は気付かない。
「どうしたの?」
「急かすんじゃないっ」大葉、大慌て。
大葉はMT免許を取得して以来、AT車を扱った事がなかった。息子が生まれた時に買った中古の国産車を、彼が高校を卒業するまで騙し騙し使って。それきりである。しかも最新の電子機器で作動するものとなると。ちんぷんかんぷんだ。
パニくる大葉。うなるワイパー。
色んなボタンを手当たり次第に押し。
二人を乗せた車は、大爆音の♪Metallica - Whiplashと共に発進した。
―――――――――――
うら寂しい地方都市らしい、車通りの少ない国道を疾走する黒い影。
軽く踏み込むだけで、身体がシートに沈み込むような加速感。高く唸るエンジンの躍動。指先をハンドルに触れるだけで動きを鋭く伝えるステアリング。十数年ぶりに乗る車、しかも右ハンドルのレーサー車はまさに暴れ馬。
何もかもがデジタルで埋め尽くされた計器類に翻弄される大葉は、ブれにブれる速度計を読み取ることすら困難だった。決して老眼の所為ではない。
「おじさまぁっ!前見て!前ぇえっ!」
「うおぉおッ!?」
正面から猛スピードで突っ込んで来る車。大葉はきちんと走行車線を遵守している。相手側の逆走だ。
『何か』から必死に逃れてきたものとの衝突を逃れようと。大葉は必要以上にハンドルを切ってしまい、燃えないゴミを蹴散らして、歩道に乗り上げる。
「ああっ、前に赤ちゃんを抱いたお母さんが!」
「次はふろしきに包んだ荷物を背負うおばあちゃんが!」
ラリーではあるまいし。隣でやかましいメグの絶叫に従い、次々と障害物を躱していく大葉。車の後部が大きく振れ、カウンターを切って姿勢を持ち直し、片側二車線の国道に舞い戻った。
キュキキキキッ!
タイヤが焼ける音と臭い。あとメタリカが、久しく忘れていた大葉の闘争本能的なものを燃え滾らせ始めていた。大葉もやはり、男なのだ。
さあ、次はどっちだ?右か?左か!駅はもう、次の交差点の先だ。
「上ッ!」
空中をきりもみ回転しながら軽バンが飛んできた。しかしどんと来い状態の大葉は華麗にハンドルを切る。車は大きく横滑り、ドリフトする。そして二人は同時に、流れる景色の中、駅前の広場で車を薙ぎ倒し、ひっくり返して大暴れしている「ワード・イーター」の姿を捉えた。
朧気な炎が揺れるような影。それが第一の印象だ。五メートルほどの体躯、角や牙。その造形や動きは何処かチープ。まるで出来の悪いストップモーション・アニメの怪物のようにすら見え。それはまだ、ワード・イーターという存在が現実世界に確かな現出を果たしていない事を示していた。
「あれが……!」
文字通りこの世のものではない存在の実存に畏怖した大葉はドリフトの制御を失い、車はそのままの速度でスピンしてしまった。
「……ッ!」景色がぐるぐると回る。
「おじさまありがとう。あとは私に任せて」
決然と呟いた彼女は、薄く笑っていた。
そしてドアを開け放つと、高速でスピン中の車から躊躇なく飛び出して、華麗に、見事に地面を転がり、着地を決めた。
「メグっ……!」
その後ろ姿を一瞬見た大葉に、激しい衝撃。
田原の愛車は、駅前商店街の土産物屋へ突入したのだった。
次回予告
――僕の名は石上サン。石の上にも三年の力を持つ言技使いだ。
メグめ。説明も聴かずにワードゲートに飛び込むだなんて、ドジに程がある。
ついでに突入の時に蹴躓いてゲートの基部におもいきり頭をぶつけたものだから、不具合が生じたゲートを抜けた言技使いたちは皆、世界各地に散らばってしまった。
なんてドジなんだ。
しかし、そこが可愛いのだけれど……。
大葉十雄流は言語学の教授。そして多くの諺を知る、数少ない諺マスター。
僕達の潜在能力を導き出すことが出来る彼が傍にいることで、初めて僕達の真の能力をこの世界に解放できる。だから彼は絶対に、必要だ。
メグ。決して一人で戦おうとするな。僕も今向かっているから。
タクシーで。
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