蛇足 その後の大友家

 お読みいただきありがとうございます。

 復活した大友家について拙著【事業承継に失敗した男 大友宗麟の息子 大友義統】より引用して紹介させて頂きたいと思います。


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 ■1649年 復活の大友家 高家として忠臣蔵にも関わる


 1612年で鎌倉時代より始まった豊後大名大友家は400年の歴史に幕を閉じた。

 だが大友義統の後妻である伊藤氏との間に生まれた娘、佐五局於賢が大友家を復興させるために弟である3男の松野正照のさらに3男、松野義孝に大友家を継がせた。(増補訂正編年大友史料32巻P5)

 母親が天皇の乳母をしており、朝廷にも顔がきいた佐五局によって、大友家は少ない禄ながら高家として存続し、忠臣蔵で殺害された吉良上野介の部下になった事もあるのだ。

 

 ▼高家って何? 江戸時代のマナー講師

 

 高家とは朝廷や幕府でのしきたりや作法について指南する役どころである。

 これはマナーに厳格な武士社会にとって重要な役である。

 ゆうきまさみ氏の漫画、「新九郎がゆく」では室町時代の武士たちが、足利家に仕えた伊勢氏に扇子の献上の向きなどの基本的作法を知らないと恥をかくのでそれを教わりに来ているのだが、この作法がとにかく煩雑なのだ。


 例えば義統が1593年の幽閉中に書き記した『酌の次第』という酒の注ぎ方を見てみよう(増補訂正編年大友史料31P125)

『杯を出すとき、主と客が対等なら少し客に寄せて出す。客人が上なら客人へ、主が上なら主の方へ出す。帰すときもだいたい同じと心得よ』

 から始まり、夜の酒宴での杯の置き方、肴を出すときにも身分によって出し方が変わるとある。


 この決まりは非常に細かく

『乱酒のときに「馬を進上つかまつる」(と宴の主から言われた)時には何毛の馬(が欲しい)と言って良い。そのときは式々の馬である。ただ『馬』と言うときは馬代である。よくよく心得よ』(増訂31P145)と酒に酔った際の「馬を与える」という言葉は「本当に馬を渡すのかタクシー代を出すのか」を見極める方法まで記載がある。酒の席に関するマナーだけでも20P。およそ100項目に渡って酒の注ぎ方を書いている。


 他にも小笠原氏から伝授された儀式は176Pに及び、武士の行事についてイラスト付きで、記載されている。


『矢口開き』という狩りに出て初めて獲物を得た時の御祝いでは、『儀式に使用する餅は白赤黒のもちを3つずつ置く』とか『餅の長さは昔は1尺二寸、幅は広い所が4寸』と使用する包丁やまな板の大きさまで記録し、これを使用した儀式の面倒な細部まで決まっている事が分かる。

 これを読むと「日本の儀式は複雑だ」と言ったフロイスの気持ちがよくわかる。まるで法律事典のようである。



 ☆マナーの問題で始まった忠臣蔵。吉良上野介は大友家の上司 



 これらの儀式を間違えると「あいつはマナーも知らない」と陰で笑われたり、『忠臣蔵』の浅野内匠頭のように、マナーを教えてもらえなかった遺恨から刃傷沙汰に発展したりするのだろう。(※諸説あります)

 実際、高家大友家を継いだ大友義孝は忠臣蔵の敵役、吉良上野介の部下として寛政重修諸家譜に名が残っている。


【大友義孝は明暦3年9月16日に召し出され12月27日に500俵を賜り、寄合となる。

 元禄1年11月25日に表高家となって500石を加えられ下野郡塩谷郡の内にいて千石を賜った。

 元禄2年1月11日に高家となって従5位下侍従となる。元禄10年には吉良上野介義央に添うて、その務を見習うよういわれた】とある。


 吉良上野介義央とは忠臣蔵の敵役として有名な赤穂浪士に討たれた吉良上野介、本人である。

 彼は1641~1703年の生まれだが、三河国吉良庄の生まれで元をたどれば足利家の分家であり、分家に今川家を有する室町将軍の後継者の家柄となる。

 この吉良氏が大友の上司となっていたのだ。

 彼と違って義孝はトラブルには巻き込まれず、71歳で正徳1年9月18日に没し谷中の玉林寺に葬られたという。


 ▼大友家がマナー講師になれた下地 


 大友家はこれらの礼法を、義統が浪人時代に家臣たちと一冊の書にまとめたおかげで知る事ができ、正式書類の書き方も知っていた。

 特に書状の書き方は足利幕府の大館氏や伊勢氏たちの書式の伝授を受け、これを改めたものだと言われている。

 400年の歴史と幕府の付き合いによる膨大な記録を持つ大友家は【公式の儀式において正確なアドバイスができる】という事で存続を認められたようなものである。

 義統が幽閉されていた3年間の遺産が今ここで花開いたのだ。

 大友義統は『当家年中作法日記』を書いたのが一番の功績、と一般には言われているが、大友家にとっては公家とのしきたりや作法について幽閉期間中に書き残したこと全般が一番の功績だったと言える。


 ただ、この高家という役職での収入は出費に見合わないものだったらしく、大友家は旧家臣だった立花家や肥後に仕官した家臣へ何度か援助を求める書状が送られている。

 柳川の立花家に大友家の文書記録が多く残されているのも、大友家が家伝書を立花家に買い取ってもらい、生計の足しにしたためらしい。

 ついでに大分市野津の一族も大友家と交流があったが、金の無心をされた書状がけっこう残っていると言う。

  

 ■明治以降の大友氏と研究者 


 増補訂正編年大友史料の編者 田北学氏の調査によると、大友氏は昭和30年代(1955年)には東京で生活し、33代目当主、大友義一氏が大友家文書録を保管管理していたことが分かっている。

 本書でも度々引用した増補訂正編年大友史料は義一氏が所蔵していた大友家の文書録に拠るところが非常に多い。

 また1987年には佐伯史談会128号 (1981年11月発行)P53~ 54の麻生英臣氏の報告によると横浜市磯子区に在住の大友家第三十六代 大友義介(よしあきら)氏が健在だったらしい。

 三菱銀行に長年勤務し当時70代の後半だったという。

 これ以降の足取りは不明だが、貴重な大友家の記録として興味のある方はご覧いただきたい。

『大友義介 佐伯史談』で検索すれば無料で閲覧できるようになっている。

(この貴重な情報は日田8郡老の子孫、世戸口政親氏のご教授によるものです。誠にありがとうございました)


 なお、大友家の大資料 増補訂正編年大友史料 の編者であり、一人で全てを収集したり訳した田北学氏は上野六坊の円寿東に邸宅があったが(ゼンリン地図1962年版で確認)、氏の没後分譲住宅地となったらしく現在は家のあった場所すら分からない状態だ。

 ご家族の方も引っ越して消息が分からず、一代で大友家の大研究をまとめた成果は出版された本の中に残るのみである。

 大友家の歴史を一代でまとめ上げた大分の歴史研究の大偉人の最期としては非常に寂しい思いがする。 


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 彼の事績も400年以降も語り継がれる事を願いながら、蛇足を終わります。

 作者のライフワークの副産物として、趣味100%で書いた物語を最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

 黒井丸@九州歴史研究会

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大友興廃記物語 ~下級武士の名の残し方~ 黒井丸@旧穀潰 @kuroimaru

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