第23話 1657~8年 蘇る大友家。蘇る豊後家臣団

 幼い男の子を亡くしたキサー・ゴータミーという女性は釈尊のもとに行き、死者を蘇らせる薬を求めた。

 釈尊は言った。

「ケシの粒を持ってきなさい。ただし、いまだかつて死人を出したことのない家からね」

 これを聞いたゴータミーは探し回ったが それを得ることが出来なかった。

 だが人生の無常ということを知り、出家して後にさとりを得たという。


 ~命ある者は必ず死ぬ~


 無常を説いた説話である。

 この世は常ならず形あるものはいつか滅びる。だが、そうでないものもこの世にはある。


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 「大友家が復活する?」


 田村の息子の言葉に杉谷は困惑した。

 大友家は宗麟の孫、義則が跡を継ぎ、その息子の代で血筋が絶え廃絶したはずだ。

 大名ですら改易が進む昨今、旗本の家が蘇るとは思えない。

「それがですな、さる方の強い要望で『鎌倉以来の名家を途絶えさせるべきではない』という論が強くなりまして」

 と田村は説明する。

「さる方とは?」

「宗麟さまの御子息、義統様と(後妻の)甲斐様との間の娘 佐五局様のご尽力によるものです」


 九州が平定され、豊臣秀吉の家臣となった大友義統は側室として後水尾天皇の乳母であった伊藤甲斐守の娘を与えられた。

 彼女と義統の間には二人の子供が生まれた。

 男子の松野正照と女子の於賢(御佐古の局)だ。

 松野正照は肥後藩に仕え3人の子を持ち、於賢は東福門院和子(徳川秀忠の娘にして後水尾天皇の正室)の女房を勤めているという。

 

 この於賢が松野正照の3男、鶴千代に大友氏を継がせようと長年尽力しており、その願いがついに聞き入れられたというのだ。


 戦働きでもなく、両国経営でもなく、宮廷の女性の力で大友家は蘇るというのだ。


「…信じられぬ。まさかそのような吉報を聞く日がこようとは」

 改易が進められ、大名家が減る事はあっても増える事はなかった昨今。

 日が西から登りなおすかのごとき珍事であった。


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「それはめでたい事じゃのう」

「大友の、屋形様の家が蘇るのか」


 その場にいた一同は立ち上がり、信じられない奇跡に喜びの声を挙げる。

「ええ、これは筑後の立花様が柳川の大名に返り咲いた事以来の慶事です」

 なお大友家は大名ではなく高家、武士のしきたりや礼法について教える指南役として千石を賜るという。

 これは大友家という鎌倉時代から続く家柄というだけでなく、大友義統が『当家年中作法日記』などの覚書で武士のしきたりを細かく書き遺し家伝書にしていたおかげである。


「田村様。そのような慶事をわざわざお教えくださいまして、誠にありがとうございます」

 と杉谷を始め、一同が深々と頭を下げる。

「いえいえ、杉谷様を始めみなさま方の長年にわたる大友家の顕彰。これは少なからず当家復興への励ましになっていたはずです」

 宗麟を無道と断じ貶めた数々の軍記の中、大友興廃記が宗麟を悪く書いたのは最初だけで、それ以来戦いの勝敗は武家の常、時の運である。としていた。

 それは子孫や旧家臣にとって大きな心の支えとなっていたのだという。

 そういうと田村も深々と頭を下げた。

「頭をお上げくだされ。田村様」

 いくら自分の方が年長とはいえ士分を捨てた男に、頭を下げるとは思わなかった。

 田村は襟を正すと杉谷に向かって言う。


「この慶事は是非後世にまで語り継がれてほしいと御佐古様はお思いです。そこでたっての願いとして、杉谷様にこの大友家復興について書き記して頂きたいのです」


 齢70を超えた杉谷にとって、驚きのあまり腰を抜かしたのは生涯これが最初で最後だった。


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 身内のためだけに書いていた物語に、急に公式から寄稿依頼が舞い込んできたのである。

『大友興廃記』などという大層な名を許可も取らずに書いていた人間にとって、その申し出は予想外だった。

「何故私のような僻地の山人にそのような大役を仰せになられるのでしょうか?」

 当然の疑問を杉谷は告げる。すると


「それは杉谷殿の書だけが、御佐古様の御祖父様である_だそうです」


 大友興廃記には宗麟がキリシタンだったとは一言も書いていない。

 幼少期に乱暴者だったという記述はあるものの、その後は終始一貫して宗麟は最善を尽くしていたし、良くない禅宗に執着したとはあるが、『大友記』のように国中の僧侶を追放したとか、色に迷って政務を省みなかったなどのデタラメな悪口は書いていない。

 それが評価されたのだという。


『縁というのは大事なものじゃ。下らぬ者にまで誠意を尽くせとは言わぬが、先祖が世話になった方たちの悪口は書かぬ方がよい』


 かつて佐伯惟重に言われた言葉が杉谷の脳裏に去来した。


 多くの大友家臣の子孫とつながった22年。

 彼らが命をかけて仕えた大友家を悪く書く事はしたくなかった。

 大友記や九州治乱記など他の軍記が宗麟を『邪宗にふけり、好色に溺れ、国を滅ぼした』と悪口を言えば言うほど、興廃記では逆境にあってもあがいた佐伯や竹田の住人の活躍を描き、その忠義を受けるだけの価値がある存在として宗麟を書いた。

 大友興廃記とは主君である佐伯が最後まで忠義を尽くした大友家の話であり、それに繋がる者たちを貶める事はしなかった書である。

 たとえ百人が嘲笑しようとも自分一人だけは大友家を崇敬する。

 幾百の本が宗麟を邪宗の徒と書いても、そのような人間が家臣の崇敬を受けるはずがないと最後まで礼節を欠かさなかった。


 その答えがこれだった。


「……これが……これが、私の生きてきた理由か…」

 まるで、人知の及ばない何かに杉谷は認められた気がした。

『お前の人生は無駄ではなかった。お前のしていた事はこうして報われたのだぞ』と。


 かつて、何のために生きるのか自問した己に、今の杉谷なら胸を張って答えただろう。


「全てはこの時のためだった」


 と。


 身の丈に余る大役に杉谷は

「鎌倉よりの名家の御再興。そのめでたき門出を記させていただきます大役。つつしんでお受けさせて頂きます」

 とうやうやしく頭を下げた。


 齢62年。40歳より物語を初めて22年。

 何者にもなれなかった杉谷は、晩年にして自分が満足できる功を挙げることができたのである。


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 そして、最後の22巻。

 もともと前巻で終わる予定だった大友興廃記は、色々な話をかき集めた。

 21巻の最期は改定され、肥後国一揆の話を付け加える事で『もうすこしだけ続くぞい』と読者に伝え、それに続く1588年以降の話を書く必要が出来た。


 大友家を裏切った小笠原晴定の処罰や、大友家の家宝『骨啄刀』を秀吉に譲渡した話。

 その後に、義統が秀吉の小田原攻めへの応援に向かった話を掲載し、『校割』という項をもうけて鎌倉の名物を書き記している。

 鎌倉は大友発祥の地に近いが、大友家とは一切関係ない場所である。

 新たな大友家当主となった義孝に江戸で面会し、その帰りに鎌倉見物をしたのかもしれないし、せっかく記録したのだからそのまま掲載したのかもしれない。


 次に1591年に豊後で起こった怪異現象を書き、大友家滅亡の前兆のような演出をしたあと、大友家の改易、そこから2つの些末な話を書いた。

 そして最後に


『大友義統の嫡男 義乗公は家康公の北国発行にお供し戦忠を励まされ、2代目秀忠公に扶持の助成があって江戸で逝去されたと聞く。

 義統公2男 松野右京亮正照は肥後細川の末にあり。

 (その松野の)3男は多年禁中に居住していたが大友左近将監に任じられ16歳の秋、仁和寺の取りなしで明歴3年9月16日に徳川家綱公に召し出された。

 大友内蔵助義孝と号せられ、絶えて久しい大友家末に繁茂があるだろうかと贔屓の沙汰として末頼もしく国人は申しあった。

 予は愚昧にして不屑(無価値)と言えど、人の伝説を聞いて巻を成すこと20余にしてその万が一を記す。

 若人有りて、不善不全これを正して変葉に伝えればこれ幸いかな』


 大友興廃記はこのような文で閉じられる。

 星の数ほどある軍記の中でも。 


「都では大して評価されず、身内だけで楽しまれて書いていた興廃記じゃが、このような事もあるのじゃなぁ」

 出来あがった22巻を見返して杉谷は感慨深く言った。

 佐伯様から命じられて22年。長きに渡った活動は世に埋もれたまま、死んだ後に託すしかないと思っていた。

 おそらく活字で出版され多くの人に読まれるほどの評価は得られないだろう。

 だが、


「ああ」


 杉谷から満足げな息が漏れる。そして


「わしはこの本で、この時を書くために生きていたのかもしれぬなぁ」


 かつては目通りすらかなわない大友家という存在に、杉谷は己が力で到達したのである。


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『大尾(おしまい)』




 1659年夏 その一文字を書いたあと、杉谷は重い荷物を下ろしたように、大の字になって倒れた。


「惟重様!」

 かつて主の主としてあおいだ故人に杉谷は呼びかけた。


「24年の時を経て、この宗重、主命!完了致しましたぁぁぁぁ!」


 若者のように杉谷は咆哮した。

 長い物語を終わらせた事で、杉谷は全てから解放された気がしたのだ。

 家名を残すという呪縛。自分の、佐伯様の名を後世に残したいという願い。

 自分と、自分につながる人間の祖先の名と業績、そして豊後の姿を彼らの子孫や未来の豊後の民に伝えたいという祈り。

 それらの全てが、この2文字に集約された気がする。


「惟重様、貴方様の「励め」のお言葉でなんとかここまでやり遂げる事ができましたぞぉぉぉ!」


 遠き昔に死別した主の名を杉谷は再び口にしていた。

 佐伯の庵の片隅で、大友家、そして佐伯家の家臣であった杉谷宗重は400年続いた大友家の歴史を書きあげた。

 そして、新しく蘇る高家としての大友家の未来に希望を感じて話を閉じた。


 家臣として、物書きとして、これほど幸せな事があるだろうか。


 大友家の看板を借りて、佐伯家、ついでに杉谷家の記録を残した物語は大友家の再興という奇跡を記して終わりを告げた。


 これ以降、杉谷宗重の記録は消え、いつ亡くなったのかはつたわっていない。

 大友興廃記も江戸時代どころか明治・大正まで活字で出版される事は無く、昭和11年。1936年に『大分県郷土史料集成刊行会』という団体が『大分県郷土史料集成』という本を敢行するまで、活字化される事もない知る人ぞ知る本として写本で存在が知られていた。


 しかし研究が進むに従って、大衆に人気があった小瀬の書いた『信長記』は忘れられ、信憑性が高いとされる太田牛一の『信長公記』が再評価されたように、杉谷の書いた『大友興廃記』は当時の豊後の伝承を知るための貴重な資料として様々な本で引用、検証されている。


 300年の時を経て杉谷は後世に名を残したのである。


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「ついに我が大業成れり!皆の衆!今日は思う存分飲んでくれ!!!」


 花香る1559年の春、全てを書きあげた杉谷は寄木の岩で祝杯を挙げた。

 ささやかながら酒と肴を買い、村人たちと大友興廃記の完成を祝ったのだ。

「ようわからんけど、先生はさすが先生だ!!!」

 と言う言葉のように、因尾の村人はどのような功績を挙げたのかよく理解してなかった。

 杉谷自身も、それがどれほどの意味を持つのか自信はなかった。

 だが主命を果たし、家の名を後世に残すと言う役目は達成できた。

 これで十分だろう。


 ハレの日の祝いとして浴びるほどの酒を飲んだ杉谷は夢を見ていた

「惟重様…」

 大友興廃記を書いたばかりの頃、天上人にも等しかった佐伯様から声をかけて頂けた時の事。

「杉谷は…励み…ましたぞ」

 『励め』の一言で筆をとった時、ここまで長く書き続けるとは思いもしなかった。

「猪兵衛様…田村様…」

 すでに鬼籍に入った者たちの名を呼ぶ。

「私は、大友様の…田村様の…佐伯様の…杉谷の…」

 涙を流しながら、懐かしさに胸が潰れる思いで


「皆さまが生きた証を残しましたぞ…」


 自分の一生は無駄ではなかった。

 

 貴方達の人生も意味のあるものだった。


 そう祈るような気持ちで杉谷は「残しましたぞ…」と言い続けていた。

 



 この後の杉谷はどのようにして生きたのか?


 史書は伝えない。


 肥後波野村に杉谷の墓というものがあるが、それは彼の祖先のものだろう。

 多くの人物の名を後世に残した人物ながら、その足跡は失われたと言って良い。

 だが、彼が書いた22巻の物語は豊後で生きた者たちの姿を今に伝えている。


 彼が愛した佐伯の風景は今もなお健在であり、そこに住む佐伯家臣の子孫達が祖先の事を想う限り、杉谷宗重が残したものは佐伯の地で、豊後で、子孫達の心で、消えることなく輝き続けるのだ。


 大友家よ、永遠なれ。


 佐伯の家よ、末代まで続け。


 杉谷という文人の著作よ、大友家の興廃を書き記した唯一の書よ、豊後の、豊後に関わった全ての生命の中に輝き続けよ。

 我はここにあり。我らはここにあるのだ。


 ~下級武士の名の残し方 大尾~  

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