四の鞠

 慶長十七年、すなわち今川氏真が七十四歳、徳川家康が六十九歳、そして大坂の陣を三年後に控えた年のことである。この頃既に江戸幕府将軍の位は二代秀忠に譲られており、家康は駿府城にあって名目上は隠居としての暮らしを送っていた。そこに、今川氏真が訪れ、家康と対面したという記録が残っている。この駿府で初めて会ったあの日から、既に暦が一周するだけの歳月が流れていた。

「お久しゅうお目にかかります、家康公」

 そう言って、氏真は格式通りの礼をしようとしたが、家康がそれを遮った。

「いや。互いに隠居の身じゃ。堅苦しい挨拶は抜きでよい。のう、龍王丸どの」

「懐かしゅう御座いますな」

 まさか氏真の側から家康を竹千代と呼ぶわけにはいかないが、二人の脳裏に去来したものは等しく同じ、あの初めて一緒に鞠を蹴った日のことであったのであろう。

「されど、日の本の天下を公がまあるく平らげられましたこと、まずはお祝い申し上げます」

「蹴鞠は、今も続けておられるのか」

勿論もちろんにございます。されど、わたくしも年を取りました。もはや、お見せするには御見苦しい次第にて」

「そうか。惜しいの。余は結局のところ、蹴鞠はついに身に付かなかったが。

かつて、蹴鞠の輪は人の和のいいであると、そなたは説いたのであったか」

「畏れながら、そのようなことを申し上げたことも御座いました」

「余は、とうとう蹴鞠の道にも和の道にも縁がなかったな」

「いいえ」

 氏真が答えると、家康は意外そうな顔をした。

「天下をまあるく平らげられたること、これ、人の和の道に通じまする。これからは、人々が平和の中で鞠に興じて暮らすことも叶いましょう。まあ、ここに来るまでには色々なことがありましたが、わたくしは心より、今日の天下泰平を、慶事と思うておりますよ」

「そうか」

 皮肉を言っているわけではなかった。それは氏真の本心であった。

「時に実は、わたくしが手ずから鞠の道を教えましたる孫がひとり、おりまして」

「ふむ」

「もしも宜しゅうございましたら、これを将軍家に仕えさせ、鞠の芸を披露するものとさせていただければ、これに勝る喜びは御座いません」

「ふむ。よかろう。浅からぬ縁ではあるしな」

 こうして、二人の最後の会見は終わった。そして氏真は三年後、大阪の陣の終わりを見てのち、世を去った。

 今川氏真の孫、今川直房なおふさは徳川家に仕える旗本高家こうけとなり、その家は幕末まで続いたという。

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至極の鞠 きょうじゅ @Fake_Proffesor

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