赤い髪のお姉さんと女装できない男の娘

冬寂ましろ

それはある日のこと…


 「私、レズバーの店員やります」


 リノさんのグループチャットへの書き込みは文芸サークルのみんなを震撼させた。え、リノさんそっちだったの?とか、なんで夜の接客業?とか。さらに勤め先が新宿2丁目で、あ、これガチな奴だ、と騒ぎ始めた。

 私はそれらをスマホで見ながら、この人はもう…とか思っていた。リノさんは衝動的に何かやる突飛なところがある。そしてそのしわ寄せはだいたい近い人のとこに行く。以前リノさんのバイト先に遊びに行ったら、私がリノさんの代わりに働かせられる段取りになってて逃げ出したことがあった。リノさんは仕事を私に押し付けて、ほかのことがしたかったらしい。そんなことが何回かあった。


 次々積み上がるメッセージを生暖かく見ていたら、リノさんからダイレクトに連絡が来た。


 「トガちゃんは来てくれるんでしょ?」


 私は1分ぐらい嫌な顔をしてから、一応行きます、とだけ返した。




 リノさんが働くレズバーNは、新宿2丁目の仲通りから路地を少し入ったところにある。見た目はシンプルな感じで、言われなければそういう感じはしなかった。少し重い扉を開けると、薄暗いいかにもバーぽい風景が現れた。


 「いらっしゃいー、あ、トガちゃんだー!久しぶりー!」

「お久しぶりです、リノさん」

 「こっち座って、あいてるから」


 扉に近い位置のちょっと高い丸椅子に座り、マホガニーのカウンター越しにリノさんを見る。白と黒でスマートに整ったバーテンダーの服が、アップにまとめた髪によく似合っている。


 「はい、お通しー」

 「ありがとうございます」

 「水割りでいい?」

 「お願いします」


 意外と慣れた手つきでグラスに酒を注ぎ、水と氷をくべていく。


 「夜の接客を始めるなんて、いったいどうしたんですか?」


 聞かれたリノさんは、かわいい色使いのコースターを敷き、琥珀色に染まったタンブラーをやさしく置いた。


 「やってみたかったんだよね」


 それしか言わない。この人はいつもこれだ。


 「あ、私も一杯いいですか?って聞くんだって」

 「はい、どうぞ」

 「ありがとう!」


 リノさんは低めのグラスへ雑に酒を注ぐと氷を2、3かけら手で入れた。変わらず酒飲みなんだなと思う。


 「かんぱーい!」

 「はい」


 ガラスの澄んだ音をさせると、リノさんは自分の酒をほぼ飲み干した。リノさんはにこやかに聞く。


 「で、バニーガール、いつするの?」

 「はい? 誰から聞いたんですか?」

 「カンバラさんから」

 「私、知りませんよ」

 「即売会の売り子させるって」

 「ますます知りません」

 「えー、せっかく業者に発注しようと思ったのに」

 「高いでしょ、そんなの」

 「似合うと思うんだけどな」

 「着ませんよ」

 「私としてはトガちゃんがバックラインの食い込みができたらどうするか、興味があるのよね」

 「興味持たないでください」


 悪い人ではないのだ。こんな私にわりと目をかけてもらい、遊びに連れてってもらったり物書きの仕事を融通してくれる。ただちょっと、あれなのだ。


 「いらっしゃい!」

 「あ、こちらマスターのはーちゃん」

 「はじめまして」


 はーちゃんのグラスと私のグラスを重ねる。いい音が響く。その人は丸メガネが似合う優しそうな人だった。スーツをピシッと着て、髪は男っぽく短くまとめている。はーちゃんがあれまという顔で私に話しかける。


 「びっくり。女の子かと思った。だって髪長いし、顔かわいいし」

 「……はい、男なんです」


 心に刺さったその言葉のトゲを悟られないように、上面だけな笑みを私は返す。


 私は男の体だけど、中身は女だ。それをみんなに隠している。

 いまの格好はジーンズのパンツに大きめなパーカー。華奢なメガネにツバが広い帽子をかぶって、華奢な長い髪はポニーテールにしていた。本人はボーイッシュな女の子と念じて着ている。そして誰かに聞かれたら女装じゃないから、と言い訳できるようにしていた。いつもそう。いま私にできる精一杯。

 男が女の格好をするのはキモいとみんなに思われる。でも自分が男であることを突きつけられると、体を切り刻まれるぐらい慟哭する。私はあいまいだ。狭間だ。仕方がなかったし、どうにもならなかった。

 カウンターに並べられた琥珀色に揺れる綺麗な瓶たちを眺めて思う。…やっぱり来なかったほうがよかったかな。

 リノさんにせがまれてフォワローゼスのボトルを1本入れる。お値段は思ったよりは安かった。




 翌週Nに行くとカウンターは男だらけだった。よく見ると文芸サークルの見知った顔が多い。リノさん狙いなんだろうな、と察しはつく。その人、言わないだけで彼氏いますよ、と教えたくなるのを我慢する。夢は壊しちゃいけない。

 ボックス席を詰めてもらって、どうにか入ると、はーちゃんが水割りを作って持ってきてくれた。


 「ごめんね、今日混んじゃって」

 「いえ、それにしてもすごい人気ですね」

 「最近いつもそうなの」


 へー、リノさんすごいな。

 うちらがいるある大学の文芸サークルは、現役よりOBのほうが多くて、そちら同士の繋がりが大きい。OBは出版社ほか、いろいろな会社に在籍している。リノさんは物書き以外にヘタウマ系イラストとかマルチな才能があり、作ったものはOB達がいる会社で採用されたりしていた。OB達は彼女が作る作品のファンでもあるし、彼女自体のファンでもあるのだ。いろんな意味でみんな欲しがる。


 水割りをちみちみ飲みながら店を眺めていると、バーでの男たちの動きが二分されているのがわかる。

 とあるほうは「そういえば」と言いつつカバンから何か取り出す。それは発売されたばかりのスマホだったり、カメラだったり。これはどうのこうので、ああだこうだ、というスペックや機能の解説を始め出す。興味ないほうからしたら「へーそうですかー」としか返せない内容だ。そしてだいたい最後は「撮ってみる?」となって、接待してるほうを写す。なんか物で気を引きたいんだろうな、とは思う。

 もう片方は「女の子同士どうやるの?」という小学生みたいな質問を従業員に投げかけていた。そこははーちゃんの領分で「手と口ですよ」「おもちゃはめったに使いません」とばっさり返してる。たまに指の動きとか見せると、キャッキャッと男達は喜ぶ。

 女たちは、それを眺めつつ、ゆるい別の世界を作っている感じだ。ときたま話しをしながら、静かに笑う。たまに客同士のイチャイチャが高じて、あ、服の隙間から手を入れてるな、と思うと、すかさずはーちゃんが「うちはそういう店じゃないから」と外に追い出している。

 水割りのグラスを空にしながら、不思議な店だな、と店の灯りみたくぼんやり思う。





 まさか自分がレズバーに入り浸るとは思わなかった。だいたい週2回以上で通いだした。

 レズバーは女たちの女同士の狩場みたいに思っていたが、Nは男も店に入るし、女のほうは会話を楽しむことが多い。みんなはーちゃんが作っている適度な店の雰囲気が心地良かったのだ。

 仲良くなったNの常連さんに連れられて近くのゲイバーに何軒か行ったことがある。異性装の店に行くと、女物の服を着ても男を感じる違和感が、自分もそうなんじゃないかと思って震え出す。私が持つ根源的恐怖なので、申し訳ないけど、どうにもならない。察しがいい店だと、同族的な話をされる。隠したいほうとしては、あまり触れて欲しくない。そうじゃないお店もあったけれど、結局Nの居心地に勝てなかった。

 私に対する一般的な女性は、だいたい無視するか、少し笑うか、異性装で恥ずかしがる姿が見たいとか男同士のセックスが見たいとか、少し歪んだ人が近づいてくる。Nはそんなことがなかった。女性は安全圏にいるけど見てはくれてるし、深いところまでこちらに入ることはなかった。

 一方で男性は知り合いじゃなければ、基本的に従業員が相手してくれる。はーちゃんの気配りはあちこちにおよび、雰囲気を壊さないようにしている。

 言ってみれば安心を作ってくれてるのだ。安心しながらお酒が飲めて、知り合いとバカ話しをしたり、たまに常連さんと私が知らない世界の話しができるのは、私のこれまでの経験になく、得難くて心地よいものだった。


 夕方過ぎ、いつものようにNに行こうとしたとき、文芸サークルOBのフジマ先輩からメッセージが届いた。「手伝って欲しい」と一言だけ。これまで何度かあったが、いつもろくでもないことだった。

 外が暗くなるなか木造のおんぼろな部屋に行くと、フジマ先輩が出迎えてくれる。あいかわらず口にたくわえたヒゲが汚らしい。


 「また仕事がやばいんですか?」

 「ああ」

 「どんな感じです?」

 「短編、4000字、27日朝まで」

 「ごめんなさい、それって明日のことですよね?」

 「ああ」


 嫌な予感がした。部屋に入る。敷かれっぱなしの布団をちらりと見る。彼の古いパソコンを使わせてもらう。タバコの灰にまみれたキーボードを叩きファイルを探すと、100字もできてない。頭を抱えるという形容詞があるけど、現実でやってみるとなかなか滑稽だ。やってみたほうがいい。

 フジマ先輩はプロットをあれこれ考え深く作るクセがある。下地を徹底しないと、その上のものを作れないのだ。だから締め切りに遅れる。

 締め切りの延長か断ることができないか、メールを漁る。仕事依頼の仲介にはリノさんの名前も入っていた。無碍にすればリノさんへ迷惑もかかるだろうし、フジマ先輩はもう仕事をさせてもらえなくなるだろう。

 はあ…。

 私は怒る気にもなれず、彼に指示を出す。


 「私が書きますからいろいろ教えてください。プロットどこですか? あ、いや、いいです。口頭でください。文体はだであるでいいですか?」

 「間に合う?」

 「書かきゃ間に合いませんよ。イラっとするからそういうこと聞かないでください」


 それから爆速で書いた。あまり膨らまない内容だったので、全体にエッセイふうなテンプレ使うことで文字数稼いだり、会話の文を水増ししたり。どうにかこうにか書き終えて、内容を先輩にチェックしてもらった。お前は人物描写が甘いとかいい出したので、彼の口を指でつまんでひねってやった。いろいろ修正して編集部にメールで原稿を送ると、もう午前6時を回っていた。


 「ギリギリ間に合ったから大丈夫ですよね? 私、帰りますよ?」

 「ああ、おつかれさん」

 「これからはやばそうだったらせめて3日前に言ってください。綱渡りは心臓にきついです」

 「どこ行く?」

 「どこって、前の通りでタクシー捕まえて…」


 フジマ先輩に腕を掴まれ、布団に座らせられる。そのまま彼は私の首筋を吸い、耳に舌を這わせる。


 「んっ…。今日はしないって…」

 「気が変わった」


 私は首筋が弱い。彼はそれをよく知っている。だから私のスイッチをすぐに入れようと、執拗に責め立てる。舐めたり這わせたり甘噛みしたり。左手は胸を触りだし、服の上から乳首を触っていじり出す。乱暴な布の擦れる音と首筋からたてられている水の音が重なりあう。私の口から女のそれと同じ吐息が次々漏れていく。


 「あ…、んっ、先輩急ぎ過ぎです…」

 「早く入れたい」


 彼のヒゲが私の顔にあたり、チクチクする。唇と唇が重なり、彼の吸ってた甘いタバコの味が、私の口の中に広がる。

 息継ぎをするようにキスから離れる。フジマ先輩の胸に頭を預けて「や……」と私はつぶやく。そう言えばフジマ先輩がもっと私を求めるとわかってて小さく拒絶する。

 彼の手で顔をつかまれ無理矢理唇を奪われる。強引に舌を入れられる。舌と舌が擦り合わされ、その触感から激しい快楽が生み出されていく。行き場のなくなった吐息が逃げる先を求めてさまよう。フジマ先輩は知っている。多少乱暴にしたほうが私が喜ぶことを。何度もの逢瀬でそれを覚え、いま私を蹂躙しているのだと思うと、それが狂うほど愛おしい。

 キスされながら押し倒される。彼の右手が下へと伸びていく。下を脱がされ、太ももを触られると、私の体が跳ねる。そのまま割って入り、付け根の奥深くを愛撫される。指先が動き単調に往復していくと、その先もその先もと私は懇願する。

 ふいに唇が離れる。


 「帰るか?」

 「…ばか」


 彼は苦笑いに近い笑みを浮かべると、私の首元のあたりを強く吸う。私に自分の所有物だという痕をつけていく。人に隷属することを喜ぶ黒い感情が私を満たす。

 首筋にいやらしく舌を這わせながら、下に怒張したものを私に押し付ける。私を犯したくて犯したくてたまらないそのようすが愛おしく、男の体のくせに彼をそのようにさせた自分に優越感が高まっていく。

 私は乱れた。女そっくりの喘ぎ声。女そっくりの身のよじり方。私が女だという確認行為をしてもらってることに、酔って溶けていく。

 セックスは否応がにも自分の中身が女だと認識させられる。屈服を迫る彼を私は受け入れ、ああ自分はなんて女なんだろうと喜び、安心する。実にバカだなと自己嫌悪し、喜びに抗えないのをまた確認する。果てながらそんなことを思う。

 体液がこぼれたシーツを見て、カピカピにならないようティッシュで拭いながら、「少し寝ていい?」と尋ねると、フジマ先輩は「いいよ」と答えた。狭い布団に2人で押し込むように横になる。息づかいが聞こえる大きな身体が可愛らしい。

 惚れてはいるのだ。ダメな人でも。

 みんなには隠してる秘密の関係。だけど愛されてはいるのだろう。何度も部屋に呼ばれているし。何度もしているし。私は相思相愛と信じて安心していた。




 リノさんから「店に来なければバックがあいたエロい服をみんなの前で着させる」というメッセージをもらい、はいはいと思いながらNに来た。カウンターの向こうには、知らない従業員がいた。その人は赤い髪をしていた。誰だろうか。いつものようにリノさんから水割りを作ってもらうと、赤い髪のお姉さんが挨拶に来た。


 「はじめまして、ケイです。新しく入りました。よろしくお願いします」


 カッコいい!

 緩くカーブさせた髪を大きな胸の先まで垂らし、それは艶やかな赤に染まっていた。バーテンダーの服装をしていたが、パンク系かビジュアル系のバンドやってるカッコいい女性ミュージシャンのように見えた。Nでは従業員は女性を襲うほう、タチ役の人のイメージにまとめている。そのためわかりやすい感じで髪はショートだったり、まとめていることが多かった。だから、このことはめずらしい。勇気がいることだろう。


 「すごくカッコいいですね」

 「ありがとうございます」


 ケイさんは少し照れ臭そうに笑った。

 他の客への挨拶巡りでケイさんが抜けると、リノさんと「すごいね」「すごいでしょ」と言い合う。つい見惚れていたら、他の男性客がケイさんに絡んでた。


 「女としてるの?男ともできるの?」


 ケイさんはにっこり笑う。


 「え、なんでそんなこと言わないといけないんですか?」


 ますますカッコいい!

 その客のいなしかたはシビレた。客もキョトンとしている。すごい人が入ったなと、驚きながら水割りを飲み干した。





 リノさんが店を辞めた。

 どおりで店に来いと連絡があったわけだ。あれは引き継ぎだったのだ。ケイさんが入って辞めやすくなったのだろう。

 文芸サークル内では「唐突な!」「まだ行ってないのに!」とか不満の声が上がったが、まあ長くいたほうなんじゃない?と思った。

 リノさんが辞めると男性客が減り、女性客が多くなった。あの賑わいは落ち着いた。はーちゃん的には「男のほうがお金を店に落としてくれる」とありがたがってた。「だってかわいい女の子からお金取れないじゃない」と言われて、妙に感心した。

 そういうわけで金払いの良い男の太客をNに紹介した。文芸サークルOBのクリヤマさん、カンバラさんだ。私とはスキースノボ仲間でそれなりに親しく、有名企業に勤めていて、あまり夜遊びをしていない。何より、性的なことで偏見がない。

 行きつけのバーがあるからさー、と言葉巧みに誘いだし、店に入ったら「あ、ボトル入れるの礼儀だから」と最初に言ってカウンターに放置した。我ながらひどいなと思いながら、私はボックス席で仲良くなった常連さんと遊ぶ。


 「トガちゃん、指細ーい。手を合わせてみてもいい? わー、私のほうが少し太くない?」

 「まつげ長いね。バサバサじゃんー。私苦労してるんだよ。養育液とか使ってさー」


 私も「2人とも髪長くてさらさらですねー」とか返す。女子はパーツを褒める。

 この2人の常連さんはカップルで来ていた。2人ともどちらかが男っぽいとかはなく、ごく普通の女性にしか見えない。ある企業に勤めていて、同僚なのだそうだ。周囲には、関係を隠している。それが息苦しくなったとき、Nに来て憂さを晴らしていた。話しを聞くと、会社にバレないように休みをずらして旅行に行くとか、周りに隠すのは注意深くたいへんでつらい話しが多かった。

 Nに何度も通うと、同性愛者にはいろんな人がいることがわかる。外資系にお勤めな人がいたり、キャバクラに勤めてきた帰りの人もいた。みんな私たちと変わらない人たちだ。ただ近くには知られないように隠していた。

 終電があるというので、クリヤマさん、カンバラさんを帰して、そのまま朝まで常連さん達と飲み明かした。後日2人から、次いつ行きます?という連絡をもらった。なかなかよかったようだ。これはハマったな。悪魔的笑みがこぼれた。





 Nの常連さん達の間で占いが流行った。タロットカードを使って常連さんの1人が占ってくれる。私もその人に占ってもらった。


 「トガちゃんは変な人に引っかからないようにね、あんた。女の色気強いから」

 「えー、見たまんまで、占い関係ないじゃないですかっ!」


 みんな笑う。そこにはーちゃんが割って話す。


 「変な人といえば、そこの路地で、こないだ縛られて首輪付けて犬みたく散歩させられてる男を見たの! 鉢合わせしたときお互いにキャーって叫んじゃった!」


 みんな爆笑。楽しいなって思う。

 常連の女性達に紛れているのは気が楽だ。男の体なので気を使っているけれど、それでもみんなと変わらず接してもらって、話したり笑ったりできる。

 こういう場にあまり男の客は入って来ない。カウンターで従業員と飲んでることが多い。

 普通の男性は女に囲まれたらどう感じるのだろうか? ドキドキする? 居づらい? 私はただただ落ち着いた感じがしていた。長い旅行の帰りに自分家に帰ったような、古びた実家で幼なじみと話してるような。私には男の人がこういうとき普通はこう思うというのがわからない。





 Nのカウンターで、タンブラーについた雫を指でなぞっていたら、クリヤマさんに聞かれた。


 「トガちゃん行く?」

 「どこへ?」

 「ストリップ」

 「は?」

 「社会科見学だよ。大人のね」


 話しを聞くとはーちゃんが行ってみたいらしい。私達の旅行に行くときいろいろ手配する役をよくしていたクリヤマさんが名乗り出て、大人の社会科見学のとりまとめをしていた。

 ストリップなんて、こんな機会でもないと行かないだろうし、まあ社会科見学だしな、社会科見学なら仕方ないな、と思って「行きます」と返事した。

 次のお店の定休日、Nの従業員と常連さん10人ぐらいで、渋谷にあるストリップ劇場に行く。坂の途中にあるそれは、小劇場ぽい感じだった。中に入るとお客さんは意外とたくさん入ってて、私達は舞台から割と遠くのほうから眺めることになってしまった。ストリップというと古臭くてもう閑散としてるかと思ったが、さすがに年齢は高かったものの大勢のお客さんが熱気を持って踊り子さんを待っていた。

 演目が始まる。いくつかに分かれてて、基本はみんな踊りだ。薄着で日舞ぽい感じで扇子を持って踊ったりした。それが終わると舞台が暗転して、別の踊り子さんが大衆演劇ぽく襦袢で見に包み、女の情念を表現するようにゆっくり舞ったりしていた。

 あれ、そんなにいやらしくないと思ってたら、最後にアップテンポな曲に合わせて全裸の女の人がポールに捕まりながら片足を上げ下げし、その奥を感客に見せつけていた。

 演目が終わったあと、「なんかすごかったね」とばつが悪そうな感じでケイさんと言い合った。はーちゃんは喜んでて「あの踊り子さんよかった」とか興奮気味に言ってた。男性陣はいやあんなもの見慣れてますけど?みたいな謎の態度をしていた。

 猥褻なものを見たせいか、帰り道にみんなと「性ってなんだろうね」という話しになった。みんな同じようで違くて、対比するタナトスがどうのこうのという話になってしまい、めんどくさくなって適当に相槌をしながら自分のことを考えた。

 私が性に興味を持つ頃、いかがわしい写真を見たら、女のほうに感情移入していた。こんなせつない表情をさせられていいな、こんなことさせられたいな、とか。ほどなくして、出口は入口としても使われるようになった。誰に教わったわけでもないのでこれは生来のものなんだろう。この時点で、あ、私、女じゃん、写真と表情が一緒だし、余計なの付いてるけど、なんて思った。

 これを誰にされたいかその対象でまた変わる。男or女orその他、もしくは全部。私の恋愛対象は最初女で子供の頃は普通にキャッキャッウフフしてたが、性的なものがわかってからはがらりと男のほうになった。体は男だけど中身は女だと思ってるので、男に抱かれて愛されたいのだ。そうでないと自分の中身が女ではないと否定され、ひどく狼狽する。

 さらに社会的にどう見られるかが入る。見た目と常識とかいうルールだ。私の見た目は基本女の子だった。小さい頃から常に女のお子さんですか?と聞かれ、男子トイレから出てきたらごめんなと言われて男性が引き返し、ナンパや痴漢は数知れず。銭湯ですっぽんぽんでいたら子供から「女の人がいる」と指さされたときは、いやいや同じ象さんついてんだろ、と言いたくなった。社会的には見た目上は女として扱われるのが妥当なんだろう。

 さて、こんな人間に適用する「社会が求む性の常識」はあるのだろうか? 見た目女の子の男性が社会的に常識とされる恋愛とは?

 ないのだ。最近は先駆者のおかげで同情はしてもらえる。いくつか制度もできた。だけど好きな相手には男だけどいい?というワンクッションがいる。男女ではとくにいらないのに、見た目女の子な男性が男性と付き合うのに何か断りがいるとしたら、それは男女間のように当たり前と思われてないからだ。

 悪いことに常識から外れたものは嘲笑の対象になりやすい。普通じゃないから。キモいだなんだの。50代男性が女装して女風呂に入りましたとかいうニュース、わざわざ報道する意味ある? 犯罪は罰すべきだけど、ああいうニュースは見た目女の子の男性には、お前も同じように世間からこう見られるんだと言われてるようで恐怖に震える。同性愛理解あります風の人も強く主張しすぎて、より差別を助長していて、ほっとけと思うことがある。そもそも見た目女の子の男性が中見女だったら、心的には異性愛だ。ほかにもえらい人の「子供が産めないお前ら」などの何言ってんだ発言には枚挙にいとまがない。

 さらに当事者は第二次成長などの体の変化でひどい目にあう。私はヒゲがちょびっと生えて気持ち悪くてカミソリ当てすぎて血だらけになったり、声が低くなって合唱隊のソプラノから外され、え?女子グループから外されるの?と愕然として登校拒否になった。

 これに入学入社など、何かあるたびにお前の性は何?と踏み絵を置かれる。企業の女性進出比率を各国で競う報道を見て、私そこに入れんの?中身は女なんだけど?と思う。

 というわけで隠す。社会のロールモデル上、正しい男か女のどちらかですよ、という顔をする。その方がお互い安心だし楽だ。誰も笑わない。だけど隠したものは歪む。恋愛や環境の変化で苦しむのは隠してしまった当事者だ。でも社会的に隠さざるを得ない。

 性は複雑だ。性器、性自認、性癖、恋愛対象、見た目、社会が求めるもの、その組み合わせだけで無限だろう。その認識が当たり前になれば良いが、なかなかむずかしいのもわかる。せめて当事者の苦しみが減ればと思う。ただでさえたいへんなんだから。

 いまストリップ劇場から道玄坂を一緒に歩いているこのグループは、普通よりは性に理解はある。それでも私は隠していて建前上男を通していた。本当はスカート履いたり胸入れたりして内外ともにだいたい女ですよーとかやりたかった。やらなかったのは、みんなの反応が怖かったから。キモいの一言にただ怯えて、隠し続けた。

 そして、そのしっぺ返しは当然のようにやってきた。





 暑い夏の夜、明日は好きなバンドのライブに行くため、いろいろ準備していた。文芸サークルにいる友達とも行くので、待ち合わせ場所とか決めているときだった。フジマ先輩から電話があった。明日早いんだけどな、とか思いながら電話を取った。


 「どうかしたんですか?フジマ先輩」

 「……」

 「またヘルプですか?私、明日用事があって…」

 「……別れたい。俺はお前の旦那にはなれない」

 「どういうことですか? 何言って……」

 「彼女ができた」


 それから1時間ほど、電話を続けた。彼女は文芸サークルに最近新しく入った女の子で、いつのまに、と思った。とはいえ、自分の本を読ませたりナンパぽいことしてるな、とは思っていた。私のときと手口がそっくりだったからだ。

 私はおかしくなった。彼女がいても、私との関係は続けられますよね?と自分でも何言ってるんだろうという提案を真剣に話した。もちろん拒否される。私がいなかったら仕事できませんよ?と聞くと遅れないようがんばって最後はリノさんを頼るという。付き合ったこの2年間なんだったの?と返すと感謝しているとしか言わない。

 最後のほうは泣きながら捨てないで欲しいとすがった。悪いとこがあれば全部直すから!と叫んだ。あられもなかった。みっともなかった。私が女であることを知るたったひとりに見捨てられるという恐怖感がそうさせた。

 そのうちフジマ先輩が何も言わなくなってしまい、仕方なく電話を切った。

 泣き出した。布団に潜り枕に埋まりながら声が漏れないように号泣した。自分の何が悪かったのだろうと悩み抜いた。たくさんありすぎてわからなくなって、ひたすら自分を責めた。みんな私が悪いのだろう。好きになったことも、女にしてと求めたことも。

 翌朝、「ドタキャンごめん」とだけ、バンドを見に行く予定だった友達にメッセージを出した。察し力の強いリノさんがその友達から聞いて「大丈夫?話し聞くよ?」と連絡が来た。フジマ先輩との関係は隠してる。リノさんもよく知る人だ。言えるわけがないので「大丈夫です」としか返事しなかった。隠しているので、誰にも助けを求めることができないという現実に私の心はうちのめされる。

 2日ほど何も食べずに呆然としていた。時折泣いたりした。何も出来なかった。ひたすら寝た。起きたくなかった。

 スマホが鳴った。フジマ先輩から?と期待したけど、カンバラさんからの電話だった。


 「トガちゃん、大丈夫? リノさんから聞いて電話したんだけど」

 「……大丈夫です」

 「声枯れてるね」

 「……大丈夫です」

 「いまトガちゃんちの近くまで来てるんだけど、寄っていい?」

 「……え、いや……」

 「N行こうよ。飲んだらよくなるって」


 その後、カンバラさんが家に来て、私は拉致され、Nに連れて行かれた。

 Nではいつもと変わらないようにしてた。普通に振る舞った。何が起きたのか、聞かれるのが怖かったからだ。誰にも言えなかった。誰にも相談できなかった。男が男に捨てられたなんて。

 カウンターに座るとケイさんが来てくれ、水割りを作ってくれた。私達は普段通りに乾杯した。バレないように作り笑いをしながら話しをそらしていく。

 ケイさんはちょっとだけ自分のお酒を飲むと、真顔になり私を見つめた。手を静かに伸ばしカウンター越しに私の頬に触れる。


 「何かあったの?」


 気づいてくれた……。

 そう思った瞬間ダメだった。


 「あ、あれ……」


 じわじわと泣き出した。涙が頬を伝わる。カンバラさんがびっくりするだろうな、お店に悪いな、とか思うのだけど、涙は流れ続ける。


 「……ごめんなさい、止まらなくて」


 しゃっくりが止まらないかのように話し、困ったなという顔をしながら、手で顔の涙を何度も拭う。

 ケイさんは、はーちゃんに一言話すとカウンターをまわって私の腕を取った。


 「こっちきて」


 店の奥に連れて行かれる。酒瓶のストックやロッカーで狭い部屋を抜けると、その先に勝手口があった。扉を開けたところにケイさんは座る。私の袖を引っ張ると、自分の横に座らせた。

 ケイさんは私を抱えるように抱きしめる。ケイさんの胸に私の頬が乗る。「大丈夫だから」と私を安心させるように言う。

 その優しさに触れて、何もかも吐き出したくなった。言って楽になってしまいたかった。そう思ったとき、言葉が勝手にあふれでた。


 「私、好きな男の人がいて、ずっと付き合っていて…。

  その人に新しく彼女ができて…。

  別れてって…。

  私、女の代用品だったの?

  やだよ…やだよ…」


 2丁目の狭い路地裏に私の隠してた感情が嗚咽になってこだまする。お店の迷惑になるから我慢しなきゃと思うけど、あふれ出したものが抑えきれない。


 「どうして私、普通じゃないの?

  なんで私、男なの?

  なんで私、女じゃないの!」


 ケイさんはぎゅっと私を抱きしめる。何も聞かずただやさしく強く。



 1時間ぐらいしただろうか。私は、泣き疲れていた。ケイさんの服を汚しちゃったな、と思って抱かれた腕を緩めつつ謝った。


 「ごめんなさい…」

 「落ち着きました?」

 「はい…」

 「たいへんでしたね」

 「すみません」

 「謝ることないですよ」


 後ろではーちゃんの声がした。


 「ケイ」

 「はい、今行きます」


 ケイさんは立ち上がりながら私の頭をくしゃっと撫でた。


 「すぐ戻りますから」


 ケイさんはお店の方に行く。入れ替わりにはーちゃんがやってきた。水が入ったグラスを私に手渡す。


 「しばらくそこにいて大丈夫だから。あとカンバラさん帰しといた。心配してたよ」

 「ごめんなさい」


 はーちゃんが店のほうに引っ込む。

 私は路地裏をぼーっと見てた。腫れぼったい目には、暗い路地裏から明るい大通りが小さく見え、そこは遅い時間なのに人が行き交い、まるで遠くでお祭りをやってるように見えた。

 どれぐらいそうしていただろう。ケイさんが店から戻ってきて「そろそろお店閉めるから」と話しかけた。私はゆるゆると立つと店のカウンターに戻った。はーちゃんにお詫びとお礼をいい、会計を済し、そのまま店から出ようとすると、ケイさんから「ちょっとお店の前で待ってて」と言う。

 店のドアを開けて外に出る。真っ暗だった空は白んできて、綺麗なグラデーションが空にかかっていた。しばらくするとケイさんがやってきた。その私服はやっぱりロックミュージシャンぽくて、鋲が入ったジャケットをはおっていた。


 「待たせてすみません。お腹すきましたよね。ご飯食べましょうか」

 「何食べます? この時間だと…」

 「いいとこ、あるんです」


 ケイさんに連れられて、店の前の路地をさらに奥へと行く。すると定食屋さんがあった。のれんをくぐり扉を引くとびっくりした。少し広めのその店内に、ほぼ満員の人がご飯を食べていた。


 「近隣のバーやスナックがだいたい今の時間になると営業が終わるんです。だからこの時間になると、店の従業員やお客さんが集まるから、ちょっと混んじゃって。あ、ここ空きましたよ」


 ケイさんがテーブル席に座る。カレーが美味しいという。私達はそれを2つ割烹着姿の店員さんに頼むと、ケイさんが話しかける。


 「いろんな人がいますね。ドラァグクイーンの人がいたり」


 言われたほうを見るとアフロのカツラを被ったふたりが煮魚定食を食べてた。となりの席には小太りな中年の男性カップル。すぐそばには色が白くて細くて本当に人なのかと思う人。女性も男性もそれすらわからない人も、みんないっしょにむしゃむしゃご飯を食べていた。そのにぎやかさは学園祭のようだった。

 私はそれを見ながらケイさんに言う。


 「いろいろなんですね」

 「いろいろだから、いろいろあるんです」


 ケイさんはしたり顔で言う。


 「あ、ケイさん、カレー来たよ」

 「私、ここのカレー大好きなんです。ここに、こうやって七味をかけると、さらに美味しいですよ」

 「へえ。やってみます」


 家庭的なカレーは七味の香りと重なって美味しかった。久しぶりの食事に体と心が安堵する。

 食べ終わり、定食屋から出ると、ケイさんがはいと右手を差し出す。私はおずおずと左手を出してケイさんと手を繋ぐ。それから早朝の新宿を2人で歩いていたら、隠していたはずの失恋の痛みがだいぶ和らいでいた。



 ケイさんとよく話すようになった。私より年齢が1個上なこと。あるロックバンドのファンで地元にファンクラブを作るほどだったこと。赤い髪がそれに由来すること。友達と故郷から東京に逃げ出してきたこと。

 私は東京生まれなこと、子供の頃に髪の毛を短く切られて号泣し、それ以来長めに整えていること、男だけどずっと中見は女だったこと、それをみんなに隠してることを話した。


 「普通にスカート履いてみたらどうですか?」

 「ダメです。気味が悪いでしょ」

 「似合いますから。気にしすぎですよ」

 「トイレで困るでしょ!」

 「たまにこれは?という人も女子トイレ使ってます。大丈夫ですよ」

 「ダメダメ!」


なんてことを気軽に話せるようになった。





 ある日、すごい女の人がNに来た。髪の毛が緑だった。パンク系ファッションにあるようなごっつい黒のジャケットに緑の長い髪が垂れ下がる。アメリカにこういう人いるよね、とか思ってしまった。店に入るとケイさんを見つけて言う。


 「来たよー、ケイー」

 「やあ、ありがとう!」


 カウンターに越しに2人は長めのキスをした。

 ん?んん?

 唇と唇が離れると、ケイさんは思い出したように言う。


 「あ、私の友達です」

 「そうなんだ」


 察しの悪い私でもわかる。建前上友達ということに。故郷から逃げてきた、という理由もわかった。この恋人たちが田舎で暮らすのは、いろいろあったのだろう。

 それから3人といろいろ話して飲んでいたが、ケイさんは建前上友達の人といっしょにいてもらうことを優先してもらった。恋仲に割り込むほど野暮じゃない。


 文芸サークルの人とはまだ話しづらいので、はーちゃんとよく話した。はーちゃんは宝塚が好きで、劇団員とも交流があるらしい。新しく入った劇団員は、女が女を好きになる世界が現実にあることに驚かれるという。話しをさらに聞いていくと、はーちゃんは女たちを百合に染め上げようとする悪の手先のように思えてきた。


 「行かない? 東京のだから。チケットあるよ?」

  「えー、どうしようかな」


 そんな女の園鉄壁版みたいなところに私みたいなのが行っていいんだろうか。女の体でないことは、変なところで自信をなくす。

 私が躊躇してたら無神経にクリヤマさんがチケットを貰って、後日面白かったよと解説してくれた。ありがたい友達だ。腹立ち紛れにキープボトル飲んでごめんね。





 「どうしてこうなった…」

 ラブホの部屋のなかで、私は全裸で立ちすくんでいた。レズバーからお持ち帰りされたのだ。

 最初はカンバラさんとカウンターで飲んでて、最近の文芸の軟弱さはみたいな、アホっぽい話題を楽しんでた。そこにカナさんが横に来た。ショートボブで大きなイヤリングが似合う知的でかっこいい人だった。最近ちょくちょくNに来てて、挨拶程度はしていた。

 カナさんとの話しは、文芸界を三度切り捨て煮込みにして食べるような面白さがあった。筒井康隆の断筆宣言と朝のガスパールとの関係性とか、考察の仕方が面白かった。他にもある世界的企業のマネージャをしてたりとか、ああこの人はよっぽど頭がいいんだな、と思いながらバーボンのロックを飲んでいた。

 カンバラさんが終電で帰ることになり見送ったあと、まだカナさんと飲んでた。このままずっと話しをしていたいなと酔いがまわった頭で思ってたら、「場所変えない?」とカナさんが言う。いいですお、と呂律が怪しい返事をすると、カナさんがまとめて飲み代を払ってくれた。

 カナさんについて外を出るとホテル街に行く。「休憩しよ?」という言葉に、ああカナさんも飲み過ぎで気持ち悪いのかなと間抜けに思う。部屋に入り、服を脱がされ、簡単にシャワーを浴びせられ、そこでようやく、ん?と思った。

 ベットの上にはカナさんが裸になってこっちを見ている。スレンダーなプロポーションいいなあ、小ぶりな胸いいなあ、とか女性同士が思うような感想が頭を巡っているうちに、いやこれおかしくないか?!と、ようやく事態を把握した。

 最初に思ったのは私をレズの女の子と間違えたんじゃないか?ということ。フルチンなくせに、カナさんへこんなアホな質問をしてしまった。


 「あの私、男なんですけど?」

 「今日はそういう気分なの」


 そうですか…。気分ですか…。

 そうじゃないよね!!

 意味がわからなかった。

 次に叫びかったのは「勝手がわからーん!」ということだった。女性との性交渉の段取りがまったくわからない。どうしたらいいのかわからなさすぎて、パニックになった。

 カナさん寒そうだしなんとかしようという思いになり、ひとまず「自分が今までされて気持ち良かったことをしてあげればいいんじゃね!」とひらめいた。

 ベットに座り、カナさんの唇を軽く吸う。淡い色の口紅が私の唇に移る。深いキスには抵抗があったので、首筋や耳をキスしたり舐めたりしていく。それはそれは丁寧に少しずつ。自分がしていてじれるぐらいの。それは私が乱れるスイッチにあたるところ。

 ん……。

 カナさんの口から少し吐息が漏れる。それを耳で感じながら、この計画は間違ってなかった!大勝利!という思いと、私の反応は女の子で合ってた!一緒!という答え合わせのような思いが、複雑に重なった。

 少しずつ舌を胸まで持っていく。いきなり揉んだりしない。膨らみを舌先で感じるようにゆっくり優しく触れていく。白くて滑らかな肌に薄赤い私の舌が伝わっていく。その先が可愛らしい乳首にわずかに触れたとき、カナさんがピクんと跳ねる。

 それにしても私は女の胸では興奮しないなあとむっちゃベロベロ舐めながら不謹慎に思う。そのふくらみが自分に欲しいという思いが強すぎて興奮材料にならない。

 そうこうしているうち、カナさんがせがむようになってきた。急激にこう思った。


 めんどくさい!!!


 はい、やめー。余りに瞬間的に萎えた。ヒューンという落下音が鳴ったんじゃないかと思った。とにかく、そこから先は自分に拒絶反応が起きてダメになった。

 止まった手にカナさんはどうしたの?という目を私に向けた。私は素直に謝った。


 「ごめんなさい」


 怒られるかなと思ったけれど、カナさんは私を抱きしめながらこう言った。


 「そうだよね、君は女の子だもんね」


 その言葉は察してもらえた安堵感とともに、何か言い訳できない聖痕を植え付けられた気持ちになった。

 カナさんがベットの布団をめくり、手招きすると、私を抱きしめながら布団をかぶった。人肌の暖かさとカナさんの細さを感じていたら、自分への嫌悪感と申し訳なさが少しずつ薄れていった。

 朝早くラブホを出て、カナさんをタクシーまで見送ると、「女の子とは無理だー女の子とは無理だー」と、うわ言のようにつぶやきながら家に帰った。

 衝撃的だったけれど、自分は本当に中身女性で、それは同性愛的なものが無理なぐらい強固なものなんだと悟れることができた。これは開き直りのきっかけになった。スカート着ちゃうよ、中身女の子なんだし、仕方ないじゃん、みたいな。

 それからは、また持ち帰られないようにガードを上げた。後日クリヤマさんと酔い方を話していたとき、こう言われた。


 「トガちゃんは酔っ払ってもパッと見わかりにくい。ただ酔いが進むと無防備になって犯したくなる。うなじのラインとかとくにやばい。噛みつきたくなる。気をつけたほうがいいよ」


 へえそうと言い返しながら「相手にはそう思われていたのか、自分じゃわからないな」と思った。私は酔うと無意識に女を出して相手を誘っていたのだ。

 というわけで、そもそもの酒量を下げたり、知らない人と飲むときは従業員か知り合いが必ず入るようにした。後から考えると、持ち帰られたのがカナさんでまだ良かったな、とふと思った。殺されないにしても、殴られたり、猟奇的なセックスの餌食になる話しは、Nでもときたま聞いていた。

 その後カナさんとはたまにNで会った。見かけたら小さく手を振り合うぐらいで、とくに話しとかはしていない。釣れても食べられない魚でごめんなさいと心の中でいつも謝罪してた。





 女物の洋服が少しずつ増えた。カナさん事件以降、私は振り切れてしまった。冬であれば黒の縦編みセーターに細身のネックレス、夏ならレースがあるキャミにフォークロワ調ペンダントなど。まだスカートとか決定的ではないけど、まあ男のカッコではないな、と変わっていった。

 周囲の様子は驚くほど変化がなかった。何も言われなかったのは嬉しかった。言って欲しくなかったから。

 Nのお客さんに「それ女物?」と聞かれるときもあったが、「あはは、さあ?」と返していた。危惧してたような「キモっ」は言わなかった。


 ちょっと遅くにNに来たら、クリヤマさんが新しく発売されたゲーム機を買ったという話をしていた。ケイさんがその話しに食いついていて遊びたいと話していた。同時に出た格闘ゲームのファンらしい。前作を結構やりこんでいるのが話しでわかる。

 さてゲーム機を貸してもいいけど、どうせならみんなで遊びたい。どこか場所ないかな、と話していたら、はーちゃんが割って入った。


 「ここ使えば?」

 「え?いいの?」

 「連休中はお客さん来ないからお店閉めちゃうし。ケイ、お店の鍵持っているでしょ?」

 「はい」

 「そこのカラオケのモニター使える?」

 「たぶんいけるかと」

 「じゃ、あとは任せるわ」


 話は決まった。レズバーN従業員対客対抗ゲーム大会。私とクリヤマさんカンバラさん、ケイさんとその友達が参加者だ。


 当日Nに行ってみたらクリヤマさんが配線に苦労していた。微妙にケーブルの長さが足らないらしい。カンバラさんがモニターの位置をずらしたり手伝っていた。私はこの日のために用意した白いコットンブラウスとフレアパンツが汚れそうだったので、眺めていることにした。

 ケイさんはボックス席で漫画を読んでいた。カンバラさんが暇つぶし用に持ってきていたものだ。私もカウンターの椅子に座りペラペラとめくる。漫画はわりと有名なもので、主人公を取り巻く女たちが織りなすラブコメだ。

 カンバラさんが近寄ってきて私が広げている漫画をのぞきこむ。


 「あ、男の娘じゃん。トガちゃんどう思う?」


 実は男だったヒロインが主人公に迫られている場面だった。私は少し思案してこう返した。


 「例えばこの『僕、男の子だよ』というセリフは、相手がどう思うのか計算してから言ってるんだろうなって。女と変わらない私に驚きなさいとか。哀れんで欲しいとか。そこに男の気を引こうとする、女のあさましさ、あざとさを感じます」

 「さすが本職」

 「違いますよ」

 「だって普通はそんなこと思わないよ。女なのに男だったという、ライトな意外性を楽しんでいるだけだから」

 「それはなんだか悲しいですね。男の娘のなかにあるどろどろとした気持ちが無視されているようで。それも含めて発せられた言葉なのに」

 「あはは。ひねくれものめ」

 「ありがとうございます。褒め言葉です」

 「はは。あ、ゲーム、遊べるようになったから」

 「わーい」


 私はおどけて喜び、椅子から降りて少し宙に浮いたゲーム機のそばに行く。さっそくケイさんがコントローラーを握りしめてソロプレイを始めた。当たり判定がずれてるとか少しフレーム落ちするとか言い始める。

 対戦が始まった。ケイさんは強くてみんなはすぐ負かされる。そこでケイさんから必殺技は使わないと言い出した。そのおかげでちょっと勝てるようになった。

 私とケイさんの対戦。私はキャラの操作方法がつかめて、ゲームだけど拳と拳の語り合いがケイさんとできるようになってきた。


 「そこだすかー!」

 「いまのハメ?」

 「ちょっ」

 「はい負けー。次、次」

 「あ、待って。キャラ変える」


 たぶんそれは私が席を譲らないのにイラッとしてふざけてやったのだろう。クリヤマさんが、私の背中から首筋にかけて、すーっと触った。

 声が出た。

 その声は、私が舐めて触れていじられて女にして欲しいと男に懇願する、合図の声だった。その声が自分に聴こえると、フジマ先輩に触れられたふとももやうなじの触感が鮮明に浮き上がって爆発した。続けて喘ぎ声を出したかった。よがりたかった。ここではダメだと自分を必死に抑えつけてひたすら身悶える。あはは、何するんですかー的な言葉を発すれば楽になるだろう。でも私にそんな余裕がなかった。

 場が凍った。

 明らかにみんなが私を見ている。コントローラーから奏でていたカチャカチャという音が止む。「いやーごめんなー」とか「女っぽい声出すなよー」とかありがちな展開になって欲しいと願った。でも、誰も声を出さなかった。

 「へえ」

 ケイさんが沈黙を破る。それだけ言うと、カチャカチャした操作を再開させる。ゲームのキャラが発する「やー」とか「ふんっ」という声が凍った場を溶かす。私は呪縛が解けたその瞬間、後ろを振り返った。

 苦笑いをしていた。

 仕方ない奴だな、という顔や目ではなかった。それは同族として男が女の格好を見て思うキモいな、という侮蔑ではない。男が女を踏みつけて喜び、これだから女は、とあざけるような蔑みの目だった。

 男の人が怖いと思った。さっき触られたその本当の意図は? 頭の中がぐるぐるし出す。

 ゲームは続いた。ケイさんにほどよく負けると、私はコントローラーを投げ出した。


 「負けたー!ケイさん強すぎです。クリヤマさん次どうですか?」

 「お、やりますか」


 席を代わる。すぐに離れる。そばに居たくなかった。

 休憩中はケイさんたちとばかり話すようになった。座るときはケイさんの隣だし、ケイさんの友達と3人で話して笑いあった。私はケイさんたちを追いかけた。男の輪から踏み出して、女の輪に「いーれーてー」とお願いしている気分だ。私はもう男の輪から追い出されたのだ。

 ゲーム大会は夜遅くまで続いた。さすがにみんな飽きてきたのに、まだゲームをやりたそうなケイさんからコントローラーを奪う。


 「また今度ね。ご飯食べよ」

 「わかった。また遊ぼ?」

 「うん」


 口調は親しい友達のそれになっていた。





 それからもクリヤマさんカンバラさんとは、変わらずNで一緒に飲んでいた。クリヤマさんはNの常連さんと仲良くなって2丁目をあちこち飲み歩いているようだ。あそこの店がよかったよ、とか教えてもらう。カンバラさんとは親の家の草刈りがたいへん、とか、妹さんに手を焼いてるとか、割と親しい距離の話しをしていた。

 彼らとの関係を壊したくなかった。私は隠すのは得意だ。

 悪いことに、痴漢によくあうようになった。気をつけているつもりでも、Nで酔って帰るとき、朝帰りの電車で寝ているときに襲われた。肘の先で胸を触りにくるのはまだいいほうで、尻やふとももを執拗にいじられたりした。知らないうちに服を体液で汚されたときは、洗濯しながら恐怖と悔しさで泣いた。

 男と話すのが苦痛になっていた。男の視線が辛かった。自分は男で男についてわかってたはずだ。でも知らなかった。男が持つ女への残虐性に気づき、それが私に向けられることがわかると、男に近づけなくなった。

 女の人たちの間に混ざりたい。逃げ込みたい。「怖かったろう?こっちおいで」と言われたい。そこが本来の私の場所なのだろう。でも男の体のせいで拒絶されることもわかっていた。


 ケイさんといたら安心できた。事情を知るケイさんといれば気が楽だった。

 ケイさんは面倒見が良くて、酔っ払いの介抱を進んでやった。うっかり割ったグラスを片したり、吐いてしまったものを掃除したり。私もよく手伝ってケイさんとはいいコンビになれた。前後不覚になった酔客を2人でタクシーに押し込めたときは「ドラマの犯罪者ぽいね」「じゃ私たち共犯者だ」と笑った。ケイさんから離れたくなかったから一緒になんでもやった。

 私がNでケイさんの友人と飲んでいたとき、だいぶ酔った背広の男が絡んできた。いかに自分は男女両方イケるかという話しをずっと話していて、これは私を口説いているのか?と疑問を持ちつつ、なんだかよくわからない。あまりに長くて辟易としていたらケイさんが、カウンター越しに私を抱きしめてくれた。


 「ダメですよ。これ、私のだから」


 男は「おーっ」と声を上げ、やたら感激していた。いいもの見れたと言いながら帰っていった。ケイさん恋人いるから嘘なんだけどな、と思いつつ、これはこれで嬉しかった。ケイさんの友達からすごい睨まれたけど。

 あとでケイさんから「大丈夫?」と聞かれ、私はああいう客をあしらうことができなかったことに「ごめんなさい」と謝った。ケイさんは「いつでも助けるから」と言って私の頭を撫でてくれた。

 ケイさんの赤い髪が揺れる。そのそばに居させて欲しいと願う。泣いてる妹が姉にすがる気持ちに近い。その姉は優しくて気高くて憧れで、男の体の私がやすやすと触れてはいけないものだった。





 ケイさんからカラオケに行きたいと連絡があった。Nの開店前に歌いたい、という。友達も来るとのこと。他の人は来ないらしい。「私は歌へたっぴですよ」と返すとかまわないという。その日はとくに何もなかったので、一緒に歌いますと返事した。

 当日のお昼過ぎ、先にカラオケボックスに着いてしまい、部屋を確保してケイさん達を待つ。スマホで暇つぶししているうちに、ケイさんがやってきた。


 「ごめんね、来るの遅くなった」

 「やっほー」

 「あ、いつものくせでブーツ脱いじゃった。匂い平気?」

 「気にしないでいいですよ」

 「よかった」


 ケイさんが笑う。

 なんだかいつもより距離が近い。よく知っている友達と遊んでいるようだ。

 ケイさんがとりあえず10曲ほど入れた。あーあーと声の調子を合わせると、一気に歌い出した。

 めちゃくちゃうまかった。ケイさんが好きなロックバンドの曲だけど、ケイさんが持つ低く目の声が本来の歌手のそれよりマッチしてて、部屋全体を強く震わせる。何より迫力があった。赤い髪を揺らして熱唱する姿は、目の前にライブハウスがあるんじゃないかと思うぐらい。

 何曲か歌ったら演歌になった。Nのお客さんに鍛えられたそうだ。これも節回しがなめらかですごかった。サビで体がシビれた。

 どこまでカッコいいんだろこの人?


 「トガちゃんも歌う?」

 「いえ、私は…。代わりに歌って欲しい曲をリクエストしてもいいですか?」

 「いいよ、なんでも歌う」


 ドラマの主題歌とか歌ってもらった。いつも聞いてるのとニュアンスが違ってて、ケイさん版の曲を配信して欲しいと思った。


 「ケイさんのお友達、遅いですね…」


 曲の切れ目で、カラオケのリモコンで次の曲を探しているとき、私はそうつぶやいた。

 ケイさんは私の隣にドカっと座る。


 「来ない」


 それだけ言うと私に体を寄せてくっつける。

 触れたところにケイさんの暖かさをたくさん感じる。瞬時に全身の血管が詰まるような高揚感が訪れ、私はなぜの疑問に溺れた。友達どうしたの? どうして私に身を寄せているの? なぜ、私はこんな気持ちになっているの? このわきあがっている感情はなに?

 周囲の部屋からの楽曲や歌声がわずかに聞こえる。少しでも動いたら、ケイさんが「いいや」と言っていなくなってしまいそうで、私はそのままケイさんのそばにじっといた。

 受話器の電子音が響く。ケイさんが起き、受話器をとって精算することを告げる。


 「お店行こっか。まるで同伴出勤みたいだね」


 なぜを振り向けたかった私を、黙らすようにケイさんは私の手を取って立たせた。

 それからケイさんの友達がNに来なくなった。





 カウンターでクリヤマさん、カンバラさんと飲んでいるとき、ケイさんが「お店が終わったあと、お酒たくさん飲みたいんですが、どこか連れてってもらえますか?」と言った。めずらしい提案に2人は喜んだ。私は心配になった。これは失恋のやけ酒なんじゃないかな…。

 朝5時ぐらい、店が終わったあと、ケイさんは変わらずロックな私服でやってきた。チェーン店の大きな店にみんなで入る。広い座敷の片隅に4人で座る。ビールやらハイボールやら、とにかくお酒をいっぱい並べて、端から呑んでく。

 昨日遅かったと言ってたクリヤマさんが座ったまま眠りだした。私は青リンゴサワーをちみちみ舐めるように飲みながら、ケイさんを見守ってた。酔い潰れても飲みたいときはあるよね、とケイさんを見ながら思ってた。

 6杯目の生レモンサワーに手を出しながらケイさんは座った目で言う。


 「トガちゃん、こっち来て」


 私はテーブルをまわり、ケイさんの隣に座る。


 「どうしたんですか? もうそろそろ…」

 「そこじゃない、ここ」


 ケイさんは自分の足をペシペシ叩く。手を引っ張られ、だっこ座りになる。いま私、顔真っ赤だ。背中にケイさんの胸が当たっている。ケイさんの腕が私の前にゆっくりまわされ、やさしく抱き付かれた。後ろからケイさんをたくさん感じる。


 「トガちゃん細いなあ」


 さらに私の耳元でささやく。


 「気持ちいい」


 酔っ払いひどい。ちょっと怒った。


 「酔ってます?」


 ケイさんはクスクス笑う。


 「酔ったフリしてる」


 え?

 ケイさんは体を少しずらして私を見る。私のあごを手でつまみ少し上を向かせる。ケイさんの顔が目の前にある。


 「かわいい。…目閉じて」


 びっくりはしなかった。自然に思えた。

 そっか…私、ケイさんのこと…。

 その先を受け入れるように、ゆっくり目をつむった。

 痛い!

 カンバラさんが私達の頭を割り箸で叩いた。


 「こら、酔っ払い。いちゃつくな。店の迷惑になるから」


 カンバラさんの何とも言えない困り顔は、それはそれで酒のつまみになるな、と思った。

 ケイさんは明らかに不機嫌な顔になり、むくりと立ち上がる。


 「トガちゃん、こっちいこ」


 私達は座敷の壁にもたれかかって座る。それから2人でわかってたように手を握る。

 私はケイさんを見ずにうなだれたまま聞いた。


 「つらい?」

 「逃げられた。嫉妬された。田舎に帰った」

 「泣く?」

 「泣かない。そう決めたから」

 「さみしい?」

 「うん」


 ケイさんが手を少し強く握る。

 私はその手を握り返す。


 「私はわかるよ。私もだから」

 「そうだね」


 ケイさんは安心したように笑う。

 それから吐き出すように言う。


 「つらいな…」


 ケイさんが目をつむる。


 「カナさんに話聞いた」

 「ん?」

 「トガちゃんを犯したいのに犯せない」


 私たちは体の関係にはなれない。

 ケイさんの告白に私は少しおどけて返事する。


 「犯して欲しいのに犯してもらえないのもつらいよ?」

 ふたりでクスクス笑う。

 「くっつきたい」

 「うん」


 身を寄せる。互いに体を預ける。

 高揚する体のなかでケイさんの体温を感じる。

 私達は普通の世界から見捨てられている。それでも2人で寄り添いたかった。

 このままでいたいな。

 ずっとこのままで……。

 ……無理なんだろうな。

 どうしたらいいのか、いろいろたくさん考えた。でも、何をどうしても、どうにもならなくて「もうみんな滅びてしまえばいいのに」と思った。





 バーのカウンター越しにケイさんを見る。赤い髪が揺れ、クスリと笑いかけてくる。私はちょっと照れて顔を背けてしまう。甘酸っぺえなあ、アオハルかよ、と自嘲気味に思う。

 それからは、ケイさんとのたわいのない話しが大好きになった。音楽の話し、テレビドラマの話、お客さんがどうだったか、とか。思考を、感情を、記憶を知り合いたかった。ただ、お互いの性的なことは、いっさい話さなかった。

 私の服装はだいたいフェミニンな感じになっていた。下こそまだスカートではないけど、上品なレースが入ったブラウスに淡い若草色のカーディガンを組み合わせたり、見た目ははかなげな女の子になっていた。それはケイさんが私にして欲しい好みのスタイルだった。私は着ている服を、みんなの目よりケイさんひとりに見せることにしたのだ。他の人がなんと言おうがかまわない。ケイさんが喜んでくれたらそれでいいんだ。

 その日はお客さんが少なくて、私以外は男性1人だけだった。そっちははーちゃんが接客していたので、私はケイさんをひとりじめできた。いつものようにケイさんと幸せな会話をカウンターの片隅でしていたときにそれは起こった。


 「あんた何言ってんだ!」


 はーちゃんの怒声が店に響く。普段温厚なはーちゃんの初めて聞く怒りにびっくりして、声の元に振り返る。


 「だからさ、赤い髪のチャラチャラした奴を使って店のレベル下げてない? それにあれ男でしょ? レズバーでしょ、ここ?」


 その背広服の男は、腹立つことに真顔で心配そうに聞いていた。

 はーちゃんの怒声は続く。


 「私はこの子らを信用してるんです。あなたにとやかく言われることは、何ひとつありません。帰ってください!」


 私とケイさんはお互いの顔を同じタイミングで見合わせた。はーちゃんは私らを守ってくれた。店員であるケイさんはともかく、私も含まれてるのが驚いた。

 私達を守ってくれる大人がいるんだ。

 2人の味方がいる。嬉しかった。すごく。





 それから足が遠のいた。

 恐怖感が出たのだ。お客さんが怖くなった。なにしろ世間一般常識様がいたのだ。私はよろしくなくていなくなったほうが良いもので気持ち悪く不快なのだ。通りすがりの一元客にそう言われるのは、つらくて逃げたい。戦うにしてもはーちゃんに迷惑かけてしまう。そういう人もお金を落としてくれる以上、本来はお客さんなのだ。

 私がNに行けなくなっている間、クリヤマさんカンバラさんは変わらず通ってて報告してくれた。楽しんでくれて何よりだ。ただ2人から「トガちゃんが、この店を紹介しなければ俺たちの人生は曲がらなかった」と真顔で言われて、ちょっとだけ申し訳ない限りだ。彼らはいまでも独身だ。まあ君らの人生台無しにしたけど、友達だから笑って許して欲しい。リノさんはゲーム会社に入って自分の作品で日本にブームを生み出し、フジマ先輩はあいかわらず締め切りに遅れていた。

 だいぶ経ったあと1回だけNに顔を出したが、ケイさんはもう店を辞めていた。



 それから。

 自分の子供が欲しくなって隠して女の人とも結婚したけど長続きせず、死ぬときは女として死にたいなと痛感した私は、速攻ジェンダークリニックに通い、「あんた実は女です」というハンコをスパパーンと書類に押してもらい、造膣手術して、スカート履いて、世間様から見たら男の娘から「建前上女」になった。みんなの反応は「ああ、やっぱり」「変わり映えしない」「よりエロくなった」としかもらえず拍子抜けした。早くやっときゃ良かったよ。

 今までは「中身が女」を隠してたが、今度は「元は外側が男」であることを隠している。昔よりこっちのほうがまだ気楽に思う。あの頃のあいまいな自分は愛おしいけど、体と心の性が一致してることは本当に楽だ。何かあっても象さんないんですけど?と開き直れる。結婚式に呼ばれないとか、会社の名札が男性社員向けの色とか、世間の荒波はいろいろあったけれど、事情を知る彼ができ、猫がやってきて、女としてそれなりに幸せに暮らせている。


 今でも、お皿を洗っているとき、猫をあやしてるとき、彼に抱かれているとき、ふと思うことがある。赤い髪のお姉さんはいまでも元気かなって。もしいま伝えられたらこう話すと思う。幸せに暮らせていますか。私はいまでは女になって生活してます。あのとき、恋とも憧れとも名前がつけられない感情を抱いていました。その感情は私にはずっと大切なもので、いまでも心に丁寧にしまっています。ありがとう。どうかお幸せに。心から。





あとがき

書き終えた後、あの頃の情景がたくさん思い浮かび、ひとつだけためいきをしました。

あいまいな私を受け止めてくださったみなさん、Nのモデルとなったレズバーの方々、新宿2丁目に最大の感謝をします。ありがとうございました。

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赤い髪のお姉さんと女装できない男の娘 冬寂ましろ @toujakumasiro

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