クラスリポート とある学級委員の観察記録 本谷優理香
はくすや
Case 1 Y.S.
先生、うちのクラスでいちばん早く教室に登校してくる生徒が誰だかご存じですか?
星川君? まあ、たまに早いこともありますが、彼は生徒会室へ入り浸っていることが多いですね。
市川さんは、テニス部の朝練に行っていますよ。
誰だかわからないですか?
それが誰だか知ったら、きっと驚きますよ。私もびっくりでしたから。
クラスのみんなの話を聞いて、それは間違いないことがわかりました。
新学期が始まって二週間、ほぼ毎日一番早く教室に来て、窓をあけ朝の新しい空気を入れることを日課にしている人物。
私がそれを知ったのは、つい先日のことでした。
私は朝起きるのが苦手です。文芸部の私はつい夜更かしをして読書をしているものですから、どうしても就寝は一時を過ぎてしまいます。時には三時になってしまうことも。
しかし学級委員になってしまった私に遅刻は許されません。毎日自分の体に鞭打って体を起こし、そして小一時間かけて準備して、三十分の登校時間を経てようやく学校にたどり着きます。
その日は珍しく早く目が醒めたものですから、登校時刻も早かったのです。まだ正門は開いておらず、朝練の生徒が登校する通用口を通って校内に入りました。
たまに早く来るのも良いものです。生徒の姿も少なく、見る景色も違っている気がします。
昨日降っていた雨も上がっていて、清々しい朝でした。
私は人気の少ない校内をゆっくりと歩き、二年H組の教室前までやって来ました。
すると、教室の入り口近くの廊下に、二人の女子生徒がいました。
何かあったのだろうかと、私は
「おはよう。どうしたの? 中に入らないの?」
「うん、一緒に入るひとが来るのを待っていたのよ」若狭さんが答えました。
「じゃ、じゃあ、入ろうか……」真鶴さんが言いました。
体は入ろうと中を向いているのですが、ふたりは最初の一歩を踏み出すのに勇気が必要なようでした。
私は、その意味を知ろうと思い、教室の中を覗きこみました。
教室の窓がすっかり開け放たれていました。
心地よい風が吹き込んでくるのをわが身に感じます。
窓側から二列目最後尾の席に男子生徒がひとりいました。長い両脚を大きく広げて机の上に投げ出し、両腕を組んで椅子の背もたれに上半身をあずけて、気持ちよさそうに目を閉じて風のそよぎを堪能しています。
となりにならぶ校舎の隙間から射す朝日が教室の中まで差し込んでいて、まだ肌寒いはずの四月の朝なのに、彼のいるところだけ暖かい空気に満ちた結界が出来上がっているようでした。
私が教室に足を踏み入れても、鮫島君は目を閉じていました。
私の陰に隠れるようにして真鶴さんと若狭さんが教室に入りました。ふたりはそれぞれ自分の席につきます。どうやら鮫島君に遠慮して教室に入れなかったようです。
いえ、遠慮というより、恐れのようなものでしょうか。
鮫島君は背丈が百八十近くある上、空手をしていたらしく体格も良く、その上、目つきがとても鋭いです。それこそ我が文芸部副部長の
でも但馬先輩は自分の目つきが悪いことを自覚していて、それを隠そうとやたら大きな眼鏡をかけたりして、可愛い面も見られます。
一方の鮫島君はまさに唯我独尊です。おそらく彼ほどこの
鮫島君はおそらく学校からそう遠くないところに家があるのでしょう。電車に乗っているところを見かけた生徒はいませんし、長期休みのときには学園の近隣で彼のはじけた姿をときどき見かけるからです。
通りがかりのヤンキーが、鮫島君のために道を空けたというエピソードもあるようです。
そんな彼ですから、学園内では滅多に声をかけられるものではありません。みな恐れをなして遠くから目が合わないようにしてそっと見ているのです。
ですから、鮫島君がただひとり教室にいて、そこに入って行く勇気のある者はそうはいないでしょう。
そういう私は……、なぜか私は空気が読めないところもあって、鮫島君が中にいるからと言って教室に入れないということはありません。それに私は学級委員です。クラスの用事や、その他必要に応じて鮫島君と話をしたことはあります。
おそらく鮫島君と会話ができるのは、このクラスでは星川君と香月さんに私くらいでしょう。
話しかけて、「あ?」と訊き返されたりでもしたら、たいてい身がすくんで声も出なくなりますからね。
とっても怖い鮫島君ですが、私には悪い人には思えません。朝一番に教室にやって来て朝の新しい空気をいれるなんて、悪い人がする行為ではないですからね。
彼が毎日一番早く教室に来ていることは、その後多くの生徒の証言から確かなことだとわかりました。
どうして鮫島君はそんなに朝早く登校してくるのか。まさか空気を入れ替えるためだけとは思えません。気になった私は訊いたことがあります。
「鮫島君、いつも朝早いよね。どうして?」
そういう訊き方をする私を、空気を読めない女と思うひともいるでしょう。「察し」の言語を話す日本人は滅多に理由を訊ねないと但馬先輩から教わったことがあります。
理由を訊くのは相手を非難する時だと。「なぜ○○したのか?」、「なぜ○○なのか」、それらはみな非難の言葉です。
もちろん、私に非難の気持ちはありません。悪気がないだけです(笑)
「別に……、たいした意味はないよ」鮫島君は、にらみもせず、そう答えました。「たまたま朝早く目が醒めるだけだ」
「そうなんだ……」
私は納得したふりだけしました。
朝早く目が醒めるのか。その割に、授業中、休み時間を含めて鮫島君は教室でよく寝ています。朝の教室でだって、窓を開けた状態で自分の席で優雅に寝ているのですから。まるで早起きした分の睡眠を学校で取り戻そうと思っているかのようです。
ひとが毎日のようにする行為には何か意味があるものです。文芸部の先輩たちに耳にタコができるくらいそう教えられました。
鮫島君の登校が毎日早いのであるなら、そこに何か理由があるはずです。私はそれがとても気になりました。
それから鮫島君を観察する日々が始まりました。
人を観察するのは私の趣味です。文芸部で小説(というのもおこがましいような駄作ばかりですが)を書いていると、キャラクターの創作が重要ポイントであることを何度も思い知らされます。虚構の世界においてリアリティをもたせるにはキャラクターのリアルがとても大切です。
リアルなキャラクターを生み出すために、現実の人間をよく観察して、その行動原理を解き明かすのが近道だと文芸部で教わりました。
私は鮫島君に興味を覚え、彼を観察するようになりました。
鮫島君は、授業中ほとんど教師の方を見ていません。片肘をついて窓の外を見ているか、机に突っ伏して寝ています。
先生方もそれをよく御存じで、たいてい見て見ぬふりをしています。中には、担任の
たとえ面白くなくても、授業を聴いていれば時間がたつのも短く感じられると思いますが、鮫島君の一日はとても長いのではないかと、私は同情を覚えてしまいます。
私のように他人を観察する趣味があれば、どんなにつまらない授業時間でも退屈を感じることはないでしょう。しかし鮫島君には毎日が時間の浪費のように見えました。
授業時間中は、サイズの合わない机に身をたたみ、短い休憩時間はトイレにたつ以外はずっと寝ています。昼休みだけ、食事をとりに学食へ行くようです。
学食で食事をする鮫島君を見たことがあります。いえ、何度も観察しました。
鮫島君はいつもひとりで定食を食べます。誰かと話をしながらランチを楽しむといったことはしません。学食での席はいつも決まっています。昨年度まで三年生陽キャグループがたむろしていた壁を背にした特等席を定位置にしているのです。おかげで、今年の三年生はその席をなかなか利用できなくなっています。
髪をワックスで逆立て、血走った目で睨みを利かせた男が、肩をいからせて、両脚を大きく開いて腰かけているのです。知らない人は絶対に近寄れないと思います。だからたいてい、鮫島君の席の両隣は空席になっています。どんなに混んでいても、そのエリアは鮫島君が退出するまで利用されることはありません。
たまにB組の佐田君(彼もまた十分おかしな人です)が、武道部の勧誘のために鮫島君の近くで定食を食べたりしますが、鮫島君は鬱陶しそうに佐田君を追っ払う仕草を見せるだけです。
そうして午後の授業を終え、一日が終わると、部活に所属していない鮫島君はあっさり下校するのです。教科書は机の中に入れっぱなしのようですから、荷物は軽い手提げのみです。まあ、ふつうに見たら不良にしか見えないと思います。
そんな鮫島君ですが、成績は追試をうまく免れるレベルを維持しているようです。鮫島君が追試や補講を受けたという話は聞いたことがありません。全然勉強している気配はないのですが、必要最低限のことはしているということでしょうか。そのあたりのことをもっとつきとめたいと思っています。
鮫島君を観察するうちに、ひとつ重要なポイントを知りました。それは妹さんの存在です。
鮫島君の妹さんは中等部の三年生です。鮫島君は高等部からの入学生ですが、妹さんは中高一貫生でした。どうも、妹さんがいるこの御堂藤学園に、鮫島君が後から入学してきたようです。案外それがわが校にやって来た最大の理由のような気がしてきました。
妹さんはとても可愛いです。アイドルのような華やかさがあります。ふつう、私を含めて御堂藤学園の中高一貫生は地味な子が多いのですが、妹さんは高等部入学生によくいるタイプの明るいキャラで、中等部ではとても人気のある生徒だと思います。
そんな妹さんは軽音楽同好会に所属しています。生徒が「軽音」と呼んでいる部活です。かつては「軽音部」でしたが、今は部員の数が既定の人数を切っていて、同好会になっているのです。確か、高等部一年生の女子と妹さんの二人だけの部活だったと思います。
妹さんはとても歌がうまいと聞きます。ギターも少し弾けるようです。その妹さんにギターを教えたりしたのが鮫島君だと聞きました。
実はもう、妹さんに取材を敢行したのです。本当にあの二人が兄妹?と思うくらい外見は似ていませんが、とても仲の良い兄妹だという印象を、私は妹さんと話をするうちに、持ちました。
「兄がご迷惑をかけていませんか?」妹さんは心配そうな顔で私に訊きました。
「全然、大丈夫よ、学級委員の私が言うのだから間違いないわ」
「本当でしょうか? 兄はあの通りの不良ですから、本谷さんも大変だと思います」
「お兄さんは、毎朝いちばん早くに登校して、窓を開け、空気の入れ替えをしてくれるような人なのよ。クラスのみんなもそれを知っていて一目おいているわ」
「だと良いのですけれど……」
ちょっと話を良いように盛りました。一目置かれているのは事実ですから良いですよね。
でも、こんなに可愛い妹さんに慕われているのですから、鮫島君が悪い人間でないことは確かだと思います。
「兄は、空を見たり、風を感じたりするのが好きなんです」妹さんが言いました。「おそらく人と接しているよりもずっと」
「そうなんだあ……」私は微笑ましく妹さんを見つめました。
妹さんと会って話をしたことがあると、先日鮫島君に伝えました。
「軽音部に入っているのよね?」と私が言いますと、「今は同好会だがな」と顔はよそを向いたまま答えました。
「軽音なんてやっている奴にろくな奴はいねえ、と言っているんだがな」しようがねえなあ、って感じで独り言をつぶやく鮫島君は、何だか可愛い面も持っているようです。
「妹さんが可愛くてしようがないのね」
私が言うと、鮫島君は照れくさそうにしていました。
「あいつがギターの練習を、生徒がいない時間帯にするというので、朝練の時間帯に登校するようになったよ。全く、世話のやける奴だ」
それでわかりました。鮫島君は妹さんに変な虫がつかないよう睨みを利かせるためにこの学校にやって来たのだ。そして妹さんの朝練につき合うかたちで、朝早く登校してくるのだ。
それって何だか「萌える」理由ではありませんか?
そんな鮫島君は、きっとこれからクラスにも溶け込んでいくと思います。私はそれを後押ししたいと思っています。
以上、クラスリポートでした。
「とても興味深く読ませてもらったわ、ありがとう、本谷さん」
私の目の前で、副担任の
「畏れ入ります」私は頭を下げる。
「これからも、よろしくお願いね」
「わかりました」
放課後、私は、掃除当番を代表して掃除を終えたことを職員室にいるクラス担当に報告に行った。そこに担任の西脇先生はいなかったが、副担任の東條先生がいたので、彼女に報告したのだ。その際、東條先生に頼まれていたリポートをひとつ提出した。彼女はさっそく自分のノートパソコンに私のリポートを記したファイルを読みこんで目を通したのだった。
御堂藤学園は、新卒教師には二年の試用期間を経て、三年目に副担任をもたせ、四年目から担任をもたせるという方式をとっていた。だから三年目の東條先生が担任団に入ったのは今年度が最初なのだ。彼女にとって私たち二年H組は生まれて初めて担当したクラスということになる。
おそらく東條先生は、かなり意気込んでいるのだろう。わずかに微笑をたたえるだけで、基本的にはクールな印象のある東條先生。しかし胸の内では初めて受け持った生徒たちのすべてを把握したいと考えているに違いない。だから生徒の中に、生徒たちのことを逐一報告してくれる存在をつくりたかったのだ。そして私が選ばれた。他にも選ばれた生徒がいるのだろうが、私にはそれはわからない。いずれにせよ、東條先生はなかなかの策士だと私は思う。
でも、ごめんね、東條先生。私、嘘をついちゃった。
その日の朝、私は八時少し前に学園最寄駅に降り立った。計算上校門を通過するのが八時だ。ちょうど校門が開いている。それ以前だと通用門を使うことになるのだが、校門の方が近いのでちょうど良い時間帯だ。多くの生徒がこの時間帯に登校するから学校までの道のりがどうしてもゆっくりして時間がかかってしまうのが難点だったが。
その上、八時を過ぎると校門にずらりと教職員と生徒会、美化風紀委員の面々が並ぶ。校内に入る際に名札をつけさせたり、身だしなみに校則からの大きな逸脱がないかチェックしているのだ。多少スカートが短いくらいは見逃してもらえるが、男子生徒は首元のホックをしっかりと留める。校門が近づくにつれ、そうした手直しをする姿を見るのが常だった。
ふと目の前に鮫島兄妹がいた。相変わらず仲が良い。ちょっとケンカ口調なのがそれを物語っていた。
「ちっ、お前が起こしてくれないからこんな時間になっちまった」鮫島君は舌打ちした。
「起こしたわよ、ちゃんと」妹ちゃんがむくれている。「練習のない日は私だってゆっくり寝たいのに、無理して起こしたのに……」
校門まであと百メートルを切ったところで二人は立ち止まった。ぞろぞろと他の生徒たちが怪訝そうに横目で見ながら二人を追い越していく。
私は、興味を覚えて二人の様子を窺った。
「門番が軍隊みたいに整列しているな」鮫島君が言った。「しゃあねえ、非常事態だ」
鮫島君は手提げ鞄を高く放り投げた。手提げはフェンスを越え、壁の向こうへ消えた。
「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん!」
妹ちゃんが止めるのも聞かず、鮫島君は二メートルある塀を身軽によじ登り、その向こうにあるフェンスに手と足をかけたかと思うと、信じられないくらいの素早さでフェンスを越えていった。
「じゃあな!」
その声が聞こえたときには、もう鮫島君の姿はなかった。
校門での身だしなみチェックは、多くの生徒にとってはそれほど障害ではない。要領の良い生徒はうまくごまかす。しかし鮫島君のように目をつけられている生徒は、そのチェックも他の生徒の比ではないのだ。インナーに赤いシャツを着ていることも見つけられてしまうだろう。そうして一度つかまったら、面倒くさい注意を長々と聞かなければならない。それも毎日。
だから鮫島君は、チェックを逃れる方法を考えた。それが、教職員たちが校門に立つ時間帯を避けるというものだった。
朝八時以前なら校門は閉まっており、少し離れた通用門からほとんどフリーパスで入校できるのだ。
そこに高齢の守衛さんがいるが、鮫島君は守衛さんと仲が良く、いつも見逃してもらえていた。
鮫島君が教室に一番乗りしている理由。それは関所を通らず、不法に入国するためだった。
それを素直に東條先生に報告するほど、私は「善人」ではない。
教師の犬である前に、私もまた、ひとりの生徒だった。
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