二十四才
あの聖水を手に入れてから十年経っていた。
あの聖水はその間、実に大きな影響を自分に及ぼしていた。
水そのものを飲んだり撒いたりしていたわけではない。聖水はいまだに未開封で、今は押し入れの奥にそっと仕舞ってある。
だが、開けてはいないが頻繁に使ってはいたのである。
聖水は、触媒だった。
ほとんどマトモに人と話せなかった暗黒の中学時代。寝たフリをして過ごし、クラスの奴らの盛り上がりを下らないとしつつも聞き耳を立てていた僕は、実際は青春的なものに飢えていた。それに気付いたのは、聖水をもらったすぐ後だ。
クラスでもかわいい方の女の子から物をもらったという事実。彼女が僕に聖水を渡すことになった背景など想像したくもないが、目の前に現れた結果は間違いなくそういうことである。その結果は、僕の乾いた精神にまるで水のように染み渡った。
もちろん、タダで受け取ったわけではない。当時の自分にとってはかなり痛い一万円という出費があったわけだが、それすら見方を変えれば精神的なメリットになり得た。そう、まるで風俗嬢にお金を払うような対価。免罪符。彼女でならいろいろ想像しても許されるという、理由。
だから、聖水を手に入れてからというもの、自分の妄想の中に出てくる三次元の女の子は福山未来になっていた。
僕はことあるごとに聖水の入った瓶を取りだし、眺め、さすり、興奮が絶頂に達したときは口づけもしながら、頭の中に彼女を呼び出したのだった。
もちろんそこに本当の彼女などどこにもいないと理解してはいたし、聖水をもらった日から卒業まで、僕は福山未来と一度も話をしていない。本当なら喋りたかったし、そうでなくとも遠くから眺めたりしたかったのだが、やましさを抱えていたからだろう――――むしろ彼女を無意識に視界に入れまいとしていたようにさえ思う。
そして十年後の現在。
今日は中学の第一回目の同窓会。
会場であるチェーン店の居酒屋前で、僕は少し立ち止まっていた。電飾で照らされた看板を力なく見つめながら、溜息と深呼吸の入り混じった呼吸を繰り返す。
十年経った今も、僕はこういう集まりが当然のごとく好きではない。成人式はスルーしたが、そこからさらに四年。今ならなんとか大丈夫だろう、と思ってここに来た。大人になった福山未来を一目見たい――――それだけのためにここに来ていた。
スマホを見る。もう開始まで時間がない。流石に途中から入るのは嫌すぎるので、最後の深呼吸をして意を決して店内に入った。
同窓会の旨を告げ店員に案内された先、受付に座っていた女子(確か早川)は僕を見るなり曖昧な笑顔を浮かべた。卓上の名簿を見るに、自分は最後の一人だったようだ。一覧に福山未来の名前を、そこに〇が付いていることを確認し、僕は予定通り畳の一番端に胡坐をかく。
ウチの中学は各学年に二クラス、各組40名弱でありクラス替えは基本的にない。今日はそのうち20人くらいが集まっている。残念ながら福山は、この長細い和室にあって僕の対角線上、反対の端に座っていた。よってその姿の細かいところはよく見えない。似たような位置に座る僕とは違って彼女はちゃんと周りの人間と談笑している風ではあったが、その声は部屋全体のやかましさによってこちらまでは届かない。
僕は内心舌打ちしながら運ばれてくる料理とビールを処理し、横目を凝らす。けど無理なものは無理だった。ちなみに近くに寄って行くという選択肢はない。ここらへんが今の自分の限界みたいだった。
手応えのないまま退屈な時間がじりじりと過ぎる。唯一の救いは、誰からも変な絡まれ方をしなかったこと。二十四歳にもなると、寂しく呑んでいるクラスの陰キャをわざわざからかうような子供はいないということだろう。
そして、宴もたけなわ。
もう……駄目だな。
やはり、ゲスな考えを持った奴には運も味方しないのだ。
僕が今日狙っていたのは、聖水の情報の更新だった。
ネットやらを通じて色々と過激なオカズを見つけ出してから、聖水を使う頻度は減っていった。だが、ネットのオカズたちにも最近は飽きが来た。一応そういう店で仮免みたいなもんは取得したが、それとて期待したほどでもなかった。全ては、あの聖水を使い始めた頃の初期衝動に遠く及ばないのだった。
とはいえ、記憶の中で中学生で止まっている福山にいつまでも出演してもらうわけにもいかない。リアリティの欠如がある。
そこで閃いたのだ。
聖水の中の時を動かそうと。
聖水の中に自分と同じ時間軸で生きる大人の福山未来をインストールすれば、絶頂期には到達しないまでも、かなりの満足感を得られるのではないだろうか、と。そのためには顔、表情、声、身体、できるだけ多くの情報を得る必要があった。
実に下衆な発想だと自分でも思う。だから上手くいかなかったのだと自分を納得させる。
『二次会行く人~』なんて会話が繰り広げられる部屋から、僕はそそくさと立ち去った。一番最後に来て、一番乗りで店を出る。
誰の目線もなくなった途端に、未練がましく歩みはスロー。とぼとぼ、とぼとぼ。肩と目線を落として足を引きずっていく。
背後の店には、福山未来がまだいるのに。
「あのっ、倉橋君」
びくりと、背中が震えた。
背後の声には、どこか聞き覚えのある気がした。
妄想の中で擦り切れるほどに反復した声と、似通うところがあるのだ。
僕はゆっくりと振り返る。
そこには福山が小さく息を切らせて立っていた。遠目から服装だけはガン見していたから彼女に間違いない。
ごくりと喉が鳴り同時に心拍数が跳ね上がる。彼女の方から僕の前に現れるなんて、一体どういうことなのだろう。
「えっと、その、どうかしたの。福山さん」
居酒屋の駐車場は電灯のおかげで多少明るく、僕は先ほどまでずっと見たがっていた彼女の顔をちゃんと観察することが出来た。当時の面影は残っているものの、十年の歳月とメイクはかわいいをキレイに変化させていた。これは、イイ。
もじもじと身じろぐ福山。少女から女性という感じになった身体。パリっと硬い学生服ではなく余所行きのフワリとした服装が、それをより強調していた。
口調も、妙にへりくだった風はなくなり普通になっている。
彼女が言葉を躊躇っている間に、もう一度喉が鳴った。
「……聖水」
「えっ」
「聖水のこと、覚えてる? 二年生の時に私が、倉橋君に渡した」
覚えてる。なんてものじゃない。僕は心臓が止まりそうになった。
「あ、あぁ。そういえば、そんなことも、あったかも」
福山は、悲しそうな顔をした。
「私ね。ずっと倉橋君に謝らなきゃいけないと思ってたの。……私が、私が渡したあの聖水はね。きっと気づいてたんだとは思うんだけど」
「ただの、普通の水だったんだ」
それっぽい瓶に詰めた自宅の水道水だったのだと、彼女はそう言った。
あぁ……そうだろうね。
聖水が詐欺商品であるなんてことは、薄々なんてものじゃなく特濃で感じていた。だからこそ妄想の中で好き勝手していたわけで。正直、衝撃の事実では全くない。
けれど一ミクロンくらいの可能性。彼女が本当に僕のためを思って貴重な品を特価で譲ってくれたという話を彼女自身の口から否定された衝撃は、ことのほか大きかった。
――――おやっ、信じていませんね? ですがこれは正真正銘、本物の聖水ですよ~。霊験あらたかなパワースポットにおいて、なんと! 十年も日光と月光を浴び続けた逸、品、なのです!――――
僕はほとんどあり得ない希望を信じたかったのだろうか。
それとも完全なる絶望を信じたくなかったのだろうか。
どっちも同じだったろうか。
「今日会えたら、そのことを謝ろうと思ってて。本当にごめんなさい」
そりゃあ、君にとってどうでもいい僕に渡す水道水はただの水に違いあるまい。
でもね。君からもらったただの水は、僕にとってはとても大事なものだった。なのに君は僕から夢見る権利も奪うと言っているわけだ。
「それで、本当に、今更なんだけど」
彼女は懐から震える手で懐から取り出した。
一万円札を。
それを見た瞬間、僕の中で冷えて固まりつつあったものが弾けた。様々な感情がぐちゃぐちゃになったミートソースが脳内に飛び散る。簡単には消えない、シミになって残る。
それは彼女の誠意。
あの件において僕のことを気にかけてくれていたということが、少なくとも口だけではなかったという証だった。
……だとしたら? 僕が聖水をダシにマスを掻いて気まずさから彼女を遠ざけていた間、ちゃんと彼女を見て動けば違ったストーリーもあり得たのか? それはやっぱり自意識過剰の妄想? もし、もしかして、もしかしたら? ……とはいえ時すでに遅く、全ては遠くにある。
でも、どのみち、だからこそ。
「いや、それは受け取れないよ」
「……えっ?」
「だって、もう過ぎたことだし。あのときの福山さんは、僕を元気づけようとしてくれただけなんでしょ? いいものがタダじゃあおかしいわけだし」
言って、笑って見せる。できるだけアルカイックスマイルに近づける。最初で最後の印象操作。
「でも、あれは」
「いいんだよ。実際、あのときはあれで元気をもらえたんだ」
なぜ君が僕に一万円でただの水を売り付けなければならなかったのか、そんなことは聞きたくない。
「だから、ね」
しばらくの沈黙の後、おずおずと福山は一万円札を引っ込めた。
「倉橋君は、優しいね」
「そんなことはないさ」
本当にそんなことはない。
僕は嫌だったのだ。一万円と一万円。等価なようでいて、それは子供の一万円と大人の一万円だ。まるで価値の違うものの取引で罪悪感を帳消しにしないでくれ。君だけスッキリしないでくれ。僕という過去を、まだ清算しないでおくれ。
あぁ、こんな僕のことを気にかけてくれた優しい人よ。
僕の青春に潤いをもたらしてくれた人。
願わくばもうしばらくだけでも僕のことを、君の青春における汚点――――シミやホコリみたいなものでもいいから心に置いてはもらえないだろうか。
居酒屋の出口が騒がしくなってくる。
もう、二人の時間はない。
「倉橋君、ごめんね。あと、ありがとうね……それじゃあ」
彼女も終わりを察し、僕から離れて他の連中のところへ駆け出していく。
福山は一度止まって振り返り、最後に僕に笑顔で手を振ってくれた。
その彼女の姿を、しかと脳内に焼き付ける。
こちらに向けられた左手の薬指はキラリと光っている。
僕はその後、一人二次会をした。喉を通して、今まで入れたこともないような大量のアルコールを体内に取り込んだ。
天地無用。前後左右。不覚。不覚。不覚。
吐き気とフラフラの身体を抱えて帰宅し、真っ先に向かったのは洗面所ではなく押し入れだった。
押し入れの奥、僕は久しぶりにあの聖水を取り出す。聖水とは名ばかりの、ただの水を。
十年越し、酔って震えた手でついにその封を解く。ゆっくりと眼前に持っていき、荒い呼吸で凝視する。そして僕は、別にもう捨ててもよかったソレに口をつけた。
角度をつけて、一気に嚥下した。
ぬるい水が酒やけした喉を通過して僕の体内に取り入れられていく。
既に福山ですらなかったのかもしれない彼女は言っていた。これはただの水だったと。
だが、それは十年前の話だ。
あの時のただの水道水は、今は本当に十年間寝かせたいわくつきの水になっている。なんの効果もなかったとしても、きっと腹ぐらいは壊すだろう。
でもそれだけだ。
いっとき苦しいだけで、別に死ぬほどのことじゃない。
(了)
青水 野良ガエル @nora_gaeru
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