エディブルハート

三上 エル

忘れられない君の味

 そのスープは、まるで真っ青な絵の具を溢したように鮮やかな色彩で、真っ白なスープ皿を染めていた。とても人間の体内に入れていいものとは思えないその液体の水面には、黒焦げになった鳥の足が浮かんでいる。おしゃれな高級レストランの料理でも真似たつもりなのか、真っ赤なトマトソースがポタポタ垂らされているのがもう最悪だった。


「おい、チェル。スープ皿で殺鳥事件が起きてんだけど。切実に返品を希望」


 どう見ても殺されてバラバラにされた鳥が血を流しながら海に沈められる過程にしか見えない。これを見て食欲が湧くやつがいたら、そいつは間違いなくサイコパスだ。


「ええー!? この盛り付け方、すごく可愛いと思ったのですけどね……? ヴォルクさん的にはナシでしたか」

「ナシ寄りのナシです」

「なんと」


 まあ、間違いなくこの料理をこの世に爆誕させた上、可愛いなどとほざくこの少女が一番サイコパスだが。


 やたらデカいメガネの位置を直しながら、黄緑色の髪を揺らして首を傾げる目の前の少女チェルが、こんなグロテスクな料理をこの世に生み出したという事実がまず衝撃だ。その上、まさかこの小さなレストランを経営して客に食欲の失せる料理を振る舞っているなんて、世界が滅んでも信じたくない。


「おっかしいなあ……? 今回は完璧だと思ったんですけどね……?」

「頼むから俺の頭がおかしくなる前に自分のセンスが地に堕ちている事実に気づいてくれ」


 こいつの趣味ははっきり言って地獄の悪魔も発狂するような酷さなのだが、本人は全くそれを理解していない。何度指摘しても趣味の悪さが改善するどころかむしろ悪化するので、オレは毎日三回は目のあたりにすることになる地獄絵図食卓に頭をやられるのではないかと思い始めていた。さすがに世間はオレの意見を支持してくれるようで、こいつのレストランはオレがここに来てから今日までの約半年間、全く客が来ていない。正直言って安心した。オレはまだ、常人の感覚を持ち合わせているらしい。


「そう言うわりに、ヴォルクさんはいつもたくさん食べてくれますよね。十人分食べても、まだ足りないって言いますし」

「……オレは食えるものならなんでもいいだけ」


 そう言ってオレは殺鳥事件現場に向き合い、フォークで鳥を突き刺し、青い絵の具のようなスープをスプーンですくう。しばらくその様子を眺めていたチェルは、嬉しそうに笑うと、「じゃあもっともっと作ってきますね」とか言いながら、キッチンに戻っていった。その後ろ姿を見送って、完全にあいつの姿が見えなくなってから、オレはこっそりとこう呟く。


「味だけなら、今まで食べたどんな料理よりうまいんだけどな」


 こんなところに留まっていてはいけないと分かっているのに、何ヶ月も居候してしまっているのは、胃袋をがっしり掴まれてしまったからだ。オレにとって、食べることは何より重要なこと。生きるために食べるのではなく、食べるために生きているのだから。えげつない見た目の料理を片っぱしから引っ掴み食らいつきながら、気づけば呟いていた。


「まだ、足りない。まだ、全然」


 目の前の4人用テーブルには、殺鳥事件スープの他にも、置ききれないほどの料理で埋め尽くされている。けれど、オレには分かっていた。ここにある全ての料理を胃の中に放り込んで、チェルが持ってくる追加の料理を全部平げても、オレの空腹が満たされることはない。だって、オレが本当に食べたいものは。


「ヴォルクさん、新しいお料理ですよ〜!」


 オレの思考をかき消すように、チェルが新しい料理を持ってくる。その笑顔が記憶の奥底の何かを刺激するから、どうしても目を逸らせないのだ。


「なに、その燃え尽きた森みたいな野菜炒め」


 チェルになにも気付かれないように、わざとバカにしたような声を出す。それでも、彼女は楽しそうに笑うのだ。チェルはオレが言葉にしなくても、オレの感情を的確に理解してしまう。


「ふふん、これは自信作なんです。この葉野菜の先がチリチリしているところとか、可愛いでしょう?」

「焦がしたてってわけね」

「焦がしたんじゃありません! これは適切な火加減にかけた結果です! これで成功なんです!」

「はいはい」


 焼け焦げた葉っぱを口に入れれば、なぜか火が通っているのにも関わらずフレッシュな味わいが口に広がった。理想的なサラダの風味に幸福感を覚えながら、同時に一つの疑問が頭に浮かぶ。


「なあ、チェル」


 料理をもぐもぐ食べ進めるオレの姿を満足そうに見つめていたチェルに、オレはこう問いかけてみた。


「お前の願いってなに?」


 すると、チェルは虚をつかれたように押し黙る。彼女の黄緑色の瞳が、眼鏡ごしにゆらゆら揺れた。


「……やだなあ、ヴォルクさんったら。そんなの、聞くまでもないことじゃないですか」


 半年も一緒にいたからなのだろうか。今のオレにはそのチェルの笑顔が嘘だと分かってしまう。彼女のために、知らないふりをしてやることが、オレにできるたった一つのことだった。


「私の願いは、私の料理でたくさんの人を幸せにすることですよ」


***


 チェルのレストランはこの国の都の片隅にある。都といっても中心部からはかなり離れているから、田舎のちょっと大きな町くらいののどかな賑わいと下町のアンダーグラウンドな雰囲気を足して割ったような場所だった。煉瓦造りの古びた家が立ち並ぶ様子は美しいといえば美しいが、手入れのされていない薄汚れた感じはこの場所に住む人々のほんのりやさぐれた雰囲気をよく表していた。


 秋の終わりを告げるような、冷たく鋭い突風にあおられて、新聞の1ページがどこからか飛んでくる。拾い上げれば、そこには一面に若き国王の勇姿を讃える記事が載っていた。隣国との戦争にまたしても勝利したらしい。チェルのレストランに居座るようになって半年、ほぼ毎月のようにそんなニュースを見た。その下には、またしても魔法使いと魔女が見つかり、国王の名の下に処刑されたという記事が載っている。なんでも、処刑された魔法使いたちは国外に亡命しようとしていたところを一網打尽にされたらしい。魔法狩りに関するニュースも、ほぼ毎日のように大見出しを飾っていた。


 オレはその新聞の隅々までを注意深く読んで、そこにあってほしくない言葉が並んでいないことを確認する。どうやらまだ大丈夫らしい。安堵のため息をついた途端、強風がオレの手から新聞を奪い取って行った。


「なあ、あんた」


 自由を手にした新聞紙が空を舞う様子を眺めていると、初老の男性に声をかけられる。無言のままそちらに視線をやれば、男は人の良さそうな笑顔を浮かべて俺に尋ねてきた。


「ここらに、『チェリッシュのおいしいレストラン』って名前の、小さいけど評判の良いお店があるはずなんだが。その店の場所を知らないかい」


 その言葉を聞いて、オレはまるで死刑宣告を受けたかのような顔をしたに違いない。オレの様子に首を傾げたその男性が次の一言を言うより前に、その腕を引っ掴んで走り出した。


***


「いやあ、知らなかったよ! まさか、娘さんがお店を継いでいるなんてね。いや、確かにあいつはいずれ君に継がせるつもりで店の名前を決めたと言っていたが、こんなに早いとは思わなかった。大きくなったとは思うが、君はまだ20歳にもなってないだろう」


 まるで親戚の子供に対するかのように、親愛に満ちた声で、その男はチェルに言った。彼の目の前には、素朴だが美しく、食欲をそそるような素晴らしい料理の数々が並んでいる。いつもオレに出す、あの地獄みたいな料理とは大違いだ。


「あいつは今どこに?」


 その質問に、チェルの黄緑色の瞳が一瞬陰る。


「パパは、スカウトされて王様のお城に行きました。今は王様のために美味しい料理を毎日作っているはずです」


 すると、チェルの父親の兄貴分だったというその男性は、喜んで良いのか悲しんで良いのか、わからないという顔をした。


「それは……。とても、名誉なことじゃないか。さすがのあいつでも、断れなかったんだな」

「……王様は、パパを王城に迎え入れるために、わざわざご自分でいらしたんです。その日は町中がパレードみたいになってました。すごかったんですよ、王様は町中の人に施しをくださって、みんなすごく喜んでいたんです。だから、パパは笑って行きました。みんなのために」


 それを聞いて、彼は何かを言おうと口を開く。何度か言葉を紡ごうと試みたようだったけれど、それは結局形にならなかった。


「……きっと、王様も美食に目覚めたに違いない。あいつの料理を独り占めできるなんて、贅沢にも程があるってもんだよ。あいつもきっと幸せだろう」


 それはチェルを慰めるような、自分に言い聞かせるような、どちらとも取れるような言い方で。男性の座るテーブルの隣の席で話を聞いていた部外者のオレには、その空気が耐えがたかった。立ち上がって奥に引っ込もうとすれば、男性はなぜかオレを引き止める。


「ああ、ヴォルクくん、と言ったかい? 良かったら君の話を聞かせておくれよ。もうここに半年も居候しているんだって? チェルは昔からちょっとどんくさいところもあるけれど、とても優しくて頑張り屋な子だから、大事にしてやっておくれ。そんで、お前たちはいつ結婚するんだい」


 どうやら話題を変えるためのダシに使われたらしい。オレに向けられたその問いかけを聞いた途端、チェルの顔が真っ赤に染まった。


「ちょ、ちょっと待ってください! 私とヴォルクさんはそういう関係では全くないんです!」


 先程までの感傷的な雰囲気は見事に消え去り、慌てふためくチェルを見て男性はニヤニヤとする。


「おや、半年も一緒に暮らしているというから、てっきりそうなのかと」

「いや、その、これは違うんですよ! ヴォルクさんも否定してください! 私だけが慌ててたら、なんか変な感じになるじゃないですか!」


 そんな彼女に、オレは目をパチパチと瞬かせることしかできない。オレにはいまいち『結婚』という概念が理解できなかったので、チェルが慌てる理由もピンとこなかったのだ。


「ヴォルクくんは否定していないじゃないか。ほら、二人の馴れ初めの話とか、聞かせておくれよ」


 チェルは少し考えて、誤解を解くにはその話をした方が早いと思ったらしい。


「ヴォルクさんと出会ったのは、ひどい雨の降った、春の終わりの夜のことでした」


 チェルが語る声を聞きながら、オレもその忘れがたい日のことを思い返す。何度思い出しても、その思い出は擦り切れることなく鮮やかに脳裏に浮かんでくるのだった。


***


 腹が減った、と思った。腹が減って仕方がなくて、食べられるものならなんでも食べたい、と思っていた。心臓とかそういう大事なものがあるらしい、胸元のあたりに手をかざしてみようとして、誰かの声が頭をよぎってやめた。


『お前はもっとお前自身を大事にしろ』


 その声を思い返すだけで、胸がとても苦しくなる。こんなのはもう嫌だから、やっぱり忘れてしまえばいいんじゃないかと思った。でも、どうしてもできなくて。


 どこに行けばいいのかも分からず、どう生きていけばいいのかも分からず、ただ空腹に支配されて、冷たい雨に打たれながら、暗い夜の中を彷徨っていた。漠然と、今もし人とすれ違いでもしたら、大変なことになるだろうと思いながら。やがて、終わりのない旅に疲れ果てて、ふらりとその場に座り込む。街頭などない寂れた郊外の路地裏の闇の底で、オレはただ一人朽ち果てようと決意していた。

 

 彼女がオレを見つけさえしなければ、きっと何もかもそこでおしまいにできたのに。


「誰かいるの?」


 真っ暗闇に突然光が差し込んだ。それは、そこに立っていた少女の持つランタンの光。その輝きに照らされた黄緑色の髪と瞳を見て、オレは何もかもを理解した。


 オレはちゃんと分かっていたのだ。オレがどこに行くべきなのか。どうやって生きていくべきなのか。


 目の前の少女を見つめながら、胸の奥なのか、頭の中なのか、どこかにある心とかいうそれがズキズキ痛むのを感じていた。


***


「それで、雨の中一人でうずくまっているヴォルクさんに声をかけたら、死にそうな顔でお腹が空いたって言われたので、お店に連れて帰ってきたんです。そうしたら、どこにも居場所がないと言うので、それならここにいてもいいですよって私は言ったんです。そうしたら、半年も経ってました」


 チェルにとってあの出来事は犬猫でも拾ったのと同じレベルの話のようで、あっさりとそんな風に説明してのけた様子を見て、男性は苦笑いをするばかりだった。


 とりあえずオレとチェルの関係に深い意味はないと理解したらしい彼は、その後も取り止めのない話をいくつかしながら、チェルの見た目も味も最上級の料理に舌鼓を打っていた。やがて口も腹も満たされて、彼は代金を机の上に置いて席を立つ。


「あいつに会えなくて残念だったけれど、チェルが元気そうでよかった。安心したよ。ヴォルクくん、これからもチェルをよろしく頼むね」


 そんなことを言われて、オレは少し戸惑った。


「オレなんかに頼まない方がいいよ、きっと」


 すると、男性は笑ってオレの背中を叩く。


「そんなことはない。君はチェルとうまくやっているようだし、誠実な人間のように見えるよ。自分なんかと卑下することはない」


 親愛のこもった仕草に、心の奥がじんわりと暖かくなる。けれど、次に彼の口から紡がれた何気ない一言が、オレの心をあっという間に凍りつかせた。


「それに、見た目も、話し方も、仕草ですら、全然違うのだけれども。不思議なことに、なぜだか君を見ているとあいつを思い出す。君は、チェルの父親によく似ている気がするよ。だから、君なら大丈夫さ」


 その言葉に囚われていたものだから、彼がほかにどんなことを言って去っていったのか、全くと言っていいほど覚えていない。ただ、去っていく男性の後ろ姿が見えなくなった後、こちらを見たチェルの眼差しにはなんとも言えない感情が浮かんでいたことは覚えている。そのとき、オレはようやく理解した。チェルはもうずっと前から、自分の父親とオレの間にあるなんらかの関係性に気がついていたのだろうと。


 気づいていながら、知らなかったふりをしていたのだろうと。


***


 レストランの2階には、キッチン以外の生活に必要な部屋が全て詰まっていた。トイレも風呂も2階にある。そして、チェルの部屋も。オレはといえば、今は誰も使っていないもう一つの部屋を借りていた。そこを使っていたのが誰だったのかなんて、聞かなくても分かっている。彼女はどんな気持ちでオレにこの部屋を貸したんだろうか? 想像もつかなかった。


「ヴォルクさん」


 その夜は珍しく、寝巻き姿のチェルが部屋にやってきた。彼女はオレが床にうずくまり、相変わらずベッドを使っていないのを見て、眉をひそめる。


「また床で寝ようとしてるんですか? 遠慮せずそのベッド使ってくださいっていつも言ってるのに。せめて毛布くらいは掛けてください。風邪ひいちゃいますよ」


 ほおを膨らませながら、チェルはベッドの上の毛布をオレに渡してきた。オレはそれをどうしたらいいのかわからなくて、引っ張ってみたり、畳んでみたり、バサバサ動かしてみたりする。使用方法がわからないわけではないが、それは自分が使うにはあまりに柔らかすぎる気がしたのだ。半年間経っても、柔らかい服や毛布、ベッドの感触には慣れることがない。そんなオレを見て、チェルは何かに怒っているようだった。


「ヴォルクさんは……」


 何かを言いかけて、彼女はゆっくりと首を振る。彼女はオレが持て余していた毛布を取り返すと、オレの隣に座り込んで、二人の膝に毛布をふわりと掛けた。


「私のこと、酷いやつだって思ってますか?」


 唐突にそう聞かれ、オレは思わずチェルの黄緑色の瞳をまじまじと見つめてしまう。彼女の中に、酷いという形容詞が似合うような要素は一つだってなかった。


「なんで?」

「だって、食べるのが好きなヴォルクさんに、いつも悲惨な見た目の食べ物ばかり出しておいて、今日のお客さんには全然違う料理を振る舞ったから。本当はまともな料理が作れるのにって、思ったでしょう」


 そう言われて、オレは合点がいく。どこか不安そうなチェルの顔を見ていたら、なんだか笑えてきてしまった。


「ふっ、なんだ。そんなことか」

「あっ、今笑いました!? 酷い、私は真剣に聞いたんですよ!」


 思わずこぼれた笑い声を、彼女は敏感に聞き取る。ほおを膨らます様はまだ幼さを残していて、なんとも愛らしかった。


「お前は半年も金も払わず食うだけの男を居候させてるんだぞ。そんなやつが理由なく悪いことをするはずないことくらいわかる。それに、お前はわざと酷い料理を作ったりするやつじゃないのも知ってる」


 本当はもっと知っている。彼女が生まれたときのこと、初めて言葉を話したときのこと、立ったときのこと、歩いたときのこと、オレが知っていてはいけないことを、たくさん。


「なんですか、それ。私はヴォルクさんのこと、なにも知らないのに。ずるいや」


 チェルは拗ねたようにそっぽを向く。それから、少しばかり躊躇ったあと、彼女の細い手が、控えめな様子で毛布の中のオレの手に触れた。


「……やっぱり、冷たい」


 オレが拒まないことを確認して、チェルはぎゅっと両手でオレの手を握る。その姿はまるで、何かに祈っているかのようだった。


「ヴォルクさん、まるで死んでしまった人みたいに冷たいです。だから、毛布は使ってくださいって言ってるんですよ。仕方がないから、今は私が温めてあげますね」


 なぜか、そう言う彼女の黄緑の瞳は泣きそうに揺れている。


「……ねえ、ヴォルクさん」


 オレは返事をしない。こぼれそうな涙を堪える彼女を救うことはできない。どれだけ辛くても、彼女に手を差し伸べる役目は別の誰かのものだ。


「本当のヴォルクさんは、どんな人なんですか? ヴォルクなんて、本当のご両親がつけてくれた名前じゃないでしょう。本当のあなたは、なんていう名前なんですか? 本当のあなたは、私のことを……」


 彼女の瞳から、キラリと涙が一筋こぼれる。それを見て、ただ首を振るだけのオレに、彼女は言おうとしていた言葉を言うのをやめた。代わりに、チェルはオレの手を握りしめた両手を自分の額に押し当てる。まるで罪を告白するかのように、彼女はぽつりと呟いた。


「あなたが隠しごとをしてばかりなので。私は一つ、あなたに秘密を教えてあげますね」


 チェルが辛い思いをしながらオレに教えてくれた隠しごとですら、オレは既に知っている。そのことがあまりに罪深く感じられて、オレはただ胸の痛みを堪えるばかり。


「実は私、魔女なんですよ」


 階下のキッチンか、それともオレの幻聴か。どこかで、何かがパリンと割れる音が聞こえた気がした。


***


 オレの隣で眠ってしまったチェルを起こさないようベッドに運ぶのは、想像以上に難しいことだった。彼女の体は細く、まるで雲のように軽く感じる。彼女の部屋に運ぶべきかどうか悩んで、結局自分の部屋のベッドに眠らせた。ずっと彼女を抱き抱えていたら、壊してしまうような気がして怖かったから。


 どこか苦しそうにも見えるチェルの寝顔を見つめながら、彼女が言った言葉を思い出す。オレは彼女が魔女であることを、もうずっと前に知っていた。そしておそらく、彼女もオレが知っているとわかっていただろう。


 眠りに落ちる間際、うわごとのように彼女はこう呟いていた。


『ヴォルクさんは、知らないみたいですが。ヴォルクって、フォークのことなんですよ。パパは、どの食器よりフォークが好きだって言ってました。フォークがなきゃ、どんな素晴らしい料理も美味しく食べられないからって』


 オレは自分の名前の意味を、そのとき初めて知ったのだ。オレに名前を与えたあの男は、そんなことは教えてくれなかった。ただ、チェルによく似た笑顔で笑っていたことは覚えている。


『名前を覚えていないって? そんな馬鹿な話があるかよ。じゃあ、仕方がねえから俺が勝手に呼び名をつけるぞ。えーっと、ヴォルク。よし、今日からお前のこと、ヴォルクって呼ぶからな。え、意味? さあ、俺が一番好きなもののこととだけ言っとくよ』


 あの意味を今になって知ることになるとは。しかも、それをあの男の娘の口から聞くことになるとは。あの頃のオレには想像もつかなかった。


「魔女、ね……」


 この国では魔法が使える人間をまるで悪人のように扱っているが、実際のところ、この世界では本当は誰でも魔法が使えるはずなのだ。この世界に生まれた人間は、誰でも一つだけ、自分の願いを叶えるための特別な力を手に入れることができる。けれど、この国ではその力を持つことは許されていなかった。だから、みんな自分の願いに気づかないよう目を背けている。それでも願うことを諦められなかった人々だけが、この国の魔法使いとなり、魔女となるのだ。


 いつだったか、オレがチェルに、お前の願いは何か、と聞いたとき。きっと、チェルは自分が魔女だと知られていると分かったのだろう。だから、あのとき嘘をついた。それはオレを警戒してのことではなかったのだろう。もし自分が捕まったとき、オレが彼女が魔女であることを知っていたとバレたら、オレまで処刑対象になるかもしれないからだ。


 それなのに、今夜になって彼女はオレに真実を告げた。オレが何一つ真実を明かさないから、と言いながら。それはきっと、彼女が覚悟を決めたという合図だったのだろう、とオレは解釈する。オレの秘密を知ることで、どんなに危険な目に遭おうとも、苦しい思いをしようとも、それでも真実が知りたい、という彼女からのメッセージなのではないだろうか。


「なあ、チェル」


 どこか不安そうな寝顔の彼女を見つめながら、起こすことがないように、夢の中の彼女に向かって静かに囁く。


「本当のオレは、化け物なんだ。魔女なんかより、ずっとずっと罪深い、怪物なんだよ」


 いつか、夢から覚めた彼女にそのことを告げる日が来るのが、とてつもなく怖かった。だから、半年もずるずると言えないままで来てしまったのだ。でも、本当は伝えなければならない。オレの正体も、彼女の大切なひとにオレがしたことも、何もかも。


 全てに終止符を打つべきときはもう、すぐそばに迫っているはずだった。


***


「私の魔法はね、この料理です。ヴォルクさんはもう、知っていたでしょうけれど」


 次の日の朝、何事もなかったかのように朝食を用意してくれたチェルの手には、いつも通りえげつないグロテスクな盛り付けの料理があった。それをテーブルに並べながら、彼女は困ったように微笑む。


「私のママは、私を産んですぐに亡くなったのですが。パパは、私によくママのことを話してくれました。ママは凄腕の料理人であるパパを唸らせるような、それはそれはすごい料理センスの持ち主だったらしいんですけれど。私はママの料理がどんなものだったのか知らないし、パパもママの料理を再現することができなくて、寂しそうにしていました。そんなパパを見ていた私は、こんなことを願うようになったんです」


 そこで、ふ、と彼女が一度深く息を吸い込むのが分かった。普段通りのように見えるのはただの虚勢だったらしい。


「パパの思い出の味、私が作ってあげられたらいいのにな、って。ずっとそんなことを考えていたら、あるとき突然、パッと頭の中に浮かんだんです。パパの心の中にしまってある、ママと一緒に料理を食べた思い出の光景が。パパの思い出の料理がどんな見た目だったのか、どんな味だったのか、どう作ればそれを再現できるのか。気がついたら、考えるより先に手が動いていました。そうしてできた料理はとてもグロテスクな見た目をしていて、けれどとても優しくて温かい味がしたんです。パパは美味しいって言いながら、ボロボロ泣いていました。それはまさに、ママの料理そのものだったんです」


 当時の幸せな日々を思い返して、彼女は今まで見たことのないような、穏やかな笑身を浮かべる。


「その日から、私はみんなの思い出の味を再現できる、という魔法が使えるようになりました。やがて私はパパのお店を手伝うようになって、お店に来るお客さんに、それぞれの思い出の味を提供するようになったんです。その頃の私は知りませんでした。この国では、私のしていることは罪になるんだってこと」


 過去を振り返る彼女が幸せそうであればあるほど、オレの胸はギシギシと音を立てて軋んでいた。彼女の幸福の尊さこそ、オレの罪の重さに等しいから。


「パパが連れて行かれた日、パパは私を王様に会わせませんでした。私は二階の自分の部屋の窓から、こっそりとパパが連れて行かれる姿を見ていたんです。パパははっきりと言わなかったけれど、私は分かっていました。本当に連れて行かれるべきだったのは、私だったんだって。このままじゃパパを失うって分かっていたのに、私は出ていけなかったんです。震えながらパパの後ろ姿を見送ることしかできなかった私のせいで、パパは……」


 ああ、そんな顔をしないでくれ。それは君のせいじゃない。君が、罪深い罪人の顔をしなければならない理由なんて、どこにもないんだ。そう言ってやりたかったけれど、喉がつかえて言葉にできない。


「パパがいなくなった後、お店にはお客さんが来なくなりました。ヴォルクさんは、私の料理の見た目が酷いからお客さんが来ないんだと思っていたでしょう? 実は、そうじゃないんですよ。みんな、パパが連れて行かれた本当の理由を知っていたからです。このお店には魔法が存在していて、関わったら自分もひどい目に遭うからって、そう言って誰も来なくなっちゃいました。お客さんが来なくても私が生活できていたのは、パパが連れて行かれた日に、王様が一生困らないくらいの褒賞金を置いていったからなんです」


 チェルの瞳が、オレを見る。いや、その眼差しは確かにオレに向けられていたが、彼女が本当に見ているのは、きっとオレではないのだろう。テーブルの料理はどんどん冷めていく。オレはいつだって腹が減っているはずなのに、なぜだか食欲が全く湧かない。そんなことは初めてだった。


「それからの私はただ、息をしていただけでした。生きてなんかいなかった。私はみんなを笑顔にしたいと願っただけだったのに、その願いのせいで何もかもめちゃくちゃになってしまったんです。全てに絶望して、ただ頭を空っぽにしたくて雨の夜を彷徨っていたら、あなたを見つけてしまいました。初めてあなたの瞳を見たとき、思わずびっくりしてしまったんです。あなたの向こうに、パパがいる気がしてしまったから」


 ああ、そうだったのか。オレがチェルの瞳を見た瞬間に全てを理解したように。彼女もまた、理解してしまっていたのだった。オレと彼女が、出会うべくして出会っていたことに。


「お腹が空いたというあなたをここに連れてきて、私はあなたの思い出の味を作ろうとしました。けれど、完成したものはこれでした」


 彼女は目の前のテーブルに並ぶ料理を示す。どぎつい紫色のスープ、しなしなになるまで蒸された葉野菜のサラダ、トマトソースで飾られ惨殺死体のような様相を呈した魚の姿焼き。そう、これは確かに思い出の味そのものだった。


「最初は何かの間違いだと思いました。私がパパに会いたいと願いすぎたせいで、魔法がうまく働いていないんだって。でも、何度やっても、あなた自身の思い出は見つけられませんでした。代わりに見つかるのは、パパの思い出の味だけ。それに、あなたと過ごせば過ごすほど、あなたに全然似ていないはずのパパとあなたが重なって仕方がなくて」


 ドクン、と心臓が震えるのを感じる。ズキズキと痛むのは、頭なのか、心なのか。もう一度真っ直ぐにオレを貫いたチェルの眼差しは、今度は間違いなくオレ自身に向けられていた。


「あなたは、パパに何をしたんですか。どうして、あなたの中にパパが存在しているんですか」


 彼女の口から発せられた声は、今までに聞いたことがないくらい、静かで無感情で。できることなら、そんな声は聞きたくなかった、と泣きたくなった。これ以上、彼女に真実を隠すわけにはいかない。だから、オレはこう問いかけた。


「なあ、チェル。忘れたいけれど忘れられない、悲しかった思い出はある? 忘れてもいい記憶なのに、心に負った傷跡が治らないまま引きずっているものは?」


 それは決してはぐらかすための問いかけではない。チェルにもそれは伝わったらしく、戸惑った表情を浮かべながらも、こくりと頷いて見せた。


「あります、けれど。それがなんだと言うんです?」

「じゃあ、その思い出、オレにちょうだい」

「え……?」

「目を閉じて。オレの正体を、見せてあげるから」


 見せてあげると言いながら、目を閉じろと命令するのは矛盾していると自分でも思う。チェルも納得いかないという顔をしていたが、オレへの信頼がまだいくばくか残っているのか、ゆっくりと黄緑色の瞳を閉じた。


 彼女が見ていないことを確認すると、オレはテーブルの向かいに座っていた彼女の隣に近づく。そして、彼女の胸元にゆっくりと手をかざした。すると、彼女の胸元が一瞬きらりと光ったかと思うと、オレの手のひらの上に水色の綿菓子のようなものが現れる。


「目を開いて」


 チェルがゆっくりと目を開く。そしてオレの手のひらのそれを見て、震えるような声で問いかけてきた。


「それ、は……」

「記憶。思い出。あるいは、心のカケラ? はっきりとは分からないけれど、チェルの中にあったものだ。なあ、さっきオレが聞いた、忘れたい記憶のこと、今は思い出せる?」


 そう聞かれたチェルは少し考え込んで、それから驚いた顔をする。


「思い出せません……」

「だろうな。だって、それは今オレの手の上にあるから。そして」


 パクリ。水色の綿菓子のような彼女の記憶が、オレの胃の中へ落ちていった。口に広がるのは、苦くてしょっぱい、不思議な味。久しぶりに、空腹が和らぐのを感じた。そう、オレが本当に食べたいのは、普通の食べ物なんかじゃない。


「もう、二度と思い出せないだろうな。オレが、食べてしまったから。ずっと黙っていたけれど、オレは化け物なんだ。人の心を食らう、最悪の怪物なんだよ」


 チェルは哀れなほどにガタガタと震えていた。そんな眼差しを向けられるのは、初めてじゃない。けれど、彼女に恐れられたという事実はあまりに辛く、悲しかった。


「……じゃあ、あなたは」


 悲鳴のような声を振り絞って、彼女がなんとか言葉を発する。それは紛れもない事実で、それでいて目を逸らしたい真実だった。


「あなたは、パパを食べてしまったんですね」


 その日の夕方の新聞には、戦争終結を宣言する大きな見出しの下の隅に、チェルの父親の名前が小さく載っていた。魔法使いとして処刑された人間の、一人として。


***


 オレは心の無い怪物だった。なぜなら、オレはオレ自身の心を既に食らい尽くしてしまっていたから。心を食べる、というオレの力は、オレの願いを叶えるための力にほかならないはずなのだが。オレにはもう、オレ自身が何を願っていたのか分からなくなっていた。


 そんなオレのことを、この国の王は兵器として利用価値があると判断したらしい。気づけばオレは王城の片隅を彷徨っていた。オレの中にあるのはただ腹が空いた、なにか食べたい、という衝動だけで、人間らしい自我も感情も何一つありはしなかったのだ。そんなオレが王城の食糧庫に住み着くのは自然な流れで、国王もそれを黙認していた。オレは残飯だろうがなんだろうが、とにかくなんでも口にした。


 ときおり、国王がオレを呼び寄せることがあった。それは決まって、敵国の捕虜や王城に入り込んだスパイの心を食わせるためだった。彼らの心は大抵、塩辛くてピリッと刺激のある、スパイスの効いた味をしていた。たまにすごく苦いときもあった。なんにせよ、オレは食べられればなんでもよかった。オレが心を食べてしまったら、食べられた人間たちはどうなったのかって? もちろん、一人残らず廃人になった。虚ろな瞳で空を眺める、ただの肉の塊に。きっと、国王にとってオレはとても都合の良い道具だっただろう。


 あの男がオレの前に現れたのは、そんなある日のことだった。魔法使いであると疑われていた彼は、料理をすることで魔法を使うと思われていたらしく、城に連れてこられてすぐ料理をするよう命じられたという。そうして食糧庫を訪れた彼は、隅にうずくまるオレを見つけたのだった。


 彼はオレに色々なものを食べさせてくれた。オレの知らなかった、優しい味の温かい料理をたくさん。そして彼はオレに名前を与え、王城の外の世界について話してくれた。一番たくさん聞いたのは、既になくなったという奥さんと、彼女との間に生まれた愛娘のこと。宝物チェリッシュという名前をつけた娘がいかに愛らしく、才能に溢れていて、将来有望か、彼はいつもオレに誇らしげに語っていた。


 オレは何も分かっていなかった。彼はずっとそばにいてくれるものだと思っていたのだ。けれど、そうはいかなかった。彼は魔法使いとして王城に連れてこられたが、実際には魔法使いではない。それなら、本当に魔法使いだったのは誰か? 追求されれば、彼の愛する娘が捕まるのは間違いなかった。


『このままじゃ、俺が魔法使いじゃないってバレちまう。俺はどうなってもいいが、チェルのことは絶対に守りたいんだ。だから、俺の心をお前にやる。俺が心を失ってしまえば、俺が魔法使いじゃなかったという真実が証明されることはない。なあ、頼むよ』


 そう言われて、オレは初めてこう思ったのだ。この人のことは、食べたくない、と。けれど、彼はどうしてもと言って聞かなかった。オレにはどうしたら良いのか分からなかった。ただ、彼を失いたくなかったし、彼の願いを叶えてもやりたかった。その想いを言葉にすることも、あの頃のオレにはできなかったけれど。


 結局、オレは彼の言う通りにするほか、何もできなかった。彼を失う間際、彼はオレに笑って言った。


『お前はもっと自分自身を大事にしろ。もう二度と、自分自身の心を食べてはいけないよ。お前は自由になっていいし、幸せになっていいんだ。だから、ほら。笑ってみせておくれ』


 それが、彼と交わした最後の言葉。お腹いっぱいになるまで頬張った彼の心は、甘くて、優しくて、柔らかくて、泣きたくなるような味がした。


***


 まだ日も昇らないような朝に、オレは居座り続けた部屋を出た。階段を降りて、外へ続くレストランの扉を目指せば、そこにはまだ寝巻き姿のチェルが立っていた。


 そこに彼女がいるであろうことは、分かっていた。本当は、いてほしくなかったけれど。


「行ってしまうんですね」


 チェルはこちらを見なかった。そっぽを向いて、感情を押し殺した声で言葉を続ける。


「ここを出て、どこへ行くんです?」


 その答えは決めていた。いや、選択肢などオレにはなかったのだ。オレは救われていい存在じゃないし、自由を手にするべき存在じゃない。


「オレを閉じ込めて、道具として利用するひどいやつの元へ帰る」

「……」


 逃げ続けても、いずれ国王はオレを連れ戻しにくる。今は戦争が立て続けに起きているから、オレに拘っている暇はないようだが、昨日の夕刊の記事には戦争が集結したと書かれていたから、もうすぐ迎えはきてしまうだろう。もしこの店に居座り続けて、その迎えがチェルと出くわしてしまったら、彼の犠牲が無駄になってしまうかもしれない。


「オレはお前の父親から自由をもらった。けれど、どこにも居場所なんてなかったから、どうすればいいのか分からなくて、がむしゃらに彷徨っていた。けれど、オレの中にいるあいつがここへ導いてくれたんだ」


 あの男が話していた通り、この場所は素晴らしいところだった。彼が誇りに思っていた娘は、本当に心優しい少女だった。


「オレは、心のどこかで願っていたんだと思う。君に会ってみたい、君と日々を過ごしてみたい、君と家族のような関係になりたい、お前の父親がお前と過ごしたような、優しい日々が欲しい、と」


 それはとても自分勝手な願いに過ぎなかった。オレが満たされるために、ここまでチェルを傷つけてしまったことが許せないから。オレは彼との約束を破ることにしたのだ。


「チェル。オレは、君のことが好きだった。心の中にいる彼の思いに引きずられたとか、そんなんじゃない。本当のオレ自身の心が、君のことを愛していた。けれど、君を愛する権利はオレにはないって知ってるから。この想いは、君に食べて欲しいんだ」


 オレは胸元に手をかざす。手のひらに転がったそれは、チェルの髪と瞳によく似た黄緑色をしていた。


「食べてしまえば、胃の中に溶けてなくなってしまうよ。君が忘れたいと願えば、あっという間に消えてしまう。食べてしまった後も、君の父親はオレの中に存在し続けていたけれど。オレの心を食べたからといって、君もそうなるわけじゃない。だから、安心して、消してしまっていいんだ」


 それを聞いて、チェルは慌てて駆け寄ってくる。オレの中から、彼女との思い出はどんどん薄れていってしまっていた。彼女もそれに気づいていたのだろう、なんとかそれをオレに戻そうと試みて、出来ないまま、涙で濡れた瞳でオレを見た。


「こんなの、酷いです……! 好きだなんて、言うだけ言って。私に、全部食べてしまえっていうんですね。酷い人! 私だって、本当は大好きでした。あなたがパパを食べてしまったとしても、パパはきっと受け入れたんだろうって分かっています。だって、あなたを見ていると、いつだってパパの笑顔を思い出しましたから。お願い、行かないで。私のことを忘れたりしないで。今のままのあなたでいて!」


 それは不可能であることくらい、彼女は知っていただろう。それでも、彼女はオレに縋り付いて叫んでいた。泣きじゃくり、パタパタとオレの胸元を叩き、どうしようもないその悲しみをどうにかしようともがいていた彼女は、やがて恐る恐るオレの手の上の黄緑色を手に取った。


「本当に、どうしようもないというのなら。いつか、私があなたを迎えに行きます。あなたがヴォルクさんじゃなくなっていて、何も分からない怪物になっていても、構いません。必ず、あなたを取り戻してみせますから」


 そう言って、彼女はパクリとオレの心を平らげた。それはどんな味がしたのだろうか。きっと、彼女の作ってくれた料理のような、この世のどんな料理よりも素晴らしい味がしたことだろう。


 ああ、オレも食べてみたかったな。そんなことを考えながら、オレは扉をゆっくりと開ける。朝日がゆっくりと町を照らし、オレの行くべき道を示していた。


「さようなら」


 オレのすぐ背後で、誰かがそう呟いたのが、オレの耳に届く。その声には聞き覚えがある気がしたけれど、思い出そうとしても、頭が霞むような感覚がして思い出せなかった。ただ、間違いなくそれがオレに向けられたものであることは確かだったから。オレは振り向かずに、黙って手を振った。


 オレはお腹が空いたな、と思いながら、遠い目的地に向かって足を踏み出したのだった。

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エディブルハート 三上 エル @Mikamieru_8

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