四、罪と接吻
アスティファヌスの遠さを嘆きながら、私は彼を避けた。食堂でも、廊下でも。彼の親切を受け取れない。慰められたり、励まされたり。献身的な愛を施されたくなかったのだ。
「エステルハージ、なぁ? 別に喧嘩しはったわけとちゃうやん、エル=コーリーと」
ラカトシュ先生は、私の口数が減ったことを案じて、また二人で遊びに来るように誘った。
「エル=コーリー工房の新酒、買うてん。あそこも、人手のあらへん中、生産数絞って気張らはって。今年のんも、まぁえらい美味しいねんで?」
「僕、やはり酒はやらないことにしました」
「嗜む程度やん。誘いのきっかけやん」
「すみません、ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をすれば、ラカトシュ先生もそれ以上は何も言わずに、赤い絹張りの椅子へと身を納めた。
「まぁ、なんや……君は……せやなぁ、もう少しでも、自分っちゅうんを出せたら良えんとちゃうかぁて、先生は思いよるねんけどなぁ」
「……碌なことになりませんから」
私には、中間がないのだ。押し黙るか、止めどなく溢れさせるか。泣き喚いて、八つ当たりするくらいならば、籠めおく方がよほど害がない。
父からの手紙には、私が上手くやっていることへの安堵と、指導生が不良だったことへの労いが綴られていた。終わりには、来月からモスクワへと出張なので、冬休みを共に過ごせないとの詫びも。
――父上、お気になさらず。モスクワはお寒いでしょうから、お身体だけが心配です。
そう書きながら、寂しさのやり過ごし方を思い付かずにいた。
そうして、十二月になり、朔日の昼食時。ラカトシュ先生が退任した、と校長先生より報された。一身上の都合というが、夕刻には掲示板に匿名の貼り紙がなされていた。
――ラカトシュ・ラヨシュ元教諭は、フランス女に籠絡されて、祖国の機密を西側陣営へと漏らしていた!
生徒諸君、我らは団結して、反
赤文字で書かれた貼り紙は、何枚も横並びに連なる。文責者も掲示期限の明記もなされていないのに、これらは、翌日も一週間後も掲示板にあり続けた。フランス語は上級組の先生の受け持ちとなり、ラカトシュ先生の教室には、追って警察の捜索が入っていた。
突然に先生が消えた。衝撃は恐れと共に広がり、しかし、自分は恐れを抱く側ではないと表明する運動を引き起こした。
いくつもの勉強会が開かれ、上着の胸ポケットに赤い手巾を挿すことが流行った。徒党を組んだ上級生たちが、私室検査と称して抜き打ちで各部屋へ押し入った。西側文化がないか、また、飲酒喫煙の痕跡がないか、寝台をひっくり返す勢いで調べるのだ。
私の部屋は、真っ先に荒らされた。特に見咎められる物は出なかったが、その日以来、取り囲まれることは幾度もあった。浴びせられる云われなき誹謗と暴力。収奪者、貴族エステルハージ。親ナチ、ファシスタ、ドイツ人、異邦人――!
保健室で治療を受け、扉を出たところで、アスティファヌスと鉢会った。彼もまた、顔に痣を作っていた。私は同情の言葉一つ言えずに、足速に立ち去った。彼の前では、私は心を抑えられないのだ。
そして、やはり保身。教室棟の階段下で、私は見た。ユダヤ
私のどこが、人の上に立つに相応しい器だというのだ。止めろの一言が言えない。暴力に屈した情けない私は、嵐が過ぎることばかりを祈っていた。
終業式は二十四日、一切の装飾がない元聖堂にて行われた。校長先生は白い息を吐きながら、規則正しい生活を送るように忠告すると、早くも新年を祝って降壇した。
夕食は空席ばかり。部屋の窓から町を見下ろしても、通りは真闇。家々から漏れた赤い光が、窓辺の雪に照り返り、辺りを染める。その光景も、私の息ですぐに陰ってしまう。寝台に仰向けになって両腕を広げても、胸に入る来るやや埃っぽい空気の量は変わらない。私を満たして温めはしない。
水晶の玉飾り、蝋燭の灯。樅ノ木の下に寄せられた贈り物を開けたいとせがむ私を、母は抱き上げて窓辺に連れた。夜が明けたらと、星は見えないか、と。母の、最後の
扉が三度、叩かれた。時計は既に十一時に近付く。舎監だろうか。しかし、私を呼びかけたのは――
「イシュト、もう寝てる?」
扉を開けると、外套の肩に雪を乗せたアスティファヌスだった。
彼は聖堂の脇戸を揺り開け、尖塔の階段を昇った。小部屋に出る。燭台の蝋燭が灯されると、大小のキリスト像や聖母子像、天使像などが姿を現した。どの像も、棚の聖書も銀器のいずれも、埃を被った様子はなく、点けられてゆく灯りに艶と影とを増やす。
「僕の入学式には、このマリア様が壇上におわした。けど、その年の
アスティファヌスは、銀の聖杯へと赤い葡萄酒を注ぎ、金の天冠を被った長身の聖母像の足許へ、パンと共に置く。私たちを囲んで立つ一々の像に捧げ物をして、残った葡萄酒は、小さなグラス二つに注いだ。
「乾杯しよう」
いくつもの灯りを宿す、微笑みの目。グラスを受け取り、捧げ返した。薄い毛布の上で重ねるグラスの口は、鐘の音の替わり。ほのかに温かなキリストの血を飲み干す。罪の上塗り、自身への裏切り。
「イシュト。神は全てを赦したまうよ」
「……祈れる者ならね」
「君は、ここへ来た。神が導いたんだ。君も神の子だ」
信仰故ではないのだ。戸口にて誘われたとき、私は今宵を孤独に過ごすに堪えられないと、認めざるを得なかった。誘われるままに、付き従ってしまう。いつだってそうだ。私はいつも、私を貫き通せはしない。孤独に怯んでしまうから。
「……あなただって、違わないでしょう?」
「なあに?」
「僕を誘ったのは、何故――?」
酔いに、揺れを錯覚する。アスティファヌスの目に、いつかの夕映が宿る。
「イシュト……」
優しい響き。顔を背けても、追い来る煙草の香り。手から奪われたグラスは転がり、毛布を出て、天使像の足許に当たる。
「イシュト、イシュト……」
熱い抱擁は、今までとは違う強引さ。暖を求めているわけではない。明確に私自身を求めている腕。手。息遣い。
「イシュト、こっち向いて」
「……嫌だ」
「向いてったら」
振り向かされる。濡れた目が、私を刺し殺そうとする。鼓動が耳にうるさい。抵抗の身じろぎは全て、アスティファヌスの強い腕に鎮められ、首の根も押さえられる。唇に、柔らかな熱。これが接吻、銀の十字架の冷たさとも硬さとも、まるで違う。安堵も慰みももたらしはしない。焦がされる血潮。
幼き日に母を亡くした私にとって、接吻とは、形見の十字架へとなすものだった。屋敷地の麓には聖堂があった。太い石柱の間、壁一枚ごとには、イエスの生涯を描いたフレスコ画。椅子を二脚と小さな机を用意して、老司祭はにこやかに私を出迎えるのだった。
『ユダの接吻』を前にした司祭は、痩せた指先を力ませて、厳しい声で語った。
「ユダは、自身が接吻した者こそがイエス様だと示し合わせていました。裏切りの罪です。そのため、ユダヤ人は世界中を放浪する罰を受け、今や滅びようとしているのです」
騒然とする兵や使徒たちに囲まれたイエスとユダは、何の感情もない目で接吻する。この日以来、私は何をにも接吻していない。
敗戦と、棄教。紅巾と、級長に与えられる金の襟証。優等生の装いで、けれども、心の奥底では、ずっと恐れていた。いつか私のユダが現れることを。神を棄てた者、偽りの
「……ねぇ、イシュト」
苦しさに詰まる声。愛など囁かれる前に、交わりを求められる前に、制する。
「――アスティファヌス。これは、あなたの神への裏切りではないのか?」
「君は……こんなときにばかり、神を口にするんだな」
そうして、私の言葉は再び奪われる。違うのだ、私が求めていたのは、精神の深み、彼の内奥であって、肉体的な欲望の交錯ではない。
太陽と海との交わりは、「mêlée」なのか? 意志を持った者同士が駆け寄り、刺し合う? ――海が、どうやって太陽へ向かうというのだ。太陽だけが海を染めて、太陽だけが海に沈み入るのだ! 燃える炎の、その中心が何色か、明かしもしないままに――!
「――止めろよ、馬鹿!」
突き放し、階段を駆け降りる。彼の顔など、見られもしない。戻れないのだ。私の弱さ、沈黙が招いた破綻。彼を何も知りえぬままに、私たちは途絶えてしまう。陽に去られた海は、独り悲しみに暗むしかないのだ……。
冬休みが終わって、鬱々と考え込む日々は、勉強に追われる日々へと変わると思っていたのだが。
一月四日。始業日の昼食時。ラカトシュ先生の貼り紙の上に、さらに連ねて赤文字の貼り紙がなされた。
――ユダヤ人、エル=コーリー・アスティファヌスは、変態性欲者である! 同室のエステルハージ・イシュトヴァーンも、彼と関係を持つ同罪者!
堕落なる
私は食堂内へと引き立てられ、席にも着かずに集まる生徒たちと、先生たちの机が置かれる上段との間に投げ出された。赤い絹布を胸に挿した上級生たちは、止めにかかる先生までをも取り押さえる。勝ち誇ったような、嫌らしい笑みの人垣。配膳のなされた机の上にまで登って。
「――イシュト!」
人垣の内側で、腹部を押さえたアスティファヌスも倒れていた。顔には痣、口の端は切れて、震える腕で上体を起こす。思わず助けようと手を伸ばすと、襟首を掴まれ、引き立たされた。私の部屋を荒らしに来た、取り分けて体格の良い最上級生だった。
「エステルハージ。自分、先月二十四日の晩な、部屋抜け出して、どこ行っきよったねん?」
青ざめた私に、もはや答弁の余地は与えられない。羽交い締めにされ、襟を締め上げられる。容赦などはない。腐肉にわく蛆虫でも見るような目が、私を凄む。
「聖堂の二階で、あいつと
冷やかしと嫌悪の叫び声。変態、異常者、出て行け――! 喉を潰され、苦しさに泣きむせべば、穢らわしいと、床へ投げ棄てられる。背中を打ち付け、痛みに動けない。恐怖に身体が震えた。
私はもう二度と、平穏な学校生活を送れないのだ。目立たないように、善良で模範的な生徒であるように、あれほど心したというのに。
全ては、酔ってしまったせいだ。褐色の頬と、黒い眼差しに。不揃いな音の演奏に。優しさに。葡萄酒に。この男の、見せられもしない内奥に――!
「大丈夫か、イシュト……!」
伸ばされた手を力の限りに払って、叫んだ。
「僕は変態性欲者なんかじゃない! それは、こいつだ! こいつが無理矢理、僕に――僕に接吻したんだ――!」
水を打って鎮まる観衆。私の指先には、悲しみと衝撃に目を見開くアスティファヌス。見ていられずに、目を閉じた。
「僕は……違う……」
私の嗚咽だけが響いていた。私は結局、保身のためにしか声を挙げられないのだ。何の正しさも有しない。私は許されるような人間ではなかった。初めから。
「イシュト」
やけに鮮明に、囁きの声が聞こえて、温かく柔らかな唇が、頬へと押し当てられた。彼の長いまつ毛が、私の鼻先にあった。
「イシュト、決して自分を責めるな」
憎しみなど欠片もない。愛惜に潤む目。
「――僕は、ようやく決心が着いたよ」
その微笑みが、最後だった。アスティファヌスはよろと立ち上がると、人垣へと向かって歩む。自ずから道が開かれて、彼は振り向かないままに去り、食堂の扉が閉められた。
アスティファヌスは退学し、私は、残りの三年半を沈黙に過ごして、卒業後は逃げるようにモスクワへと渡った。大学在学中の一九五六年、ソ連からの解放を求めるハンガリー革命が起きたときも、学窓深くに留まった。
私は何に酔ってもならない。幾重もの贖罪のため、粛々と生を全うしなくてはならない。そう決めたものの、祖国に暮らすにはあまりに息苦しく、外交官となり海外へ出た。
初め、エジプトへ。次いで、モロッコに。そして、三十四歳になって、三度目の赴任。希望が通った私は、レバノンへと赴いた。
着任の夕べ、私が
拍手と共に、奥のグランドピアノへと、奏者が座った。あの頃より焼けて、また、年相応に膨よかになったアスティファヌスだった。
ドビュッシーの『アラベスク』。どこか投げやりな、乾いた砂がこぼれゆく音は、少年の日と変わらない。彼は、客席へ顔を向けないが、その選曲は、全て私に向けたものだとわかる。『月の光』に『夢想』に。優しく。私の謝罪を受けるより先に、全てを赦してくれるように。また、深く詫びるように。
彼の左手の薬指には、銀の指輪が光っていた。私は不意の寂しさを覚えたが、遥か昔、誕生日を迎えた私へと老司祭がそうしてくれたように、胸の前で十字架を切り、愛しき者とその家族へと、神の祝福を祈った。
接吻 小鹿 @kojika_charme
★で称える
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