三、祖国の冬
刈られた麦畑に、枝だけになった葡萄棚に、粉雪は降る。
重い曇天のある日。教授棟の集中暖房は点けられなかった。県庁の教育課から視察団が訪れるのだ。課長の名は、父から聞いたことがあった。質実剛健を旨とするモスクワ帰りの武官。
昼食を食べる教師陣は、壇上一列、揃って緊張の面持ちだった。
やけに艶々した背広を着たキス先生が、決して寒がる様子は見せるなと言い付けて、午後の授業が始まる。鼻を啜る音があちこちから立つころ、扉が叩かれた。緊張の静寂。校長先生が扉を開けて、視察団一行が入室する。
長身痩躯な白髪の教育課長は、低い声で一言、続けたまえと述べて、机間を歩んだ。革靴の音と、軋む床板。普墺戦争の顛末など、誰の耳にも入らなかった。
教壇まで戻った教育課長が手を掲げた。
「誰か、国営農場の利点について、簡潔に述べてみたまえ」
険しい面立ちに、挑む者などいない。キス先生が、級長、副級長へと順々に、目線で手を挙げるように訴えるが、教室は静かなまま。
「――エステルハージ」
思いもしなかった。驚き、心配、含み笑い……色々な顔が、私を振り返る。キス先生は青白い顔を上下に降って、立つように示した。緊張に強張る脚を立たせれば、教育課長の灰色の目が解答を求めて光る。
私の震えは武者震いだ。これは、私がどれほど正確に、社会主義体制の理念を理解しているかを示す好機なのだから。一息を吸ってから、落ち着きを取り繕って、口を開く。
「国営農場の利点については、大きく三点あります。一つに――」
国による生産管理。次いで、農場の共同保有や集団運営による生産性の向上。そして、職業斡旋による労働者の生活水準の向上。
言い並べるうちに、教育課長の眉間の皺は少し緩む。
「よろしい。お父上も誇らしかろう」
安堵は一瞬。恐縮でございます、と述べたのはキス先生だった。
踊らされたのだ、私の答弁は、掠め取られた。キス先生の評定に利用されたわけだ。並べられる賞賛、私がいかに優秀な生徒であるか。
私は身動き一つ取れない。この教室――居並ぶ偉い人と、審判員たる生徒たちが正す秩序の中、一人立つ私には、一言の発言すら自由ではないのだ。
午後の授業が終わると、私は呼び出されて、寄宿舎の案内を請け負うことになった。それは口実、教育課長は私の様子を見てくるように私の父から依頼されたとのことだ。聖堂裏手の急な坂道を軽い足取りで上る彼は、父とは士官学校にて知り合ったという。
「俺は貴族様だぞなんて態度の奴は、上級生だろうと叱る人だったからね、君のお父上。戦後、領地を返上したと聞いても、驚きはしなかったよ。私はとても慕わしく思うが、反面……まあ、浮きがちでもある、今でもな。君はどうだね? 見させてもらったところ、あの先生は君のことをよく買ってくれているようで、そこは安心しているが」
「はい、ありがたいことでございます」
キス先生は私を売ったが、私は先生を売りはしない。父のように正しい人間だから。そして、父とは似ない、弱い人間だから。もしここで先生を売ったなら、得られるものは雪辱を晴らした爽快よりも、正しくないことをした罪悪感だけだと、私は知っているのだ。
寄宿舎の正面扉をくぐると、教育課長は真っ直ぐ掲示板の前へと進んだ。掲示物一つずつに目を通す。いくつかを指差していき、舎監に取り外させた。
「内容には検閲をかけていないのかね? まったく、
他にも、掲示物には文責者を明記すること、掲示期限を定めて期日の過ぎたものは速やかに取り外すことなど、指示は様々積み重なる。
「掲示板とは、思想や集会の温床になりがちだ。学校側がしっかりと管理するように」
教育課長はそのまま、掲示板のすぐ奥にある食堂へと入り、四列の長机の間を進んだ。
「なかなか清潔にしている。これはよろしい。食事内容は、満足かね? エステルハージくん」
「はい、十分にいただいております」
「ふむ。して、味に関しては?」
「生産者、調理者に感謝していただく身です。味を論じはいたしません」
「ははは、流石はさすが。立派な答えだ」
肩を叩かれ、私の緊張は少しだけ緩む。上手く答えられたようだった。教育課長は、教師陣の着く長机が置かれた壇上へと上がって、食堂を見渡した。
「教壇とは、秩序を保つによく出来た仕組みだ。生徒は一目で従うべき者を知り、指導者は生徒一人ひとりの手許までよく見える。君はいずれ、こちら側に来る人間だ」
私の陰りは隠せていなかったのだろう。さらに肩を叩いて、教育課長は校長の座る机中央の大きな椅子へと腰掛けた。驚いて、密かに校長先生を伺い見れば、校長も教頭も舎監も皆、壇上にまでは上がって来ていない。私は話に気を取られていたのだ。思わず後退るが、組んだ両手を机上に乗せた教育課長は、制するように私を見据えた。
「エステルハージくん。君には、その器がある。人前に立つこと、指導者となることを恐れるな。君たち親子は控えめなところが美徳だが、謙虚なだけでは、力は生み出されない」
「私は……しかし、私は……指導者ではなく、一
「良いかね? 計画経済を完遂させるには、
わかりました、とは返せない。私は、成績だけを見れば
――私が父の子、エステルハージの子だから? 家の名は、どこまでも私を離れない。
俯いて推し黙る私に、教育課長は思い出したような声を挙げて、手を叩いた。
「そうだ、そうだ。生徒の部屋も見ておきたかった。よければ、君の部屋に案内してくれるかね」
話題が変わった安堵も、脳裏に浮かぶ光景に追いやられる。葡萄酒の空き瓶と、隠された祭壇。私の強張りに、教育課長は喉の奥で笑う。
「身辺は常に整頓したまえ、と指導すべきところだが、こちらも突然の申し出だ。三分後に訪ねさせてもらうよ。私も、引き出しの中までは見ないさ」
階段を駆け上がり、暗い廊下の一番奥。扉を開け放つ。それなりに整理された東半分、散らかった西半分。口の開いた鞄、脱がれたままの毛糸の上着、裏返った靴下、裸の女体が表紙に描かれた雑誌……。アスティファヌスはいない。
全てを拾い上げ、掛け布の下へと入れる。私の寝台と嵩が異なろうとも、見かけ上が片付いていれば及第だ。少しでも時間を稼ぐため、半開きの扉を閉めた。
次いで、空き瓶。飲酒の証拠が何十本も。寝台の下に押しやろうと幾本か掴んだとき、手が滑った。耳をつん裂く高音、透明な硝子と琥珀の硝子が鋭い破片となって飛び散る。動揺のあまり、私はそれを掻き集めてしまった。
痛いと気付いたときには、両手は血に塗れていた。掌に刺さった破片を抜く。時間は、もう一分半もないだろう。割れた瓶と、写真立ての隙間から、十字架の銀が光る。これまで見つかってしまったら――。
足音が近付く。立ち上がれないうちに、扉が開いた。アスティファヌスだった。
「――イシュト! 大丈夫か⁉︎」
「大丈夫だから! アスティファヌス、早く片付けて!」
しかし、アスティファヌスは一目散に寝台へ駆け寄り、掛け布を剥ぐと、犬歯で切り裂いた。
「アスティファヌス!」
「落ち着いて、イシュト。まずは血を止めなきゃ」
散らばる硝子片へと伸ばされた私の両手が、白い綿布に包まれる。寝台間の通路には、先刻の勢いでこぼれ落ちた寝巻きやら、雑誌やらが転がっていた。
「アスティファヌス、待って!」
「立っちゃ駄目だ。座って。腕、胸より高く上げて」
押し止められ、両手が捕らえられる。血は染みて、彼の手までをも濡らす。廊下からは、幾人もの足音。教育課長の低い声。
「アスティファヌス……!」
「――なんだね、これは!」
私の押し殺した叫び声は、教育課長の叱責の声に掻き消された。
私は保健室へと向かわされ、尋問の内容は聞いていない。手当を受け終えるころ、教育課長が校長先生を連れてやって来た。
「聞くところ、あの異邦人の少年は成績も不良で、詩と音楽に耽り、日頃から酒を飲むと有名だそうだな。やはり商売人の子だ、享楽と利己の血筋は争えない」
私の口は少しも開かず、言葉を発するだけの息も吸えない。事実、評判、評価、印象。それらの差異を指摘しようと試みるほど、いずれもぼんやりと互いの領域に滲み出して、形容を逃れてしまう。
僅かに絞り出した声は、「処分は……」その一言のみ。
「彼は謹慎五日と、部屋替えだ。エステルハージくん、これまで、辛抱だったろう。その中でよく、誘惑に流されず、自律ある生活を保った。さすが、善き人の薫陶を受けて育った子は、筋が違う」
彼は不良で、私は優等生。その評価は、私に累が及ばないよう、アスティファヌスが弁明の中で作り出したものに違いない。私には、わかるのだ。
部屋に戻ると、アスティファヌスは電気も点けず、寝台に腰掛けていた。足下には、大きな革鞄が開いたまま、荷造りは進められていない。
「おかえり、傷はどうだった? 迷惑かけて、すまなかったね」
微笑まれて、さらに胸が熱くなる。嫌いだ。私自身が、どうしようもなく嫌いだ。弱くて、意気地がなくて、ちっとも正しくない自分が。
「イシュト、泣くなよ。君のせいじゃない」
涙など、いつぶりに流しただろうか。もう私の感情は、抑えが効かなくなっていた。アスティファヌスへと駆け寄る。私を見上げる、優し気な目。褐色の頬を、殴った。巻き髪を引き掴み、押し倒して、さらにもう一撃を反対の頬へ。
「――イシュト!」
アスティファヌスの手が上がる。反撃のためではない。私を抱き締めるために。苦しいほどの抱擁。煙草の香りと、深い呼吸。
「落ち着いて……自分でも驚いているだけだ。本当に殴りたかったわけじゃないさ……そうだろう……?」
あやされるように背を打たれても、私の激情は治らない。もがき、突き放し、勢い余って、自分の寝台へと倒れ込んだ。
「イシュト、どうしたのさ……」
私は掛け布に顔を押し当てて泣いた。幼稚さと醜さが、恥ずかしい。享楽と利己とは、私のことなのだ。アスティファヌスは、どこまでも優しくて、私の背を撫でるというのに。
「君、君は……僕を庇ったんだ! 自分だけが悪いって!」
「だって、そうだもの」
「なんでさ、僕だって飲んだ! 僕だって、ピアノを弾いたし、教えてもらった! 詩も読んだ! なんで、君だけ悪いなんて。良い顔したつもりか、馬鹿!」
「違うよ、そんなつもりじゃない」
顔を上げれば、赤く腫れた頬と、乱れた前髪。夕暮れに暗い、慈愛の目。両腕を伸ばせば、躊躇いもなく抱き寄せられる。
この男が嫌いだ。いつでも優しくて、心の内をちっとも明かさない。踏み入れさせない。遠い、異邦人の男が。
「君は、僕がなんだっていうから、庇うのさ……僕なんか、僕なんかを……!」
「君が、じゃない。僕だけが悪い、それは事実じゃないか」
「僕は悪くないって? 違うさ、君は僕を知らないんだ。僕がどんなに悪い奴か」
「知らないよ、悪くは見えないもの」
「じゃあ、教えてやるよ。どうして僕は、君を庇わなかったか。怖かったからさ。退校処分にでもなったらどうしよう、父さんに知れたらどうしよう」
この手の怪我も、私にまで叱責が及ぶことを恐れたからに過ぎない。彼を守ろうとしたわけではない。処分へ抗議できなかったことも、自分可愛いさに沈黙しただけだ。黙っていれば、父への信頼、エステルハージの名が私を守るから。
「――そんなつまらない、嫌な奴なんだよ。せめて優等生の皮を被っていなくちゃ、僕は許されないんだから」
「許されないって、誰から……?」
「みんなさ、みんな」
級長伯爵。私を取り囲んで囃し立てる声が耳から離れない。私がどれほど平気な顔をしていても、悪口の内容など、庁舎でも変わらなかったのだろう。父は繰り返し言い聞かせた。我々は誰よりも同志スターリンに忠実な者たらねばならぬ、と。
そう努めてきた。私が級長に任じられたのも、
……しかし、私は本心から望んだのか。紅巾を首許に留めることを、母の形見と替えてまで。領地を去る日の朝、銀の十字架を聖母像の手に掛けた。やがて取り壊されると知りながら。それでも、この国で生きながらえるためには、選ばざるを得なかった道だ。
「エステルハージは貴族の家だ、民から収奪して生きてきた。幾代にも渡る罪だ……この先、国のために働くことでしか贖えない」
「神様は、赦したもう」
「僕は赦されない、僕の神はもういないもの」
「……レバノンに行かない? 誰も君を責めないよ。神様に祈っても、迫害されない」
「行かないよ。僕の祖国は、この国だもの」
「そっか……イシュトは、強いんだね」
結局、私の涙も、拳も、彼を乱すことは出来なかった。彼は一階にある舎監室の一角へと移され、私は独り、二〇一号室に残った。
夜、南の窓を開けると、風の高鳴りに混じって、ピアノの音が聞こえた。毛布に包まって、一時間でも二時間でも聞いていた。冴えた月夜に奏でられる『夢路』。重い水に抗えない木の葉の流れ。流れ出るだろう海を夢見て、けれども、きっとどこかの淵に朽ちて終わる一生なのだ。
アスティファヌスは私を抱き締めた。けれども、私が望んだのは、穏やかな優しい愛情ではなかったと思うのだ。では、何か?
「……それは、海。太陽と
求めていたのは、太陽と交わった海。アスティファヌスの心奥。醜ささえも、触れたい。胸の内。深いところまで。
そう願ったのは、私だけだったのだろうか。
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