二、愛と異郷と

 入学式に始まった学校生活の初日は、しかし、好調なものではなかった。名簿片手に生徒を呼び上げる担任のキス先生は、私の返事に被せるように質問した。

「エステルハージは、家業取り上げられはって、将来はどないしよう思たはるね?」

 教室中が私を振り返る。先生は重ねて、貴族制をどう考えるかと問うた。青白い顔が、意地悪く歪んでいた。

 覚悟はしていたが、こうも早く訪れるとは思っていなかった。今からの返答は、教室での一年間、果てはこの学校での四年間の立ち位置を定めてしまう。

 震える声を抑えて弁明した。私が心から社会主義ソツィアリズムシュの平等性に賛同すること、我が家の爵位と領地は自ら返上したこと。父との堅実な暮らしぶり。終いには立ち上がるほどに。けれども、先生の斜めから見下ろす目は変わらなかった。

「人間、一度覚えた贅沢はな、欲はな、消されへんもんや。エステルハージ、お前さんは首都の言葉しゃべらはるなぁ。言葉は習慣や、習慣は生い立ちや、生い立ちは偽れへん」

 クスッと誰かが笑い、小石を投げ込まれた池の波紋は、教室中に伝播した。私は席に沈むしかなかった。黒髪、濃い茶髪ばかりの中で、私だけが子どものような金髪だった。

 部屋に戻ると、机から顔を上げて迎えたアスティファヌスの眉は、すぐに心配にひそめられた。私の手を引いて、寝台に座らせる。

「夕食になったら、起こしてあげるから」

 憐れみに微笑まれては堪えられず、両肩を包む手が離れないうちに、彼の胸へと頭を寄せる。躊躇いもなく抱き締められた。煙草の匂い。

「どうかしたのかい……?」

 私の弁明は役立たなかった。耳に残る冷笑が、口を開かせない。いくらマルクスの著書を解そうとも、家名と容貌が物語るのだ。家名に負う罪、偽れない生い立ち。私が、この国にあっては、異質な者であると。黙ったまま、首を振った。

「イシュトヴァーン」

 アスティファヌスの手が、背を打つ。昨日の夕方と同じく、私を鎮める手。

「詩でも読もうか。フランス語は――そう、じゃあ、二外の選択は、フランス語にしたら良いよ。ラカトシュ先生、初学者にも優しい人だからさ」


 寝台に二人、横たわる。壁に背が着くほど傍に寄ったアスティファヌスは、縁の焼けた古い詩集を、私たちの間に開いた。

「シャルル・ボードレールさ」

「だあれ?」

「ランボーは知ってる? うん、その先輩。そうだな……これなんかが良い」

 パラパラと頁をめくるたびに立つ黴の匂い、本の中頃で彼の指先が留まり、題字を指す。私には読めない。

「酔え、お酔いなさい。――ボードレールはね、酔えと言う。彼自身は、大酒飲みだし、阿片もやるし、女癖も悪いもんだけれども、この詩は、そういう表層の感覚的な混濁を推奨しているわけではない」

 アスティファヌスの指先が活字を滑り、マジャル語の響きに変わる。


 常に酔っていなければならない。ほかのことはどうでもよい――ただそれだけが問題なのだ。君の肩をくじき、君の体を地に圧し曲げる恐ろしい「時」の重荷を感じたくないなら、君は絶え間なく酔っていなければならない。

 しかし何で酔うのだ? 酒でも、詩でも、道徳でも、何でも君のすきなもので。が、とにかく酔いたまえ。


 アスティファヌスの囁き、私だけに拾われればよい声量。『月の光』を思い出す。放蕩さを感じさせる、入れ込むような、無秩序でひたすらな優しさ。

「酒に……酔うのはわかる。けど、道徳に酔うとは何?」

「思想とか宗教とかによる規律、かな。まあ、聞きたまえ」

 詩は続く。どこか、例えば「君の室の陰惨な孤独の中」で、酔いが覚めかかったり、覚めきって目が覚めたりしたら、風にでも、波にでも、星、鳥、時計……すべての歌うものにでも、すべての話すものにでも、今は何時だときいてみよ、と。風も、波も、星も、鳥も、時計も君に答えるだろう。


 「今は酔うべき時です! 『時』に虐げられる奴隷になりたくないなら、絶え間なくお酔ひなさい! 酒でも、詩でも、道徳でも、何でもおすきなもので。」


「『時』とは、生きている限り押し付けられる現実さ。刻まれて、生を歩まされる。眠らされて、食べさせられて、女を求めさせて……。さて、この生の衝動に駆られるままに、多くはそれに無自覚のままに、日々を繰り返すこととは、幸福なる人生なのだろうかね」

「……あなたはそう思わないのね」

「そう。生きさせられるとは、幸福の対極さ」

 アスティファヌスが本を閉じて、私を見つめる。深い目が、私の青い目を映す。

自由リベルテ、これが大事なんだよ。時に追われるな、世の正しさに裁かれることを恐れるな。君自身が、どこの誰であっても」

 ゆっくりと手が伸び来て、私の髪を撫でた。そして、一息を吐くと、アスティファヌスは両腕を枕に仰向けに寝転がる。

「僕も人のことは言えたものじゃないね。簡単じゃないとは、わかっているさ」

 思案の声と横顔に、この男も、ままならぬ世を孤独に生きる者だと知る。東洋の肌色故にだろうか、隠し置く宗教故にだろうか。私は尋ねられず、共に天井を見上げた。肩を抱かれる。少しばかり身を寄せれば、鼓動が伝わりきた。薄いネルを通して、体温も。

 私は先程、どうして躊躇いなく、この男の胸へと身を預けたのか。寂しさを覆す、抱擁の熱を予感したからだ。しかし、どうだ。思案に遠くを見る黒い目。彼は今、私のことなど考えていない。髪に指が通されても、それは手慰み。思考に耽る、無意識の動き。孤独な者が身を寄せ合っても、孤独は解けない。

 寂しさに覚めんとしている私は、彼の鼓動にでも尋ねてみれば良いのだろうか。今は何時だと。アスティファヌスの血は答える、今は酔うべきときだと。

 何に? ――何にでも、と言われて、私は何に酔えば良い。この男は、酔っているから寂しくないのだろうか。何に? ――神に。酒瓶の奥に隠した祭壇に。

 宗教は阿片だ、とマルクスは言った。祈りは、苦しい現実を一時的に忘れさせるが、根本の解決にはならないのだ。十字架への接吻も、母への哀惜、恋慕を癒しはしなかった。自らが強い心を持つまで。

 貧しい生活を救うものとて、十字架ではない。道徳心を持った勤勉な労働者プロレタリアートゥスと、その生産に支えられた豊かな社会であるはずなのだ。

 髪を弄る手を逃れ、身体を起こす。

「神への祈りは、人を酔わせるかもしれないけれど、道徳は違うと思う。規律は、正しさの共有だもの。覚めた目で、現実を判別するためのものだ」

「なるほど。じゃあ君は自身を、酔わない、道徳的な人だと思うわけだね?」

「ううん、違う。……道徳がなくては、正しく生きていけないだけだ、僕。自分の良心とか、正義心とか、そんなのを信じていないから」

 例えば、この優しい眼差しに見上げてくる男の告発とか。

「……カトリクシュになったのは、いつ?」

「うん? 幼児洗礼を受けてるから、そのときからだよ」

 誘うような質問にも、真っ直ぐに答える。躊躇いもない開示は、私への信頼なのだろうか。鼓動が治らない。罪の意識が、忠誠心をより焚き付ける。私は誰よりも善い労働者プロレタリアートゥスたらねばならないのだ。

「あなたは、神を信じる人……?」

「うん。君は信じない人――?」

 厳しさも弾劾の気配もない。肯定と愛情の微笑みなのだ。受容の様面は、私を教えた老司祭を思い出させる。

「――イシュトヴァーン」

 同じ聖ステファノス。そして、私はエステルハージの子。キリスト教の守護者として帝国に君臨したハプスブルク家に連なる者。置き去りにしてきた母の十字架。あの司祭は捕らえられ、既に亡いと聞く。

 アスティファヌスの目に映る、罪なる者から目を逸らした。私は酔いに鈍った感性のままには、この国に生きられない。

「……僕が信じるのは、神の力じゃなくて、社会主義ソツィアリズムシュのもたらす生産性だから」

「そっか。それもまた、自由リベルテだ。うん、僕らはお互いに、自由にいこう。自らの信念に従って、善く行動しよう。イシュト」

 その愛称は、遥か昔、私を抱いた母に呼ばれていたきり。親しみと同時に、混乱に圧されて指先が震える。紛らすために息を吸い込み、伸ばされた腕へと再び身を横たえた。

「君、葡萄酒は好き?」

「いや……あまり、飲んだことはない」

「そう。じゃあ、甘いのをあげよう。夕食の後に」

 そうして、共に午睡に落ちた。私の寂しさは、きっと癒えないだろう。この男は、私と内心を同一させるつもりはないのだ。彼の目には、他人の風に揺らがない火が見えた。

 トカイの貴腐葡萄酒は、芳醇にして悪戯に酸い。アスティファヌスによるフランス詩の朗読を聴きながら、あまり速く飲みすぎるなと注意を受けながら、幾度となく小さなグラスを開けた。


 第二外語の選択は、アスティファヌスの勧め通り、フランス語にした。学校指定の第一外語はロシア語。選択制の第二外語にはドイツ語や英語を取る生徒が多いなか、わざわざフランス語を選んだ奇特な・・・六人を、ラカトシュ先生はまず、茶と菓子でもてなした。

「君、なんでフランス語なん選ばはったん? ――いやいや、ほんまのとこ言いやぁ。楽単・・や聞かはったんやろ? その先輩は誰や。教えてくれはったら、そいつの成績の三割、君に付け替えたるわ」

 皆が口々に、同室の指導生や兄を売った。講義室には、黒板に相対する机の列などはない。赤い絹張りの腰掛けに座る先生を半円に取り囲んで、私たちは長椅子や一人がけの腰掛けに座っていた。私もアスティファヌスの名を出すと、先生は大きく笑った。

「あー、君がエステルハージか。上手く送り込んだぁ、自慢されたわ。よろしい、君にはエル=コーリーの五割をやったる」

 談話に過ぎた初回の残り半分は、フランス文化や文学の紹介だった。入手経路は内緒だと言って、戦後のパリ市街を写した写真も見せた。石造の建物、通りに面して大きく張られた硝子窓には、つばの広い帽子と、毛織の外套。それを指しながら、少女たちが談笑する。

「今や国境は、なかなか越えれるもんではのうなってまったけどな。君たちは優秀やさかい、外交官でも目指すと良えわ。行ってみなわからへん魅力ってもんがある。人も町も。そん目で見てきはると良え」

 アスティファヌスが故郷を思い出しているときと同じ目をして、先生は紅茶を飲んだ。

 毎度、フランス語の授業では紅茶が出され、時にはシャンソンを歌い、時には小説を読んだ。教授棟の三階、北向きの小部屋にて、監視の目を掻い潜るように。

 ラカトシュ先生は、他の先生の前では大人しかった。毎度の食事前には、食前の祈りの名残か、日直の教師からの「お話」があるのだが、先生は、葡萄の収穫が始まっただとか、大学生の生活だとか、当たり障りのない話題を三分間話すのみだった。

 アスティファヌスは、それを残念がっていたが、私は、隠し事は明かさずとも良いと思うのだ。知らされた以上、その事実は私たちの間に絶えず存在してしまう。認識に対する責任が生じてしまう。知らない建前故にこそ、私は、彼を黙認していられるのだ。

 あの日以来、宗教問答は一度もない。私は消灯時間きっかりに寝台に入り、朝も、葡萄酒の空き瓶が壁となるまでは、起きなかった。秘匿をそのままに、私たちは過ごした。

 ピアノを習った。幼い頃に弾いた練習曲をもう一度、彼による手書きの楽譜で。あの曲が聴きたいと言えば、弾いてくれた。『夢想』。母が好きだった曲。

 彼は、すぐ近くに家があるというのに、土日も寄宿舎に残っていた。父は忙しく、帰っても話す機会がないという。私も父の出張が週末まで掛かることも多かったので、アスティファヌスと過ごした。

 土曜日の昼下がりに、ラカトシュ先生を訪ねた。紅茶には、干し杏子と肉桂ファヘーイ。さらには、今年の初物が出る前に空けてしまおうと言って、貴腐葡萄酒も少し垂らしてくれた。眠気を誘う、拙いランボーの朗読を囃すように、アスティファヌスが手風琴ハルモニカを弾く。

 共有、共感、共鳴。心地良い感情の触れ合いを、何と呼ぼう。彼以外には抱かない専属的な心境は、気が合う、では表し足りない。


 霧立つ秋も深まる放課後。舟に乗ろうと連れ出された。学校の建つ丘の裏手、古い採石場の切り立つ岩壁は、紺碧の湖水を楕円に抱える。私は小舟の先端に座り、彼は舟尾に立つ。櫓が桟橋に押し当てられ、舟首は重たい水を割って、岸を離れた。彼の唄う船唄。異国語の響き。立つ波から跳ねた水の粒が傾き始めた日の光に散り、再び水面へ落ちた。

「この水が、ベイルートに旅したいなら――」

 彼の目に、東洋の陽光と海岸線とが映る。

「湖を出て、川を下る。やがてドナウに拾われて、黒海に流れ込む。黒海をも抜けて、地中海を東に往き行きて、やっと着くのさ」

「この湖、川に繋がってるの?」

 見回しても、一面は岩肌ばかり。アスティファヌスは、さらに一漕ぎして笑った。

「いいや、雨が貯まってるだけだから、流れ込まれもしない、出て行きもしない」

 櫓を引き上げ、座る。寂し気に見えた。両脚を伸ばしてもなお届かない距離。舟は余力に水面を滑り、やがて止まった。湖水に冴えた空気は、じきに来る冬の匂い。

「……アスティファヌス。あなたは、大学はどこを受けるの? 国内?」

「大学には行かない。父さんの下で、農園の見習いさ。いつでも遊びにおいでよ」

 明るさは、一転して憂いに変わり、それを隠した微笑みが浮かぶ。

「それじゃ、イシュトは国外に行くの?」

「たぶん。父はモスクワに出ろと言うし」

「そっか……ねぇ、イシュト……」

 私の心境を探している。互いに自由と線引きした彼が。

「……なあに?」

 これは、私の待っていた大風が吹くのかもしれない。孤舟を覆し、大海へ身を投げ出させるほどの。けれども――

「ううん……いつか、おいでよ、ベイルートに。きれいな町だから」

 秘められた。彼が言いたかったことは、そんなことではないのだ。郷愁か、進学できない悔しさか、父親への不満か、それらのもたらす寂しさか……。とにかく、私の問いかけでは、彼に届かなかったのだ。

 彼は、情緒を刺激する根源を決して私には求めない。だから、孤独は消えない。私は彼を知りたい。

 東の岩肌が赤くなり、湖面も空の鮮やかな色彩を映す。けれども、それは表層だけ。揺れる舟影に拭われてしまえば、湖底の暗みが現れる。

「あなたが言い淀むのは、珍しい……」

 彼の寂しさを写した微笑みと、誘いの言葉。次に口を開くとき、彼は、心奥を曝さずにはいられないはずだ。たとえ、傷付けるような言葉でも良い。私を刺して欲しい。私を見つけ出せ、同じ寂しさを持つ私を――!


 Elle est retrouvée!

 Quoi? l’éternité.

 C’est la mer mêlée

 Au soleil.


 それきり黙ったアスティファヌスの目が光る。不機嫌か、投げ遣りか。宣戦布告か。組んだ両手を膝に置いて、私へと微笑むのだ。訳せとのことだ。

「……再発見した。何を? 永遠。それは、海。太陽に……何々した」

「mêlée」

「わからない」

「混乱する。混戦、乱闘する」

「太陽と海が?」

「うん。混ざり合う、夕陽と海」

「ああ……うん」

「規律、境界を失い、溶け合う。落ち陽の海を表現するに相応しい。けど、『mêlée』は、中世、騎士たちの馬上での槍試合、あれも指すんだ。強烈な意志を持った者同士が向き合い、速度をもって近付いて、深く突く」

 立ち上がり、舟が揺れる。波紋が同心円に広がる。黒い巻き髪が作る陰の目許。私は針で押されたように動けない。彼の足が、舟板を踏む。一歩、二歩。


 また、見つけ出したぞ。

 何って? ――永遠さ。

 それは、海

  まぐわいするは太陽と。


 太陽とまぐわう海。海原の強烈な色彩が見える。太陽の熱に身悶えて、溶ける海原の色。

 岸に打ち返された波が、舟体を叩く。揺れても構わず、彼は歩んだ。三歩、四歩。

「危ないよ……」

 伸ばした手は静かに退けられて、私の面前には、気焔を揺るがせる目。

「『mêlée』は、まぐわうってことさ。わかるか? 性愛のまじわり。溶け合うほどに――生命のほとばしるままに、深く突くこと」

 私は彼の目に貫かれ、身を強張らせて首を振るのみ。揺れと共に迫り上がる水音が、まだ知らぬ実感、熱い肉体の鼓動を錯覚させた。

 舟酔いは、けれども、陸には持ち越されない。肉のない汁物グヤーシュを前に聞く、キス先生の教導。酒は飲むな、勤勉たれ。その通りだと認めつつも、向かいに座るアスティファヌスの伏せられた目蓋と祈りを唱える口許を見ていると、私の心はやはり、彼による揺らぎを求めていると思わされるのだった。

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