接吻

小鹿

一、葡萄の房

 トカイ駅前で私を拾った馬車曳きの爺さんは、道中、過ぎ行く葡萄酒工房の店々を指しては、その味わいの違いを語って聞かせた。

「せやけど、最近はガス田だの工場だの、坊ちゃんも見はったやろ? お上は葡萄酒作る人手を、みんなそっちに持ってかはんねん」

「……重工業化は、祖国を富ませるために欠かせない政策ですから」

 荷台に乗せられた私は、背を向けたまま返した。開発には私の父が幹部として関わるのだが、爺さんは知る由もない。

「祖国の富む前に、儂らぁが貧する……なん、まあ坊ちゃんにする話とちゃいましたわな。――さ、もう着きます」

 爺さんが鞭を振り下ろし、軋む荷馬車はより力強く坂道を上る。剥がれかけの石畳。古い童歌。垢じみた服を着た子どもたちが駆け行く。誰も紅巾を襟に結んではいない。私は鞄を胸に抱き直し、真新しい綿布の上着を隠した。

 決して目立たないことだ。貴族育ちとも、人の上に立ちたがる気質とも思われてはいけない。成績を保ち、そこそこに人と交わること。善良で模範的な労働者プロレタリアートゥスだと示すのだ。

 中等教育学校ギムナージウムの校門を抜けると、馬車は聖堂に迎えられた。四面に時計のある尖塔の先端には、しかし、十字架はない。寄宿舎は聖堂裏手、急な坂の上にある元僧房。正面扉の突き当たりは一面が掲示板となっていて、教科書譲渡の報せや倶楽部への参加募集など様々な掲示物の上に、新入生名簿と部屋割りが書かれた大きな張り紙が張り出されていた。私の部屋は二〇一号室だった。

 爺さんは、私の重ねての断りも聞かずに、荷物を担いで軋む階段を昇っていく。踊り場の高窓の下にある壁龕へきがんには、こちらも何も置かれておらず、薄い埃が積もっていた。上階から、上級生らしき低い笑い声が聞こえ、爺さんは内緒話を明かす声音で言った。

「気ぃの荒い子、ぎょうさんおいやしますねん。そやさけ、指導生の言わはることには、なんでん素直ぉに従うことですわ。坊ちゃんは、まあ……目ぇ付けられはりやすい、思いますし」

 つむじから、革の靴の先まで、爺さんに見渡され、私は目蓋を伏せて青い目を覆うが、金の髪は隠しようもなかった。

 二〇一号室には、両側の壁に机と本棚、寝台が二つずつ。私を迎えるために片付けられた東半分と対称に、西半分は教科書やら脱いだままの衣類やらが、机上と床とを隔てもせずに散らかっていた。煙草の匂い。葡萄酒の空き瓶がいくつも、本棚の前に転がる。

「あれ、大変そうな指導生に当たったことで、まあ……」

 それだけ言い残して、爺さんは部屋を出て行った。

 飲酒は怠惰だ、喫煙は健康を害する。父はいずれもやらない。この狭い部屋の権力者たる指導生は、どれほどの不良か測れもしない。

 数学書の表題を見るに、最上級生たる四年生らしい。本棚には、フランス語の辞書や詩集、楽譜が並ぶ。フランス好みなのか。空瓶を手に取ってみたが、それらは全てトカイ産で、エル=コーリー工房という聞き慣れない名前の会社が醸造していた。

 空き瓶の奥、本棚の最下段には、たくさんの写真。いずれも東洋趣味があふれる。椰子の木が茂る石造の港街、白い衣を頭に巻いた婦人たち、回廊に絨毯を広げて結婚の祝宴を行う家族。どこの国だろうか、よく見ようと手を伸ばすと、写真立てが倒れた。

 小さな聖母子像が現れた。聖書も、銀の十字架も。

 隠れカトリクシュ――! 宗教者とは、反社会主義者ソツィアリシュタだ。私は告発しなくてはならない。同志スターリンに忠誠を誓った者として。

 震える手で写真を戻し、薄暗い廊下へと出たが、後ろ手に閉めた扉の握りを離せなかった。向こうから髭面の上級生三人連れが、大声でしゃべりながら歩いて来る。あの中に、私の指導生がいるかもしれない。告発を知れば、まず私が疑われるだろう。殴るだけでは済まされないはずだ。

 正義に従え。けれども、目立ってはいけないのだ。彼らは、冷や汗に固まる私など見向きもせずに、手を振り合うと、各々の部屋へ入って行った。

 部屋に過ごす気にもなれず、私は前庭へと出た。今すぐの告発は無策だ、折を見計らい、懇意となった先生にでも告げればよいのだ。深く息を吸う。ピアノの音が聞こえた。

 聖堂からだ。少し調律の外れた、古風な音色。聞かなくなって久しい西側の作曲家、ドビュッシー。『月の光』。文化統制下にあっては、古典作品であろうとも、西側の作曲家の曲が奏じられることはめっきり減ったというのに。やはり、ここは片田舎だと思いながら、聖堂への坂道を降った。

 蝶番の壊れた脇戸をくぐる。薄暗い堂内、梁から梁へと渡された電線には裸電球が下がる。旋律ばかりが色めき、華やいでいた。

 投げ遣りにも思える、譜割を揺らした弾き方が、少年の気怠さ、歪んだ硝子窓を指す冴えた月光を描く。もしくは、老女の追想。柔らかな銀の髪を月下に靡かせた幸福の日々。

 どこだ。幾本もの柱を過ぎ、壇上。演台の陰。上級生らしき広い肩幅と――黒い巻髪に褐色の肌をした異邦人の青年だった。

 曲が変わる。『アラベスク』。彼の故郷なのだろうか。群青色の星空、白い砂山。こぼれ落ちる光の粒が、見える。私は既に、彼の長いまつ毛のまたたきまでわかるほど、近寄っていた。最後の一音、遠くへ置かれた響きが、こだまを残す。彼が私を見上げ、微笑んだ。

「新入生かい? ようこそ。名前は?」

 真闇の目は、南方の陽光。この地を異郷とする男だ。私には、それだけで慕わしい。

「イシュトヴァーン。その……良かったよ」

「ありがとう。聖ステファノス、良い名前だね。僕も同じ。レバノンの綴りだから、アスティファヌスというけれど」

「……二〇一号室?」

「じゃあ、君がエステルハージ・イシュトヴァーンか! これから、よろしく。指導生の、エル=コーリー・アスティファヌスだ」

 立ち上がり、差し出されるは、厚みある大きな手。私は気後れと、告発と親しみとに迷うが、手を握られては拒めはしない。部屋の汚さの割に繊細な演奏をした男は、大らかに笑いながら、握り合った手を上下に振った。


 私が締め切らずにいた脇戸の隙間から、西日が差し込んで、大理石の床に照り返り、壁や丸天井は夕映に染まる。

 殺風景な堂内。柱の間、各壁にあるはずの色硝子は暗幕に隠されて、壇上にあるのも、正面の聖像が削り取られた演台と、ピアノが一台きり。キリスト像も聖母子像も絵画も何も、宗教を思わせる者は置かれていなかった。

「現政権が成立して、その翌日には、もうこれが掛けられていた。三年前か、もう」

 アスティファヌスが黒い毛織を払い、色硝子をのぞくと、赤、青、緑と顔が照らされる。ちょうど、赤い羽織をまとった聖ステファノスが石打ちに殉教する場面だった。投げられる石の中で手を合わせ、神に祈る。一人目の殉教者だ。

「ここは、それまでは街一番の教会だった。中世末ごろの聖母像もおわして」

「それは……どこへ行ってしまったの?」

「……さぁ。美術品となされて、物珍しさに回覧されるよりは、ましな所だろうさ」

 それはつまり、打ち捨てられたのか。それとも、秘かに匿われているのか。測りかねて、アスティファヌスを見上げれば、彼の目もまた、静かに私を見透かしていた。問いかけるような、同時に、恐れ入るような。

「アスティファヌス……?」

 と、尋ねたとき、いくつもの銃声が上がった。耳から貫かれる衝撃。鳥の騒めきと、さらに追い打つ銃声。私は反射的に床に伏せ、頭を両腕で覆っていた。

「大丈夫だ、イシュトヴァーン!」

 強い腕に抱き締められる。戦争は、六年も前に終わっているが、記憶には克明なのだ。青い麦畑に列をなし進む赤軍の戦車、夜も止まない飛行機の音。砲弾の轟音に応戦するは、軽い発砲音――。

「あれは、鳥打ちだ。怖がらなくていい、葡萄畑の鳥を追い払っているだけだから」

 背中を撫でられる。薄手の綿フランネルには、煙草の匂い。私だとて、自身の反応に驚いていた。それを、泣く子どもをあやすように抱き締められるとは、あまりに恥ずかしすぎる。しかも、初対面の男に。

「あの……大丈夫、驚いただけだ……」

「うん、驚くよな。突然だもの」

 アスティファヌスの胸を押し返しても、背を打つ手は緩まない。母の子守唄を思い出す揺らぎの中で、彼は葡萄棚の景色を語り続ける。

「葡萄はね、一粒ずつ順々に色付くんだ。だから、この時期は一房の中に、日の光を透かすくらいに青い粒も、熟した赤い粒も入り混じる。貴腐葡萄きふぶどうを見たことはある? ――そう、きっと驚くよ、干し葡萄のようだもの。それよりも、ずっと甘い。黄金の葡萄酒になるのさ、楽しみだね」

 穏やかな声音は、居心地の悪い身じろぎと私たちの隙間を次第に溶かして、鳥打ちの銃声が終わってもなお、肩を寄せたまま話させた。

 アスティファヌスの父がトカイで葡萄酒工房を営んでいること、来月初めに行われる町を挙げての葡萄酒祭のこと、フランス語の先生が愉快な人で授業が面白いこと。

 そうして、夕食になり、部屋に戻るころには、私の心境は、告発の正義よりもよほど、親しみの方に傾いてしまっていた。

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