〈四〉
思っていた通り戦闘は日没前にすぐに止み、敵兵は東へ退いた。門を開けてすぐ入って来たのは縞模様のない虎のような四足の獣に乗った西軍主軍だった。瓉明と信宜はともかくも後方軍の生き残りとともに彼らの前に膝をつく。二人の前に広清が慌てて飛び出た。
「――申し訳ございません!これには理由が」
汗を散らして叫んだ青年に重々しく声がかかる。
「なぜ他国の将兵がかようなところに?」
「あの……えっと、」
しどろもどろになった広清を差し置いて瓉明は口を開いた。
「今年もお招きにあずかり、訪泉した次第でございます。――禁軍右軍将軍、
男は眉を上げた。「儂を知っておるのか」
「お目にかかりますのはお初でございました。なれど、軍学でのご盛名は拝聞しております。五泉無敗の常勝軍、
言って見上げたそれは鬱金の瞳に純白の毛並み。今は口輪を掛けられて大口は見えない。妖獣・
「そなたのことは儂も聞き及んでおる。四泉には宝の持ち腐れ、たしか
「今は禁軍中軍を
「ほう。ようやっと日の目を見たか」
お陰様で、と微笑んだのに頷き、田鼓は反して険しく広清を見下ろした。
「それで、撫軍将。これはどういうことか。なぜ他国の禁軍将を呼んだのか」
老将に凄まれて汗をかきながら笑った。
「いえ、その、瓉明どのはかつて大変優秀な成績で我が国の軍学を出ておられて」
「この戦は遊びではない。他国人の力を借りることは許されない。初めにそう説明を受けたはずだが?――法度に触れたか」
酷薄の響きに弾かれたように肩を跳ねさせた。
「協定に触れれば主の面子が潰れると分かっていてやったのか?」
「――わ、私は」
広清は動転しながらも田鼓を睨み上げ気の強い声で返す。
「少しでも兄上のお役に立ちたいと!そう思っただけで」
「ほざくのも大概にせよ」
「私は仮にも兄上の
「所詮は外戚が、差し出がましく
ぴしゃりと言われて怯え顔で、ひっ、と喉を鳴らした。
「泉根に次ぐ系譜ならまだしも、血の繋がりのないおぬしを重用するのは儂は初めから反対じゃった。案の定、預かった軍を捨てて逃げ帰ってくるなど呆れて物も言えぬ。しかも、他国の武人を呼び寄せたと?我ら自国の
そんな、と広清はかぶりを振った。「まだ西軍内部だけでとどめておけるではないですか!瓉明どのにはすぐに帰泉して頂きますから、どうか」
「もはや手遅れじゃ。東軍に見つかった。話はすぐに泉主の耳にも届く。そうなれば
「でも、私は間違っておりません!兄上なら分かってくださいます!」
そうして声を張り上げた。
「おられるのでしょう⁉出てきて下さい!」
ざわりと空気が揺れ、白い群れが左右に割れた。ごつ、と重い長靴の音、耳奥にずしりと沈む獰猛な獣の咆哮が聞こえた。
瓉明は
金の
「あ……兄上」
半泣きになった広清が地面に手をついた。
「お許しください、兄上。決して、西軍を不利にしようなどとは毛頭考えておりませんでした。ただうまい作戦が思いつけないものかと、東軍を押しやる良い案がないかと、そればかりで」
兄と呼ばれた男は広清を見下ろしたまま動かない。ひたと見据えた瞳は夕暮れの色を映して硝子玉のよう、彼が出てきてからまるで
「兄上、ぼ、ぼくは」
沈黙になおも釈明を重ねていた言に被り、ようやく、ひどく静かな声が降った。
「
低い呟きにはっと口を閉ざす。
「――――
短い指示に愕然と
「待ってください!泉主に会えと
「我が主、この場で裁定しないのですか。これは貴方様の名誉に関わる大問題ですぞ?」
田鼓が遮って苦言を呈したが男はそっぽを向いた。ただ連れている異形の獣だけが殺気を
広清がその場に顔を埋めて泣きだす。田鼓は主への訴えを諦め、一部始終を見ていた瓉明と信宜に改めて礼をとった。
「このまま御二方を捨て置いては西軍の名折れじゃ。このことは逐一泉主に奏上せねばならぬ。なれど軍は街にはとどまってはならん決まり、どうか我らと共に来て体を休めてはもらえまいか」
「はあ……しかし」
「我が主もそれを所望しておる」
よく分かるな、と乾いた笑いで瓉明は主という男の後姿を見つめた。
「……では、甘えさせて頂きます」
二人して頷き合い、西軍主軍の本営へと足を運んだ。
「――改めて、拝謁
衣をあらため大天幕に招かれた瓉明の口上に続き信宜が頭を垂れ、しばし待ったが返答がない。思わず顔を上げると男は無言で見つめたままで目が合ってしまう。
殿下、と田鼓が促せばようやく瞬きした。
「…………女?」
「殿下、失礼ですぞ」
咳払いをして
「お気になさらず、珍しいですから。
王族については国内においても詳しく伝わるものではない。控えめな
「こちらは五泉国王家第二公子、
結局田鼓に紹介させた本人は白い獣に背を預けた。やはり公子か、と思いながら瓉明は再び頭を下げる。王位継承権第二位の泉根だ。……
妙な沈黙がだいぶん流れて信宜は居心地悪そうに酒を
「先ほどの戦闘を拝見させて頂いたのですが、見事なものでございました。状況を忘れ思わず見入ってしまいました」
やはり何も言わない。視線さえ上げない。田鼓が気を利かせて頷く。
「殿下は普段はこのように平静としておられるが、剣を取れば負け無し、息一つ乱さず相手を倒してしまうのじゃ」
「さすがでございます。やはり幼い頃から鍛錬をお積みになってきたゆえですね」
まるで聞いていないのか箸を止めることもない。会話はすべて臣下に任せたと言わんばかりに黙々と顎を動かす。田鼓が申し訳なさげに瓉明に目を細めてみせた。こちらもさすがにいたたまれなくなり、間を持たせるためにちびちびと酒を舐める。沈黙の空気に刺されてしまいそうだ。
公子の後ろに伏せた巨虎がそんな張りつめた場をものともせずに
「あの、つかぬことをお訊き致しますが、狴犴――こちらでは獬豸と呼ぶのでしょうか、噂通り真白い美しい獣なのは以前何度か遠目に見て知っていたのですが、そちらのものは片眼がありませんね」
初めて泛仁が珍しいもののように見返してきた。瞳の色は浅い。
「……泉主が、調伏の証にこれから
言いながら獣の頭を撫でた。
がたり、と信宜が膝を膳にぶつけて失礼を、と呟く。しかし動揺を抑えられなかったのかこちらを窺う。瓉明も狴犴について掘り下げた。
「
「使役するのに問題はない」
「そういった妖寄りの獣は、人の血にあてられるという噂を聞いたことがありますが、戦場に連れてきて大丈夫なのですか」
「獬豸隊のものは口輪を掛けている。それに五泉の水は
意外や意外、狴犴のことになると返答が早い。田鼓も驚いたようで瓉明と目を見交わした。
「かような獣をどこで……」
「狩場を教える義理はない。それに、これは泉主から借り受けたものだ」
また酒盃を干した。酒がまわると話せる性格なのだろうか。
「そちらの狴犴は口輪が掛かっていませんが……」
「これに敵を
泛仁は基本的に寡黙な男だったが、
「あの、それで此度のことなのですが」
本題に戻った瓉明は五泉の二人を見る。
「広清殿には、大規模な模擬戦だと伺っておりまして。まさかと疑ってはいたのですが」
「でしょうな。しかも客人と配下を置いて自分だけ逃げるなど、五泉の恥さらし。前々から
酒を数瓶空けていても一向に顔色の変わらない泛仁は田鼓の再度の諫言にもやはり首を振った。
「…………膂兒は母の家に連なる者。泉主も苛烈ななされようは控えられる」
「いくら殿下のお母上様が泉主のご寵愛を一心に受けているからといって、親族にまで甘い処断を下していては示しがつきませんし、無駄に外戚が力を持ちます」
「……であるからして、なおさら今回の件は俺が独断で決めることではない」
「失礼ながら。この騒動の概要がいまだ掴めていないのですが……つまり、三州ずつに分かれて、王太子と弟君と争っており、勝者が次の泉主になる、ということでよろしいのですか?」
「いかにも」
「ですがそれは」
瓉明は言い淀んだ。「その……あまりに」
「言いたいことは分かる。全ての泉根を枯らす……つまり、公子を全て失う危険を孕んでおりあまりに無益と言いたいのじゃろう。それはなにより泉主ご自身がよく分かっておられる。しかし、現泉主もこのようにして頂点へと駆け上がられた王なのじゃ」
では、と信宜が身を乗り出した。
「現五泉主は、長子ではない、と?」
「泉主は先代帝の第三公子。兄二人を除いて自ら王権を勝ち得た
「そんな……知らなかった」
呟いた瓉明に、だろう、と田鼓は頷いた。そもそも五泉は他国と密な国交の無い国、わざわざ国内の政情を外へ伝えはしない。
「泉根の方々は納得しておられるのですか」
「五泉においては強い者が勝ち残り、また支持を得る。民の支持は王が君臨するのに絶対不可欠なもの、民を導き、治める手腕を発揮する機会を登極前に示せるのがこの継承戦争じゃ。公子らにとっては最初で最後の大勝負。幼き頃よりこの戦いの為だけに鍛錬してきた。我らはこの乱を俗に『
「篩別……」
「篩別の儀では国内の軍兵が偏りなく割り振られる。泉根はそれを用いて互いの首を懸けて戦い合う。泛仁殿下に与えられたのは
「降伏とはつまり、その……」
「泉根が複数生き残ることはない。残るのは必ずたった一人、たとえ戦意を失っても大将である泉根は首を差し出す」
瓉明はついに何も言えなくなり黙る。それを泛仁はどこか不思議そうな顔で見た。
「戦況はいまどのように?」
信宜が尋ねると田鼓は難しげに唸る。
「やはり央軍……王太子軍は強い。なにより
泉主直轄指揮下の禁軍と首都州の軍を総じて京師兵といった。
「そもそも王太子にとっては迷惑千万な話じゃからな。長子であるのにすんなりと王位を継げないのだから。我らはかなりのところ恨まれておるじゃろう」
「東軍……弟君の軍は」
「油断していたがもうこんな
泛仁はぼんやりと酒を飲み続けていて反応しなかったが、田鼓は慌ててとりなした。
「し、しかしもちろん我が君の軍がいちばんじゃ。なにより獬豸がおるからな。殿下、なにも気に病むことはございませんぞ」
「…………それよりも、泉畿からの文が問題だ」
下官に追加の酒を持って来させて泛仁は呟いた。
「今回の己ら二人の件、少々厄介かもな…………」
ちらりと流し目され瓉明は居住まいを正した。
「というと?」
すぐに返事は来ない。ぐいぐいと酒を空け続け、焦らされたこちらが気を逸らしそうになってようやく、
「……泉主は、強い者がすきだ」
泛仁はそれだけ言うと最後の一滴を
「もしかしたらお前、このままでは済まんぞ」
言い捨てて狴犴を連れ、天幕を出て行く。それを三人は呆気に取られて見送った。
「……え?どういう意味です?」
信宜が振り返って答えを求めたが、瓉明も田鼓も公子の意図など分からず、ただ首を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます