〈七〉



 霧の切れ目から逆風にあおられつつ降り立った丘の上、そこから見た五泉宮は主泉しゅせんを囲んだ五角星の城郭を備える。辺の奥まった角にさらに稜堡りょうほを設けて望角楼みはりだいを置き、城外は土で突き固めた斜堤の上に開渠かいきょを通して水が流れるようになっている、一風変わったつくりの宮城である。瓉明は何度も五泉泉畿せんきには来たことがあるが、こうして宮裏の高台から見下ろすことはほぼなかったのでしげしげとその緻密な造形を見渡した。


 城郭の周囲は注ぎ込まれる泉水で金水熙きんすいきを眩くたたえた広大なほり、架かる白銀の跳ね橋は今は鎖で揚げられている。

 濠の向かい、橋のたもとには門卒が控える。狴犴でなら一足跳びに越えられるが、礼にのっとって正面から入城する。衛士は異形の獣を連れ首桶を携えた二人を見て居住まいを正し深々と腰を折った。


 大きく軋んで橋桁が降りていく。中点から左右に分割され揚げられているので、こちら側からも鎖を緩め下げていくと、合致する音を轟かせ白光に輝く荘厳な道が完成した。泛仁は足を踏み出し、続いて瓉明も後について進む。


 ここまで来るとこの宮の形状は上から見たときのようには掴めない。大きすぎる、と左右を見渡した。四泉の宮城も大きいがどちらかというと縦に長い造りなので、このように地平を埋めるほど横に広がってはいないのだ。

 橋を渡りきると下官が幾人か待っていた。狴犴を預かると言われたものの、泛仁は首を振る。瓉明ははらはらと獣を見た。安易に触れたら危ないのでは、と危惧したが、兵卒たちは彼の一挙だけで身を引いた。


 泉畿は央軍に預けられたと聞いたが泉宮は中立なのかこちらが使者だからか、だれも西軍主将の泛仁を捕らえようともしない。堂々と内へ入って随分と歩き、奥へ奥へと進んで行く。朱塗りの門前まで来て、ついに瓉明は足を止めた。



 泛仁が肩越しに見遣る。受けてひざまずいた。

「……私はこれ以上は、進めません」

「許す」

「なりません。この先は後宮でございましょう?他国の者が軽々に足を踏み入れていい場所ではございません」


 門が開いていく。両開きの扉は重厚な音を立てて内側へと、二人を招かんと開け放たれる。


 俺が、と正面に延びる長大な走廊ろうかを背にして向き直った。


許すと言っている」


 言の裏を測りかねて瓉明は眉尻を下げる。泛仁は手を差し出した。


「――――次代五泉主の俺が構わないと命じている。朔瓉明、共に来い」


 動揺する彼女とは相反し、彼の表情は寸毫すんごうも動かない。ただ外光に反射してきらめく黄橡きつるばみ眼睛ひとみだけに漲る生気を表し、一切の拒否を受け容れない気を纏わせていざなう。

 迷って動けない女に男は近づく。床についた手を取って立たせた。ほんの少しだけ握る力を込める。

「来てくれ」

 囁いた声は、震えていなかったか。


 目を合わせず、一瞬の後に背を向けた泛仁は大股で歩き出す。まるで瓉明が絶対について来ると疑っていないような足取りだ。それでひとつ息をつき、それから深く吸い込む。意を決して踏み出した。





 禁域に入り込んでもうしばらく経つ。後宮は外朝と違い薄暗い。実際にそこかしこの隔扇まどには紗羅簾うすまくが垂らされて光はぼんやりとしか入ってこないのだ。壁があり天花板てんじょうがあるので狴犴には少々手狭かもしれないな、と前を行く背と獣を見、瓉明は無人の石床に足音を響かせながら歩いていく。

 しかし人を見ない。要所の角にしつらえた香炉からは真新しい煙が立ち昇り、階や露台は掃き清められたばかりのように塵一つないのに、人っ子一人通り過ぎさえしない。これだけ広大なら侍官や宦官かんがんが歩き回っていていいものだが、と思っているとついに北の一郭に踏み入った。


 石筧かけい蹲踞つくばいに注ぐ水の音しかしない、どこか薄気味悪い沈黙の宮を進み、とうとうまたひとつの門扉の前に到着した。ここには両脇に門卒がいて少なからず安堵する。

 開かれた正庁ひろまの中は薄暗く、目を慣れさせようと瞬いていると泛仁が身を折る。慌てて倣うと奥からぎしりと何かが軋む音がした。


「……入れ」


 しわがれつつも朗々とした老人の声が微かに聞こえた。泛仁は再度深々と頭を下げる。すっくと立ち上がり、毅然と前に進む。続いた瓉明の後ろで扉が閉められた。


 前方にわずかな光を受けて壇上が浮かび上がっている。壇下に額づいた客人に再び声がかかった。

「……首を」

 泛仁は身を起こし首桶を前へ差し出し、ゆっくりと目線を正面へ合わせる。

「――泉帝陛下。広清膂兒の首、たしかにお持ちした。処分を西軍にお任せくださり感謝申し上げる。……しかし、話はこれでは終わらぬ」

「……どういう意味か」

 泛仁は衿内えりうちに手を差し入れて紙束を取り出した。


「広清膂兒は央軍、東軍と内通し篩別の儀をけがした逆賊だ」


 瓉明は驚いて斜め後ろから彼の横顔を見た。

「どういう……ことですか」

 思わず口に出してしまい、慌ててつぐんだのにも重々しい呼びかけがある。

「……そなたが、淕朔瓉明か」

「はい。拝顔賜り恐悦でございます、五泉泉帝陛下」

 ぱちりと何かが鳴り、瞬く間に明かりが灯る。急に照らされて視界を失くした瓉明の耳にさらに五泉主の言葉が響いた。

「女人の将とは、愉快。是非に腕を見せてもらいたいもの」

 顔を上げた瓉明は壇座すのが一人ではなかったことにまたも驚いた。簾の下げられた玉座の両脇には、綺絹あやぎぬに身を包んだおそらく妃嬪と思しき女たちが控えていた。


「嘘ですわ。膂兒が密偵の真似事などするわけがない」


 鈴を転がすような声で言ったのはそのうちの一人で、胸から上は見えないがおそらく広清の母親と思われた。

「泉主、殿下は嘘をついておられる。信じてはなりません」

「お控えくだされ小寛美人しょうかんびじんかしこくも婕妤しょうよの御前でありますぞ」

 今では広清の母は妃嬪に加えられているらしい。泛仁の母付きの女官にたしなめられて、だって、と幼子のようにねた。

「……嘘ではない」

 言った泛仁を簾越しに睨んだ。

「膂兒はあんなにそちに懐いておったではないか!それなのに平気な顔をして手ずから首を差し出してくるとは。忠義を誓った麾下きかを無下にあしらい邪険にしておれば、篤信も離れようというもの。たとえ不義がまこととしても、身から出た錆なのですわ」

「……小寛美人。貴君が膂兒に指図した」

 ざわりと空気が揺れた。

入内じゅだいしたはいいが御子を授からず腐心していた。そのままゆけば降格、廃妃となる。央軍に加勢すればそれを免じてやるとでも言われたか」

 次いで視線を王の隣へ向けた。

「――湶后せんごう陛下。いかがか」

「…………よく出来た妄想じゃのう。己が不利になってきて焦っておるのかの」

 正妃は扇をかざして含み笑った。

「証拠はある」

 泛仁は紙片を示した。「膂兒が央軍と内通していた書簡を手に入れた。加えて央軍が東軍と連繋れんけいするのに橋渡しをした文も」

たばかりだ!東軍はなにも存ぜぬ!」

 激昂した別の声は端から響いた。まったく表情を変えることなく泛仁は正面を向く。

「ひと月ほど前、東軍は西軍の奥深くまで入り込み殿軍しんがりを突如として急襲した。寸分も近づいているというしらせは無かった。誰かが故意に本営に届けなかったということ。そして我が軍の殿軍を任せていたのは膂兒だ。同時に、西軍陣地の北辺を飛ぶ見覚えのない伝鳩とりを俺の配下が落とした。そのあしには、西軍を南北から挟撃するようにという文言の伝書が括り付けられていた。……それが、これだ」

 もう一枚を取り出して広げたところで、正庁は一気に色めき立つ。

「そんなもの、証拠にはならぬ!全てそちの悪巧みよ!」

「現に殿軍が襲われた時、膂兒は軍を離れ迂遠して央軍と合流しようとしていたが、我が主軍が南の異変に気がつき移動しているところへ鉢合わせし慌てて取り繕った」

「迷妄もここまで来れば救いようがないの」

 湶后が微かな苛立ちを滲ませて言った。

「獬豸を与えられたぶん寡兵での出征、さらに起伏激しく守りも攻めも難しい西の地を与えられて不満があったようじゃ。泉主、第二公子はひどくお疲れなのでは。西軍に降伏勧告を出してはどうです?」

 波のような嘲笑が広がった、が、


「なにより、朔将軍がここにいるのが証だ」


 水を打ったように静まりかえった。

「……というと?」

 重々しい泉主の促しに瓉明を振り返る。

「膂兒は央軍と東軍の間者として立ち回り、西軍に協定違反を犯させることで必然に失格させ排除しようと思いついた。朔将軍のことをどこで聞いたかは知らないが、そのほうが手っ取り早いと。さらに我らを挟撃で潰そうとした。しかし獬豸を与えられている西軍が苦境に立たされたといえ二軍と比べてあまりに劣ったように見えては疑われるから、朔将軍を協定違反の原因にすると同時に西軍に参与させ力の均衡を図ろうとした。だが、将軍の到着が予想より遅れたか、東軍の攻撃が早かったのか、泉畿へ奏上するのが間に合わなかった。だから事が露見して失敗した」

「東軍が央軍と手を取り合うことなどあるものか。二公子に退いて頂かなくては第三公子が王位を継ぐことは不可能なのだから」

 きんきんと耳に響く怒声で叫ばれたがそれでも首を振った。

「であるから、膂兒は最終的には東軍をも裏切るつもりだったろう。東軍は分かっていて利用したのかもしれない。東軍も央軍もとりあえずは勢力を減らしたいと望んでいて、ともかく西軍を潰そうとしたのだ。さすれば獬豸隊も振り分けられる。小寛美人、膂兒は死ぬ間際まぎわたしかに言っていた。初めから王太子に仕えていれば良かった、と」

 簾から覗く拳が震えた。それから座ったまま身をひるがえす。

「泉主、姉上、これは誤解でございます。私は断じて篩別の儀に一切関わってございません!第二公子の訴えは全てが予想に過ぎません!」

「……ではその書文はなんなのだ、美人よ」

「あ……あんなの、贋物にせものです!」

「誰が虚偽を言っているのか、泉主にはそれを測ることが出来るはずだ」

 泛仁はまばたきなく見据えた。


「――――泉主の獬豸をお出しください」




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