〈八〉



 戦慄した空気に瓉明は戸惑う。場が一気に凍ったように動かない。

「泉主の、獬豸?」

 呟いたのに泛仁は小さく頷いた。

「獬豸は群れで行動し、必ず長がいる。長の主となれば群れを掌握したと同じ。泉主は群れの主、獬豸百頭を隷下に置いている」

「それで……その狴犴を連れてきてどうなさるのです?」

 泛仁が連れてきた一頭もここにいるが、と示したところで、


「朔将軍。なぜ五泉では狴犴のことを獬豸と呼ぶのか、気にはならんか」


 ふいに壇上から声をかけられて瓉明は慌てて伏した。

「申し訳ございません。いまだ状況を掴めておらず」

「良い。では客人の為に見せよう」

 それには女たちがざわめく。

「泉主、しかし、しかしですね、このような場に」

「このうえ宮にあれを入れるなど」


 かまびすしいどよめきを無視して五泉主は手を挙げた。ひとつを残して全ての扉が閉められる。

 なおも子犬のように不満を言い立てる妃嬪たちのなか、泉主を挟み正妃の反対に座す泛仁の母親だけが息子を見つめ続けて動かない。


 ごとり、と重くて冷たい鎖の音がした。やがて、振り返った門扉の奥の暗がりから何かが近づいて来る。――濃い獣のにおいが。


 無意識に剣柄たかびに手を伸ばそうとして、武具は後宮に入る時に預けたのだと気がつく。そんな瓉明をちらりと一瞥し泛仁は道を開けるよう促した。



 不思議な一角獣だった。姿形は獬豸隊が連れていたものと相違ないが、体毛が白ではなく黒い。何より三倍はおおきく虎というより牛のようだった。そして他とは違い額にはがね色の角がある。四肢には鎖が嵌められ、口吻も拘束具で閉じられている。

 地鳴りを響かせ壇下に歩んで来たが両眼が潰されていることに瓉明は眉根を寄せた。長というにはあまりに虐げられた、その姿。


「……口輪を外せ」

 指示に連れて来た甲冑姿の武官が慎重に金具に手をかける。妃嬪たちが互いを抱きしめ合って恐々と後退あとじさった。


 しばらく、獣に動きはなかった。鼻をひくつかせ、頭を上向ける。そして大口を開けると同時に、正庁ひろまが揺れるほどの咆哮を発した。風が逆巻き女たちが悲鳴をあげる。簾が打ちつけ一部が折れた。巨獣が床を踏みしめる震動が伝わる。

 目隠しは巻き取られ、高貴なる人々があらわになる。瓉明は顔を下げた。

「良い、四泉の。気を遣うことはない。儂はおぬしの主ではない」

 聞こえた声は先ほどよりもはっきりとしていて生気があった。おずおずと見ると、まさに百官の頂点に君臨する王の威風をそなえた男が玉座で頬杖をついていた。老爺という言葉はそぐわない。武人が見ればすぐに分かる、堂々と胸を反らした体格の良い、尋常ではない手練てだれの気配。


「……さて、では『獬豸』。はじめるとする」


 泉主が階の下に降り立つ。それを受け、目の前の奇獣は犬のように座り込む。

「第二公子、前へ」

 泛仁が進み出た。咬みつかれれば、あるいは鉤爪かぎづめを振り上げられればただでは済まないほどの距離で潰れた瞳を見上げた。


「この者の言うことはまことか」


 静寂に泉主の声だけが響く。獬豸は沈黙していた。鼻がせわしなく顔前に立った人物のにおいを嗅ぐ。少し開いた、牙をつたって垂涎している口はただなまぐさい息を吐いている。


「……央軍と東軍が結託していると俺が直訴したのは真実か」


 獬豸が盛大に息を吐き、風で泛仁の髪と衣がはためく。


《――――


 腹の底に沈むような音が空間に響動とよめきわたって瓉明は顎を落とした。言葉を発した。獣が。


「膂兒が最期に言った『初めから王太子に仕えていれば良かった』という言を俺はたしかに聞いた。真実か」


《――――是》


「俺の奏上ことごとくが謬妄びゅうもうというのは誤りだ。それは真実か」


《――――是》


 泛仁は壇上を振り返り、人々を見渡した。

「……これで分かったろう」

「う、嘘……」

 青褪めた小寛美人がおののく。泉主が手を振り、近衛によって壇下に降ろされる。

「いや‼泉主‼お許しください‼」

 泛仁はひたと目を向けて口を開いた。


「獬豸。小寛美人は広清膂兒に西軍をおとしいれるよう指図などしていない。真実か」


《――――いな


 獣は答えた途端、猛然と唸り頭を振りかぶった。正確には、その角を突き上げた。角先は悲鳴の形に口を開けた女を引っかけ宙に放り飛ばした。

 絶叫したつぶては重力に従い、嫌な音を立てて床に叩きつけられる。しん、と静まった場で湶后が叫び声を上げて椅子から転げ落ち、主の前にまろび出た。

「泉主、泉主‼どうぞお許しを!私は確かに小寛美人に廃妃を避けるすべがあるとは言いましたが、あれが息子を使ってこんな大それたことをするとは思っておりませんでした!本当でございます!」

「獬豸。湶后陛下は小寛美人がしたことを本当に何も存じ上げず、西軍が罠にかけられるなどとは予想だにしなかった。真実か」


《――――否》


 再び獣が頭を上向ける。しかし豪速ごうそくの凶器は甲高い音を響かせ止まる。黒真珠の角にかかる白刃がそれを止めたのだ。

「もう良い」

 主の制止に獬豸は不満そうに唸った。泉主はじろりと息子を睨み、獣に言った。

「儂は息子たちと妃たちの策謀を全て知っていた。まことか」


《――――是》


 六たび答えた獬豸は何事もなかったようにすっと姿勢を正した。泛仁が父を見て微かに瞳を大きくする。泉主は獬豸を退げるよう命じ、周囲を見回した。

「儂は妃たちの暗躍と、公子たちの近況を全て把握していた。ゆえに問答はもはや無意味だ」

「……知っておられた……?」

 瓉明が腰の砕けた湶后に手を貸しながら振り仰いだ。

「五泉主は、私のことも?」

「無論だ、朔将軍。軍備厚きこの五泉に他国の者が易々と入れるはずもなかろう。その上で、おぬしがいったいどうするのかと様子を見ておった。そのまま帰れば良かったものを、節介がすぎるぞ」

 泉主は剣を収めて向き直った。

「仁、なぜ広清の助命を嘆願したりなぞした。お前が読んでいたようにあれは義と公正のもとに行われる神聖な篩別しべつけがした不届き者ぞ。事が露見した時点で斬って捨てていればもっと儂の歓心を買えた」

 泛仁は無表情に顔を逸らした。

「……膂兒は、閨閥けいばつゆえ」

「儂が手加減するとでも?」

「……ご一考の余地はあった。婕妤に免じて」

 見上げれば、当人は憂いを帯びた顔で俯いた。

「泉主。いま全てが公になった。篩別の儀は終了だ。王太子と三子を捕らえ、僭越にも関わった妃嬪たちに断罪を」


 慟哭どうこくが響いた室内、瓉明はやるせない思いで五泉の人々を見回した。やぶれた王の子は捕らえられ命を奪われなければならない。泛仁が玉座を手にする為に。





 妃嬪たちが退場し、影が消えて行くのをぼんやりと眺めて、

「五泉主……せめて、第三公子のお命だけは、なんとかならないのでしょうか。継承順位は泛仁殿下の次でございますれば、無闇に泉根を摘んでしまわずとも」

 気がつけば口からはそんな言葉がとび出していた。泉主と泛仁の視線を浴び焦って額づく。

「申し訳ございません、出過ぎたことを」

「……ほんに出過ぎた、朔将軍。慎め」

 泛仁の温度のない言葉が降り、瓉明はぎゅっと目をつぶる。泉主が嘆息した気配がした。

「すでに兄に刃を向けたことは変わらぬ」

「刃を向けていなかったら、見逃したと?」

 泛仁はさらに冴えた目線を投げた。それを受けても泉主はほんの少し口を歪めただけで答えない。


「……本来ならば、こんな大層なときをかけて篩別などする必要はない」


 ぴくりと泛仁の指が動いた。はっ、と瓉明が気がついた時には息子は父の手から剣を奪っていた。悠々と構える。

「現泉主の首をった者を次の泉主にすれば話は恐ろしく簡単だ。おそらく我ら三公子、同じことは一度ならず思ったはず。勘づいていたから開戦のおりも貴方は姿を見せなかった。息子が死にに征くというのに」

 泉主は大笑した。

「儂を殺せると?」


 風の刃に泛仁は体を傾がせた。掠めた頬に赤い線が走る。そのまま回転して受身を取るが次なる疾風の斬撃が彼を襲った。針の尾は鞭のように衣を裂き、皮膚をえぐる。たまらず瓉明は叫んだ。

「殿下‼」

「王を殺すという。大きな口を叩くようになったものだ。儂を敵に回すということはこの地の獬豸を全て相手せねばならぬという意味だぞ、分かっておるのか、息子よ」

 泛仁は返事をする余裕もない。気を抜けば広清の二の舞になる。鋼のごとく硬化した尾は刃を通さず、刀身はただ打ちつけて火花を散らすのみ。さらに真っ赤な口腔で標的を喰らい散らそうと唸り声を上げた。

 狴犴と真っ向から戦うなど、ましてこのような近距離で。なんとか止めたいと願う瓉明だったが、泉主は笑みを浮かべて息子と獣の闘技を眺めているだけだ。どうしよう、助太刀すべきかと迷い、汗を散らして猛虎と相対する泛仁が鋭利な爪でくびを浅からず掻き裂かれたのに瞠目どうもくしたとき、ふいにか細い声が耳をよぎった。


「おやめ……ください」


 制止に場の動きも止まる。泉主は壇上にただひとり残った者を見上げた。

「…………泉主。どうか、おやめください。それは、次の王です」

 憂い顔の女は椅子の下で震えながら座り込んだままだ。白露が目尻から零れて床に落ちる。

大寛だいかん婕妤……」

「泉根を、枯らしては、民が死に絶えます……どうか……」

 哀願する妻に夫は近づく。喉を押さえて苦しげに咳をししぼませた細い肩を抱いた。

「…………良かろう。他ならぬお前の頼みなら」

 はらはらと泣きながら何度も頷き、泉主の腕にすがった婕妤は息子を見下ろす。

大尊たいそん

「……はい」

 剣を置いて腰を屈めた泛仁は血の滴る額を拭い、息を詰めてひざまずく。


「おきなさい」


 めいに深々と頭を下げた。


「五泉四百五十万の魂、しかとうけたまわった」




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